田園風景博物館 The Museum of Country Landscapes

イギリス館 The United Kingdom

10 Road

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1 くねくね曲がるロード

ロードも、すでに日本語の一部になっている。訳語は「道路」「幹線道路」「街道」といったところで、前回のレーンより悩まないですむのは自動車という世界共通の交通手段が普及したおかげだ。ただし、それは現代の状況についていえることであって、歴史的な存在については一筋縄ではいかない。

 手許の引用句辞典に、つぎのような詩が紹介されている。

  Before the Roman came to Rye or out to Severn strode, /

  The rolling English drunkard made the rolling English road.[DQ109;30]

 この詩の作者は、19世紀末から20世紀前半(日本でいうと明治時代)を生きたチェスタートンG.K. Chesterton, 1874-1936なる御仁で、別な辞典によると評論家・小説家・詩人・ジャーナリストと、ずいぶん多くの肩書きを持っていた。引用文は詩の一部だから日本語訳は慎重を期さなければならないが、ほぼ、つぎのようになるだろう。

 「ローマ人がライの海岸に上陸すると、それまでの、酔っぱらいが歩くようにくねくね曲がっていたイギリスの道路を一跨ぎして、セヴァーン川まで占領してしまった … 」、あるいは「イギリスを征服したローマ人がまっすぐな道路をつくる以前のイギリスの古い道路はくねくね曲がっていた」

 念のために、イギリス在住の友人に問い合わせると、「イギリスではかなり有名な詩だ。押韻に注意するように」という助言が返ってきた。

 あらためて読み返すと、第一句では、RomanとRye、Severnとstrode、第二句では、the rolling English...が繰り返され、drunkardとroadが対応している。さらに、第一句と第二句を対照させると、Romanとrolling、cameとmade、そして、それぞれの末尾strodeとroadが対応している。確かに、心地よい韻が踏まれている。

 しかし、詩としての技巧のわりに、それも20世紀に入ってからの詩のわりには、時代考証が怪しい。

2 ローマ人の街道

ローマ軍が、イギリス海峡を渡って、はるばるブリテン島に侵入したのは紀元43年、さっそく、道路建設にとりかかった。ある発掘調査によれば、典型的なローマ人のロード、すなわちローマ街道Roman roadsはつぎのような構造をしていた。まず、80フィートの間隔を置いて側溝が掘られ、その中央に幅40フィート、高さ3フィートの土塁を盛る。その上に石をならべて路盤とし、さらに砂や粘土でならした後、表面に砂利などの舗装材を敷いた。1フィート(本来、単数はフット)は約30cmだから、有効幅だけでも10mを超える。いま、自動車で走ったとしたら、高速走行のまま、すれ違えるだろう。表面を敷石で舗装した例も発掘されている。

 ローマ街道の、もう一つの特色は、その直線性。すべてがそうだったというわけではなかったが、ノーフォーク州のペッダー道Pedder's Wayの場合、70km近い区間が、ほとんどまっすぐだというから、我が新幹線も顔負けである。そして、一マイルおきに設置されたマイル・ストーン … 現代の自動車専用道路に勝るとも劣らない、立派な構造である。

 こんな最果ての地までやってきたうえに、彼らは、なぜ、このような厄介な道路を築かなくてはならなかったか。いうまでもなく、最前線に兵や食糧、そして武器を素早く、かつ効率よく補給し続けるためだった。軍隊とは、想像を絶する負担を自国民や被征服民族に強いるものだ。おかげで、たちまち先住民族のケルト人を北の果てのスコットランドや西の果てのウェールズ、南西部のコーンウォールへ、さらには海を越えてアイルランド島へと追いやることができた。

 詩人がいった'The rolling English drunkard'とは、この先住民族、ケルト人のことか。いや、ケルト人が飲んだくれだった証拠はないし、彼らが造った道がくねくね曲がっていたという考古学的な検証も充分ではない。

3 中世から近世へ

権勢を誇ったローマ軍も、5、6世紀には、ヨーロッパ中央の出身であるゲルマン系のアングロ・サクソン族の攻撃を受けるようになり、426年には事実上ブリテン島から撤退した。アングロ・サクソン族はローマ軍のようには軍用ロードを必要とせず、かつてのローマ街道はいつしか大地に埋もれていった。アングロサクソン族のロードがどんなかたちをしていたか ― これも、今後の発掘調査を待たなくてはならない。

 そして、1066年、スカンジナビア半島の出身でフランス北西部の海岸地帯に定住していたノルマン人が、イギリス海峡を渡ってブリテン島を征服した。このノルマン人の征服後のロードの全容も、いまのところ、わかっていない。ただ、時代は暗黒の中世、ブリテン島が深い森に覆われていたことは確かで、森の中のロードを旅するのはかなり危険を伴った。しばしば、ハイウェイマンHighwayman(追い剥ぎ)が出没して、旅人の金品を奪ったからだ。彼らこそ、アングロ・サクソン族の抵抗勢力だったともいわれ、伝説上の英雄ロビンフッドも、そんなハイウェイマンの一人だった。

