田園風景博物館 The Museum of Country Landscapes

イギリス館 The United Kingdom

19 Moor

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1 Moorを、どう訳すか

Moorに対し、英和辞典では「荒れ野」「荒れ地」といった訳語を当てているが、なかなか実際の景色を想像できない。風当たりにもよるが、ブリテン島では標高が三〇〇メートル前後を超えると、緑の牧草地からヒースやイネ科の草原に、植生ががらりと変わる。そこがMoorだ。田園景観保全論の大御所ブリン・グリーン教授の説明では、かつてその一帯も森に覆われていたが、樹木の伐採によって森が後退し、長い年月を経て、いまのいわば半自然の生態景観になった、と言う。

 お手近に地図があったら確かめていただきたい。ロンドンが北緯五一度三〇分、スコットランドのエディンバラが約五六度である。極東で言うと、樺太島の北部からオホーツク海に至る緯度に等しい。メキシコ湾暖流の影響で、イギリス諸島の気温は日本とさほど変わらないが、標高差は絶対的で、Moorとなると厳しい天候が支配する世界だ。「荒れ野」では標高差の実感がなく、「荒れ地」では意味を誤解する恐れがある。

 だ。「荒れ野」では標高差の実感がなく、「荒れ地」では意味を誤解する恐れがある。

 適当な日本語がなかなか見つからない以上、コテージやガーデンと同様に、英語のまま「ムア」と言うしかない。いや、その発音も問題だ。日本の辞書では普通「ムア」としているが、イギリス人の発音は「モア」または「モー」と聞こえる。

2 国立公園探訪

ムアは人間の居住を寄せ付けない。外国人にとってなかなか理解しがたいが、このムアに対するイギリス人の想い入れは特別だ。上天気の時はもちろん、強風と横殴りの雨という悪天候でも、そこに、子どもから大人まで、少なからず人影がある。イギリス人をして、ムアに向かわせるものは何か。

 イングランドを代表するムアと言えば、南西部にエクス・ムアとダート・ムアの二つの国立公園がある。国立公園と言っても、例によって指定地域の大部分をヴィレッジや牧草地が占めている。そして、一定以上の高度になると、緩やかに起伏するムアが連なるのである。

 私たち夫婦は、そこを、秋と春の二度訪問した。南のダート・ムアに初めて宿を取ったときのことだ。一夜あけると、予報の通り、雨混じりの強風である。こういう日は宿で静かにしているものと思っていたら、いつの間にか宿泊客は皆出かけて、宿が空っぽになってしまった。私たちだけ宿にいるわけに行かなくなり、悪天候の中、自動車を出した。ヘッジに挟まれたレーンを進むと、路面には、風で引きちぎられた小枝や葉っぱが散乱し、ときには大枝が横たわって進路を遮っていた。さらに進むには、もちろん車を降りて枝を除けなければならない。大木が風でもみくちゃになり、折れた枝が車を直撃しないか、つい、前方より頭上が気にかかる。そして急な坂道を上り、レーンの両側のヘッジが途切れると、いよいよムアだ。

 雨と霧で前方がよく見えない … と、強風と雨の中でじっとして動かない黒い影 ― 野生の馬だ。このとき初めてムアを実感した。

 天候が変わるのも早い。翌日は雲一つない上天気で、私たちはムアからの眺望を楽しんだ。遠く、向かいの丘との谷あいに、まるでおとぎ話のようなヴィレッジが沈んでいる。高い鐘楼をもつ教会を中心にしたヴィレッジの周辺にはヘッジで区切られたフィールドが広がる。向かいの丘の稜線にも、こちら側と同じ、ムアが連なっており、まさにムアで縁取られた小宇宙だ。私たちはベンチ代わりの石に並んで座り、時が過ぎるのを惜しみながら、景色を眺め続けた。

