edge cafe #10

東京の風の中 テムズの風のズル休み

17月、ロンドンから戻ってきてから数日後の日曜。 まだ明け切らない梅雨の中休みの穏やかな午後。 マンションの窓を開け放したまま、テムズ川沿いでの演奏を録音したテープを 聞いていた。 ベランダに出ると、植木の手入れをしている隣の部屋の奥さんと目があった。 僕がここの住人となって5年近く経つけれど、 お隣はお互い近すぎず遠すぎずの関係の、とてもすてきなご家族だ。 前の年、一人娘のお嬢さんがお嫁に行ったためご夫婦だけになったが、 今はそのお嬢さんが出産直前で実家に帰って来ていた。 幸せな空気が僕の部屋のベランダにも伝わって来る。 奥様はベランダを仕切る塀越しに尋ねてきた。 「ねえ、今流れている曲は誰のなの?」 ちょうどロンドンの雑踏に漂う“ズル休み”が流れていた。 実は…、とその音の正体を明かした。 「なんだか気持ちのいい曲だなって、鉢植えを触りながら聞き入っていたの。 ちょうど主人にも聞かせてあげようと思ってベランダに呼ぼうとしてたところ だったのよ。」 ロンドンの風を吸い込んだ“ズル休み”が、東京の穏やかな午後の風の中で 笑顔を作った。 そう、この感じなんだ。 こんな感じで浸み込むように僕の音が誰かの心に残っていって欲しい。 今、僕が唄っていてうれしいこと、大事なことは、 その場所で生活している人達によろこんでもらえること。 生の演奏ではなかったけれど、彼女の笑顔がうれしかった。 その日の夕方、久し振りに自由が丘、カフェ*トレボにギターを抱えて 行った。ヒロミちゃんはいつも通りの笑顔で迎えてくれた。  いつも僕はカフェ*トレボにいくとまず、カフェ・マキアートを 注文する。エスプレッソ・コーヒーに少量の泡立てたミルクを注いだものだが、 ヒロミちゃんはその泡立ったミルクで表面に白いハートを描いて出してくれる。 そのハートをすっと一息で吸い込むと幸せになれる、と勝手に決めている。 ロンドン遠征以降初めて飲むカフェ・マキアートは、前にもまして優しく、 そしてほろ苦かった。 真夏寸前の自由が丘。 昼間は十分過ぎるほど暑く、とても外で和もうなんて気にもなれないけれど、 南から北への風道にあるカフェ*トレボのまわりは、陽が沈む6時も過ぎれば、 気持ちの良い風が吹き抜ける。 ロンドンで吸い込んだ空気を吐き出すように“ズル休み”を唄う。 66ペンスがくれた勇気が、ひとつひとつの響きを際立たせてくれる。 夕方だったら頻繁に来ることができる。 この日を境に毎日のように、この優しい風の吹き抜ける場所に立ち、 まだしっかり明るい夕暮れの街角に“ズル休み” を流し続けた。 いつも僕が唄う頃、近くにあるレストランのウエイトレスの子達が店の チラシをくばり始める。 目を合わせることもなく足早に通り過ぎる人達に、彼女達は店を アピールし、僕は唄を投げかける。なんだか親近感が湧く。 店に戻る途中の彼女達が 「なんだか自然な感じで唄が聞こえてきて、いつも癒されてます。」って 声をかけてくれる。 近くのケーキ屋さんでケーキ職人をやってる男の子が休憩時間にやってきて、 ヒロミちゃんの作ったコーヒーを飲みながら遊歩道のベンチで僕の唄を 聞いてくれる。 「なんか心が休まりました。」と言ってくれて仕事に戻って行く。 もちろんヒロミちゃんもお客さんがとぎれると車の外に出て来て、 植え込みの手入れをしながら聞いててくれる。こんな声や視線が僕に、 僕の奏でる音に力を与えてくれた。 僕がそうやって空の下で唄っていたのは、 僕自身がこの瞬間しかない響きを心のキャンバスに焼き付けるため。 単に大勢の人に曲を聞いてもらいたいということだけならば、 たとえば駅前のビルの軒下って場所とかそういう所の方がアピール度は 高いだろうし 聞く方も近づきやすいんだろう。でも、そういう場所で やっていたら、今、出来つつある音の感触、オリジナリティみたいなものに 気付けなかっただろう。 立ち止まって聞いてくれた女性がこう声をかけてくれた。 「前、通りかかった時、なんでこの人はこんな静かな声で唄っているんだろう って不思議だったけれど、今日、すぐ近くでちゃんと聞いてみて、 なるほどって感じでした。」 いつも同じ時間、ショッピング・カートを押しながら通りかかるおばあちゃん にも声をかけられた。 「あなた、もっと大きな声で唄いなさいよ、身体に悪いわよ」 マリーネ・デイドリッヒが好きだというモダンなおばあちゃんは翌日も 同じような時間に現れて、僕に言った。 「あなた、声が大きくなったわね、今日はちゃんと聞こえるわよ」 僕は何も変えてはいなかった。 僕の存在を意識してくれたおばあちゃんの耳が変わったんだ、きっと。 僕はこの場所で風景になりたかった。 その風景の中に自然に溶け込み、通り過ぎていく人達にとって 気持ちのいい風の一部になりたかった。 そして遠くから流れてくる音に何かを感じてくれた誰かが、 いつの間にか僕の言葉が聞き取れる距離で耳を傾けていてくれてるような、 ここにしかない特別な風景に。

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