田園風景博物館 The Museum of Country Landscapes

イギリス館 The United Kingdom

7 Farmhouse

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1 ファーマーの家

カントリーサイドの住宅には、これまで見てきた農業労働者を住まわせるためのコテージと、ジェントルマンの邸宅であるハウスの他に、もう一種類、ファームハウスFarmhouseがある。もちろん、ファームハウスは、ファーマーFarmerが住む家である。問題は、ファーマーとは誰か … 。

 手近な辞書を引いてみると、「農場主、農家、農民 … 」といった日本語訳がついている。ファーマーは義務教育で英語を習った日本人の多くが知っている英語だ。では、コテージに住む農業労働者とファームハウスに住むファーマーではどこが違うか ― ほとんどの辞書は何も説明してくれない。その違いを理解するためには、やはり、19世紀までタイムスリップしてみるしかない。

 大土地を所有するジェントルマンの関心は、もっぱら広大な農園からの利益であり、生産性の向上を最優先した。農業労働者には過酷な労働を強いる一方で、賃金をできるだけ押さえようとした。家畜や農作物の品種改良も、徹底的に進めた。蒸気機関が発明されれば、直ちにその動力装置がついた農業機械を導入した。圃場区画も拡大し、整形して能率的にした。ときあたかも産業革命の時代、それはまた、農業革命の時代でもあったのだ。

 農業経営が高度化し、複雑になるにつれ、ジェントルマンだけでは対応できなくなっていった。土地を持たない農業労働者は農業経営の知識を持たなかったし、たとえ持っていても、知らない振りをした。そこでジェントルマンは、所有地をいくつかの農場つまりファームFarmに分割し、それぞれ農業経営に詳しい専門家と契約して経営を任せることにした。このような農場経営の専門家、あるいは農場管理人をファーマーといったのである。

2 ファーマーの社会的地位

ジェントルマンとファーマーの関係を現代社会の仕組みでいうと、会社のオーナー社長と工場長の関係である。ときには、労働者の雇用や監督もファーマーに任された。そんなファーマーを住まわせるために用意した住宅がファームハウスである。もちろん、ジェントルマンの所有で、ファーマーからいえば借家である。

 農場管理を任されたファーマーは、労働者の中に埋没してはならない。そこでファームハウスは、労働者のヴィレッジからも離れ、ジェントルマンのハウスからも離れて、孤高を保たなくてはならず、農場を管理しやすくするため、農場の中心に配置された。その規模は、ファーマーの自尊心を損なわないように、コテージより大きく、しかし、ジェントルマンのハウスに比べれば、はるかに小規模だった。

 そして19世紀後半、イギリスの農業経営は、海外の植民地や東ヨーロッパから安い農産物が大量に輸入されるようになって、大きな転換期を迎えた。国会では、農産物の輸入を制限してジェントルマンの権益をまもるべきか、それとも、海外投資家や貿易商の利益をまもるべきか、激しい論争が続いた。しかし、結局、ごく一部の農産物を除いて、食糧輸入の波は止めることはできなかった。

 農業経営が難しくなればなるほど、ファーマーの存在が重要になったが、ジェントルマンたちにとって、農業は、明らかに割の合わない産業になりつつあった。20世紀が近づくにつれ、過剰な農業投資が農業経営をますます難しくした。20世紀前夜、それまで栄華を極めていたジェントルマンは過酷な時代を迎えていた。広大な農園は、かえってジェントルマンのお荷物になり、没落して、農園を手放したり、ハウスから去らなければならないものも出てきた。

3 二〇世紀のファーマー

この傾向は20世紀にはいると、ますます加速し、結局、ジェントルマンのほとんどの領地は農場ごとに分割され、ファーマーたちに分譲されていった。政府も、貿易自由化の代償として、ジェントルマンが農園を売却しやすいように、また、その一方でファーマーが土地を取得しやすいように支援した。

 さて、念願の土地を所有することになったファーマーは、自らの力で農業経営に専心できるようなった。とはいえ、20世紀のファーマーは農業労働者を雇用する経済力はなく、経費を節減するため、ほとんど家族労働の範囲で経営に当たらなければならなかった。

 19世紀のファームハウスは住宅としての機能しかもっていなかったが、20世紀になると、ファーマーは自力でファームハウス周辺に納屋や作業場、家畜小屋、機械庫といった付属舎を増築し、今日見るような、建物群としてのファームハウスの姿を作り上げていった。

 あらためて、19世紀後半のイギリス・カントリーサイドを振り返ると、そこには、ジェントルマン、ファーマー、そしてコテージャーの3階層が存在し、それぞれハウス、ファームハウス、そしてコテージに住んでいた。そして今日、そこで農業を営んでいるのはファーマーのみである。コテージやヴィレッジの住人は、ほとんどが都心に通う勤労者か、都心につとめる必要がなくなった引退者で、農業とは直接関係がない人々だ。

4 現代の農業問題

 かくして、20世紀のファーマーは土地と家を所有し、かつ、家族労働主体の農業を営むようになった。このとき、はじめて日本の農家の姿と重なり、日本語に「農家」と訳しても問題がない。

 日本では、自ら住む家を持ち、生産のための土地を所有し、作目も自分で選択するという農家の姿は、すでに17世紀初頭にはできあがっていたと推定される。それも「自立小農」という考え方で、必要最小限の限られた農地を家族労働によって耕すのを原則とした。

 家族労働を主体とした農家の所有地の規模はほぼ一定し、水路や農道を共同して自主管理する平等村こそが理想だった。武蔵野台地の新田村は、その典型例だ。上農といわれた村の指導層であっても、せいぜい一般農家の2倍程度の土地を所有しただけだった。近代化と、それに伴う貨幣経済の浸透で平等原理はかなり変化し、地主層と土地を借りて耕作する小作層に分解した地方もあったが、たとえ小作農であっても農業経営のノウハウを堅持し、土地を購入する金を準備できれば、いつでも自作農の仲間入りができた。

 繰り返しになるが、土地を所有するファーマーないし農家の誕生という点で、日本は、かのイギリスより少なくとも200年以上先行していた。私は、イギリスをはじめ、中国や東南アジア、ロシアなど世界の農村を調べたり、ところによっては実際に見て回ったが、密かに、日本の農業・農村こそが、歴史的に世界の最先端を歩んできたのではないかと確信するようになり、つくづく日本の歴史に感謝してきた。

 食糧の国際依存という点ではイギリスが大先輩だ。現代のファーマーも、19世紀後半のジェントルマンと同様に安価な外国産の農産物と競争できずに経営難に陥っている。市民や政府は直接ファーマーを支援したいが、国際関係がそれを許さない。かつてのような大農経営に立ち返ることはできず、いまの農業を細々続けるしかない。後継者の問題もある。後継者がいなければ、新しい農業希望者を見つけて農場を売却しなければならない。

 美しい田園風景を継承しようとしたら、日英共通に、農家個人の問題であると同時に、社会的問題でもあるのだ。

 

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