 ここにいうハイウェイHighwayは「天下の公道」のことである。都市と都市を結び、誰もが行き交うことのできる道をいい、いちいち定義が欠かせないロードに比べて、汎用性がある。ところが、どんな事情からか、日本では、自動車専用の高速道路の意味に誤解してしまった。その上、高速道路を管轄する役所までが、気取って「ハイウェイマン」を自称する。だが、よくよく考えてみると、30兆円を超える借金を国民に押しつけて知らん顔という点では、案外言葉本来の意味を正確に理解しているのかもしれない。ハイウェイの反対語はバイウェイByway、脇道、裏道を意味する。

 そして15世紀に、カントリーサイドではジェントルマンたちどうしで所有地を交換したり、中世的な共有地を占有してしまう囲い込み運動が始まったが、それは同時に農業革命の始まりであり、ジェントルマンたちは森を切り開いてフィールドを拡張し、そこへアクセスするためにレーンをつくった。そして、18世紀後半から19世紀、産業革命が進行するとともにタウンとタウンの間を馬車が疾走するロードの役割が重要になった。それは、ローマ人による最初の道路革命以来の、ひさびさの大改革だった。

 19世紀になると有料道路Turnpikeをつくって通行料を徴収する企業家もあらわれた。

4 規格化される近代道路

そして20世紀、自動車が普及すると、第三の道路革命が引き起こされた。それまでのヴィレッジと都市、あるいは都市と都市を結ぶだけだった19世紀的なロードは、全国的な道路ネットワークに組み込まれていった。

 今日のロードは、ロード・マップ上で、つぎのように分類されている。最上級は自動車専用道、モーターウェイ Motorway である。構造的に、あまり日本の高速道路と違わないが、スピード制限はずっと緩やかだし、最大の相違点は通行料が無料ということだ。

 モーターウェイの下がA roadで、日本でいえば国道といったところ。同じA級でも、主要幹線Primary routeがあり、日本でいえば一級国道である。A級の下がB roadで、日本でいえば主要地方道といったところである。A級であれ、B級であれ、シングル・キャリッジウェイSingle Carriagewayは片道一車線道路、デュアル・キャリッジウェイDual Carriagewayは二車線道路である。A級がすべて片道二車線とは限らない。道路の幅員や交通量でA級か、B級がきまるのではなく、あくまで、全国的なネットワーク上の重要度で指定されるのだ。

 スコットランドの中でも、北よりのハイランド地方には、A級道路であるにもかかわらず'with passing places' (待避所あり)という標識が出ているロードがある。つまり「すれ違いは待避所で」ということは、往復一車線しかないことを示している。日本では考えにくい道路事情だが、実際にこの道路を走ってみると、対向車に出会ったとき、不思議なことに、きまって待避所が用意されているからよくしたものだ。交通量に見合った道路構造ということで拡幅の予定もないらしいから、スコットランド的というか、ハイランド的合理性と理解するしかない。

 私が走ったのは、インヴァーネスの北、ハイランドを東から西へ横断するA837号道路である。ときには原野を、ときには深い森の中を走り続けるこの道路は一本道である。ローマ軍は、ここまで侵入できなかったから、きっと、それ以前の面影を残しているはずなのだが…不必要に、くねくね曲がることはない。

5 時空を超えた詩人の直感

イギリスの歴史はヨーロッパ大陸からの侵略の繰り返しだった。ローマ帝国の侵略に対して敗者は先住民であるケルト人である。新たな侵入者アングロ・サクソン人はローマ軍と入れ替わっただけでだったが、やがてノルマン人が侵入すると、先住のアングロ・サクソン人が敗者になった。そして、19世紀のカントリーサイドでは、勝者となった大地主のジェントルマンは馬車でまっすぐな街道を疾走する。これに対し、ジェントルマンに雇用される立場の農業労働者またはコテージャーは敗者、住む家も土地も所有できない。来る日も来る日も、あてがわれた借家と農場の間のくねくね曲がった道を往復するばかり … 。そうだ。冒頭の詩に登場する 'the rolling English drunkard' といえば、当時、自暴自棄になっていた労働者を揶揄する決まり文句だったではないか。すると、'the rolling English road' はヴィクトリア時代のレーンを指しているに間違いない。詩人はそんな歴史的な敗者に、限りない共感を寄せているのだ。

 そうだとすると、歴史関係が逆転してしまう。詩人は、きっと、勝者たるローマ人、ローマ街道で、何かを暗示しようとしたのだ。

 くねくね曲がる道路に対立するのはローマ街道のような直線的で、非人間的な、規格化された道路―まさに現代の自動車中心の道路網そのものではないか。この詩がつられたのは20世紀に入って間もないころだろう。まだ今日のような自動車を中心とした道路網が完成していなかった。しかし、詩人の鋭い直感は、土地の歴史も、そこに住む人の日常生活も無視して拡大し続けるする近代道路網の本質を見抜いていた。詩人がいいたかったのは、こうだろう―「新しい道路は幅員があって、まっすぐだが、時を経た、古い道は狭くて、くねくね曲がっている。古い方が人間味があって、私は親しみを覚える…」

 

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