edge cafe #16

最終章 新しいedge cafeを探して

12月ーその冬に初めて太陽の光に春を感じた日、 僕は自由が丘の空の下で“ズル休み”を唄った。 それから約10ヶ月の間、この愛らしい屋台カフェ、カフェ*トレボが醸し出す 香りに包まれながら、ひとり唄い続けた。 春から夏、そして秋、いろんな風景を目に焼き付け、 いろんな人たちと出会った。 10月ーやはり10ヶ月振りにライブハウスのステージに立ち、バンドで演奏した。 自分の中の何かが確実に変わったのを感じた。 ライブが終ってから何度かギターを抱えて自由が丘に足を運んだ。 でも、唄えなかった。 僕の心は、また違う場所への旅立ちを求めてしまっていた。 そして11月の終わりー日曜の正午前。 冬の到来を告げるような曇り空の下、 ギターを抱えた僕はカフェ*トレボの前に立っていた。 新たな心の旅に出るための演奏が始まろうとしていた。
僕自身にとっては重要な意味を持つパフォーマンスは、 この場所で初めてのバンドでの演奏となった。 1ヶ月前、ライブハウスで一緒に演奏してくれた同じメンバー、 アキラさん、フーちゃん、フジコちゃんが駆けつけてくれた。 メンバーが揃って、カフェ*トレボの前で談笑していると、 偶然にリカちゃんが通りかかった。 「えぇっー、今日はバンドなんだ!やったぁ、やったぁ!」 いつものように底抜けに明るい彼女は、友達を呼んで来るねっ!と 愛犬サブローに引っぱられるように駆け出して行った。
この日は出来るだけたくさんの人に聞いてもらいたかったから、 親しい人にだけは声をかけておいた。 開始予定時刻と告げてあった正午頃には、あちらこちらから 見慣れた顔が集まってきた。 その中には,僕を風の中へっと誘ってくれたマーとケイちゃんもいた。 彼らが、この場所に来るのは初めてだった。
時折、微かな冷たさを含んだ北風が吹き抜ける。 遊歩道のベンチスペースに南からコーラスのフーちゃん、 ギターのアキラさん、僕、そしてアコーディオンのフジコちゃんという 順番で並んだ。
息を切らして戻ってきたリカちゃんと、彼女が引っぱってきた同級生の 子供たちが真正面を陣取り、その両脇のベンチにはマーとケイちゃんを 始めとした親しい人や、この場所で知り合った人たちの顔があった。 その背後から、何が始まるのかと立ち止まった通りすがりの人たちが 興味深げな視線を投げ掛けてくる。
カフェ*トレボの前には飲み物を買おうとする人たちの長い行列が出来ている。 ほんとはヒロミちゃんに一番近い場所で聞いてもらいたかったけれど、 ひとりでカフェを切り盛りする彼女には、それどころじゃない状況だった。 でも、この響きはきっと、屋台カフェのキッチンにいるヒロミちゃんにも 届くだろう。
僕がハーモニカをワンフレーズ吹く。 ひとりの時とは違う温かな緊張感が漂う。 やっぱりバンドはいいな。 6月にロンドンのテムズ河沿いでやったパフォーマンスと同じ “パンジー”からスタートした。 もちろんマイクもスピーカーもなく、音が直接に反響する壁も天井もない。 楽器、声、それぞれの生音がそのまま、空へと吸い込まれて行く。 微かに風が吹くだけで音のバランスが変わり、 僕の真横のアコーディオンの音が強くなるだけで、すぐそこにいる フーちゃんの声が遠ざかってしまう。楽器3つと4つの声、 たったそれだけの音なのに、お互いの音を捕まえ合い紡ぎ合うのに いつも以上に集中力を高めなければいけなかった。
ひとりで唄っている時も、街の音と自分の奏でる音を溶け合わすのは 簡単ではなかった。とにかく五感を使って、全ての響きをひとつづつ 心のキャンパスに書き込んでいく。そうやって1曲、2曲と演奏を続けて いくと、音は次第にひとつの流れの上に集まり出す。 演奏をしているメンバーはもちろん、まわりで耳を傾けてくれている 人たちも、同じ流れを感じているようだ。みんな、ぼんやりとしたまま目の 焦点が定まってきて、柔らかな表情になってくるのがわかる。
そして“ズル休み”を唄う。 あの2月の正午頃,抜けるように青く澄んだ空の下でこの曲を唄った時、 耳を傾けてくれたのはヒロミちゃんだけだった。 10ヶ月後、“ズル休み”を唄う僕は、たくさんの人たちの視線の中にいた。 この曲を唄いながら見て来た様々な情景が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。 ビルに切り取られたグレイな空を見上げた。
冬の終わりを感じた空から舞い降りてきたメロディが、 訪れたばかりの冬の空に吸い込まれて行く。 カフェ*トレボのあるこの街角が、探していたedge cafeであることは 間違いなかった。だけど、だから、とどまってはいられないんだろう。 また季節が変わる。 そう、出かけよう。 新しいedge cafeを探しに。


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