田園風景博物館 The Museum of Country Landscapes

イギリス館 The United Kingdom

5 Village

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1 ジェントルマンのヴィレッジ

コテージが集合して、ヴィレッジVillageを形成する。例によって、イギリス田園紀行に際しては、19世紀的感覚を呼び覚ましていただこう。

 すでに、本シリーズ第1回で紹介したように、コテージは地主階級であるジェントルマンの所有物で、ジェントルマンの農場で雇用される農業労働者、すなわちコテージャーに貸し与えられた住宅だ。そのコテージが集合してヴィレッジを形成するのだから、そこはそっくりジェントルマンの所有だった。ヴィレッジには教会や小学校も設置された。いずれもジェントルマンの負担で、ことに教会はジェントルマンが信仰するイギリス国教会派だったことはいうまでもない。ヴィレッジの労働者たちはジェントルマンへの忠誠心を示すために、国教会の信徒を装わなくてはならず、労働者は経済的にだけではなく、精神的にも、そして子弟の教育面でも、ジェントルマンに従属を強いられた。

 ヴィレッジの日本語訳は、ふつう、「村」だが、日本の村とは、かなり実態が異なっていた。当方では地主層も、小作農も同じ集落に住んでいたし、村人は、必ずしも村にあるお寺の信徒である必要はなかった。

 したがって、イギリスのヴィレッジに住んでいたのは農業労働者のみで、地主階級であるジェントルマンの住まい、つまりハウスHouseは、ヴィレッジから離れていた。というより、正確にいえば、ハウスから離れたところにヴィレッジが配置された。広大な農地を労働者に耕作させるため、ジェントルマンは所有地のあちこちに、ヴィレッジを配置していったのである。

 同じコテージの集合体でも、規模が小さければハムレット(小村)Hamletと呼ばれる。両者を区分する明確な戸数は決まっていないが、教会があるかないかがおおよその目安になる。この教会だが、ヴィレッジ住人の戸籍を記録していたので、教会を単位にパリッシュ(教区)Parishといういい方もある。

2 ヴィレッジの歴史

歴史のおさらいになるが、今日見るようなイギリスの田園風景は、16世紀から18世紀にかけて、ジェントルマンによるエンクロージャーEnclosure、つまり囲い込み運動によって形づくられた。中世には、農民たちPeasantsが森を開拓し、定住して農業を営んでいたが、そこをジェントルマンたちが囲い込み、農民たちを、土地を所有しない労働者に追い立てていった。「持てる者」と「持たざる者」の階級に分かれていったのである。一旦、古い住宅のほとんどが取り払われ、ジェントルマンによって再配置されていった。

 ヴィレッジの形態は、コテージが塊状に、あるいはストリートStreetをはさんで列状に集合するのが一般的だが、ときには一戸ないし数戸が孤立していることもある。いずれにしてもジェントルマンの美的感覚のなせる技である。コテージはジェントルマンが囲い込みの後で建設したはずだが、中には12世紀、13世紀までさかのぼるものも残っているというから、ジェントルマンの気まぐれか、囲い込みを逃れた、数少ない自由農Free Peasantのものだということになる。

 イギリスで囲い込み運動が盛んだった17、18世紀といえば、日本で新田村の開発が盛んだったころだ。本田村はそれより歴史が古いから、日本の農業集落の多くが、イギリスより長い歴史をもっているといっていい。さらに、すでにたびたび触れてきたように、日本では16世紀以後、原則として農家一戸一戸が土地と住宅を所有するようになったから、日本とイギリスでは田園地帯の経済基盤が全く異なっており、19世紀半ばのイギリスの社会状況をみて労働者の団結を呼びかけた、かの革命家が、もし日本の実情を知っていたら、その古典的な著作を書き換えなくてはならなかったかもしれない。

3 美しきミルトン・アッバス

イギリスで一番美しいヴィレッジをあげるなら、私は密かに、ミルトン・アッバスMilton Abbasではないかと思っている。美しい大聖堂Cathedralで有名な、イギリス南部のソールズベリから南西方向に約40キロ、そのヴィレッジはイギリス在住の友人からの推薦があって立ち寄ってみたのだが、あいにく、幹線道路から脇道に入ったあたりから激しい雨に見舞われた。山あいのくねくね曲がった狭い田舎道を抜けると、緩やかな傾斜地の頂部に出た。一直線に下るストリートStreetの両側に同じ形のコテージが規則的に並んでいる。そこが、目指すミルトン・アッバスであることは、その特色ある集落形態からすぐ分かった。車をストリートの片側に寄せ、写真撮影のため、じっと、雨が止むのを待った。この雨は上がる ― イギリスのカントリーサイドを回っていると、天候の変化に対する勘がはたらくようになるのだ。

 雨宿りの車中で、遅い昼食用のサンドイッチを頬張りながら小一時間も待っていると、案の定、突如雨が小降りになり、雲の切れ間から青空がのぞきはじめた。そして、瞬く間に、まぶしい午後の太陽の光がヴィレッジを、そして背後に迫る晩秋の山並みを包んでいった。

 どのコテージの壁面も真っ白にペンキが塗られ、出入り口のドアや窓枠には思い思いの鮮やかな色彩が塗られている。コテージとはいえ、かなり大きな構えだ。寄せ棟の屋根は藁葺きで、雨に濡れて黒々している。棟のおさまりは職人技が冴え、じつに繊細だ。イギリスではめずらしく、通りに面して、あるいは隣家との境にはヘッジもウォールもなく、雨に洗われて生き返った緑の芝生がひろがっている。ささやかなガーデンはコテージの裏側だ。まったく同じ形をしたコテージが十数棟ずつ、ストリートの両側に同じ間隔をとって並ぶ。ヴィレッジの入り口に小さな商店があり、中央に小さな教会と小学校、そしてストリートを下った家並みのどん尻にやや大きな建物が集まったファームハウスFarmhouseがあった。

 周辺を山々に囲まれ、まさに小さな理想郷を形成している。後で調べると、ここが開発されたのが18世紀だというから、囲い込み運動の最末期のヴィレッジだということになる。

 この、宝石箱のようなヴィレッジの存在は、誰にも教えまい…、正直、そのとき私はそう決心した。集落形態といい、色彩といい、天候の劇的な変化といい、この感動は誰も分かってくれないだろうと思ったのだ。

4 変わらない田園風景

イギリスの、現在の田園風景は150年前、200年前に形成された当時のままの風景だ。都市・田園地域計画法の厳しい規制があって、勝手に家を建て替えたり、看板を出したりできない。田園風景を維持することが、イギリス国民の合意になっているのだ。建物は、新しいものでも100年、150年の歴史を刻んでいる。

 日本では、20数年で家を建て替え、電柱を建て、看板を出し、中央政府からもぎ取った補助金で巨大な構築物を建てまくる。それも形ばかりの都市計画法の規制すら逃れ、相変わらず「開発、開発」の大合唱だ。住人も役人も、「風景では景気対策にならない」と素っ気ないから、農村本来の魅力が失われるばかりだ。

 イギリスの田園地帯を旅していると、「景観は政治的メッセージである」ということを、つくづく思い知らされるのだ。

 

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