 イギリス人にとって、ムアは身近にある非日常空間だ。ひょっとしたら、あの世に一番近いところなのかもしれない。

3 『嵐が丘』の世界

 一九世紀前半を生きたエミリー・ブロンテ(1818-1849)の小説『嵐が丘』をお読みになった方が少なくないだろう。私事で恐縮だが、今年一月に急逝した妻の愛読書でもあった。

 「嵐が丘」は原語でWuthering Hights、主人公ヒースクリフが住む屋敷の名称である。風当たりが強いことを意味する方言から名づけたと作家自身が説明するが、この「嵐が丘」こそ、ムアの日本語訳にぴったりだ。

 主人公ヒースクリフHeathcliffという名前も、ムアを連想させる。Heathは、夏、淡い紫色の花でムアの表面を覆い尽くす代表的な植物であり、またムアそのものを指すことも多い。Cliffは崖のことだ。

 「実に素晴らしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ」(河島弘美訳、以下も同じ) ― これが、三〇歳を過ぎたばかりでこの世を去らなければならなかった作家が残した唯一の作品の出だしだ。

 物語が進むと、いまは亡き恋人の影を窓の外の暗闇に感じた主人公が窓を開け、半狂乱になって叫ぶ ― 「おいで! 入っておいで! ああ、キャッシー、お願いだ。来ておくれ、昔のように! 愛しているんだ。今度だけは願いを聞いてほしい … 」こんなほとばしるような悲しみの感情を、まだ人生経験が浅い二〇代の作家がどうして表現できたのだろう。

4 ハワース紀行

 愛情も、憎しみも、己の感情ままに生き、そして死んでいく登場人物たち … 、彼らと同じように作家エミリー自身の、あまりに短い人生、そして姉妹そろっての作家活動 ― この小説や三人姉妹に対する日本人女性のファンが少なくない。ファンたちはロンドンに到着すると、貸し切りバスでまっすぐブロンテ姉妹ゆかりの西ヨークシャーの町ハワースを目指す。近年、イギリスでこの小説が読まれることはまれで、忘れられたような町に日本人が押し掛けること自体がこの国のニュースになる。かねがね私の妻がハワース行きを望んでいるのはわかっていたが、ニュースを見た私はすっかり興ざめし、訪問を先延ばししていた。

 ようやく、私たちがハワースを訪れたのは、晩秋の、それも雨混じりの悪天候の中だった。ペナイン山脈と地続きのムアに囲まれた盆地に、ひっそり、ブロンテ姉妹の世界があった。私たちしかいない博物館で、妻は熱心に説明を読み、私は冷たい雨で体が冷え、トイレばかりを気にしていた。季節はずれで、まともなレストランも開いていない。午後になるといよいよ雨足が激しく、暗くて、その日一日、一度もカメラのシャッターを切ることが出来なかった。

 あらためて『嵐が丘』を読み返してみると、登場人物と同じように重要な役割を果たしているのがムアの存在である。物語はムアで隔てられた二つの屋敷、「嵐が丘家」と「スラッシュクロス家」の間で展開されるからだ。ところが、ムアにかかわる場面の翻訳がもの足りなくて、今回いくつか翻訳を読み比べ、原作まで引っぱり出すことになった。

 たとえば、`Papa!...guess whom I saw yesterday, in my walk on the moors...'(#21) まず`Papa!' は、上流階級の会話だから、「お父様」と訳したい。`in my walk' は、そこがムアである以上、軽く「散歩」とはいかない。ムアの稜線部は堆積したピート層のため、しばしばぬかるんでおり、足元をしっかり整えて登らなくてはならないからだ。したがって「お父様。きのう、私がムアに登ったとき、どなたにお会いしたかお分かりになって?」となる。

 そしてよく引用される最終場面`...and (I) wondered how anyone could ever imagine unquiet slumbers, for the sleepers in that quiet earth.' (#34) は、「(ムアのすぐ下の)あの静かな大地の下に休む人の眠りはいつまでも安らかであれ、と誰しも願わずにいられないだろう」と訳すのが素直だ。

 

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