9月も終ろうとしていた。
もう日差しは柔らかく、でも夏の名残りを漂わせる空の青。
自由が丘の街角が秋色に染まるおだやかな午後。
クラシックなフォルクス・ワーゲンのバンの屋台カフェ、カフェ*トレボ。
僕はいつものようにカフェ・マキアートを飲みながら、観音開きになった
サイドドアの中のキッチンに座ったヒロミちゃんとよもやま話しをしていた。
ふと視線を上げると、バンの屋根の向こう、さやさやと枝を風に揺らす木が
目に入ってきた。それは南北に走る通りを挟んだ東隣のビルの脇、
通り沿いに植えられた木だった。
カフェ*トレボに通い始めて半年以上。
当然、そこに“その木”があるのは知っていた。でも、
その木がどんな種類の木なのかなんてことを気に留めたことがなかった。
ヒロミちゃんとの話しが途切れた時、ほんの数メートル先に立っている
木に、しっかりとフォーカスを当ててみる。
高さが3メートル?えっ、もっとあるかな。
そうやって意識してみると意外に大きな木であることに気付く。
空に向かって伸びようとする枝がしなだれ、先が尖った小さめの葉っぱが
しっかりと茂っている。今までは、緑道にある街路樹と同じような木としか
思ってなかったが、あきらかに他の木とは雰囲気が違っている。
なにげなしにヒロミちゃんに聞いてみる。
「ねえ、あの木さあ、ほら、隣のビルの脇に立っている大きめの木。
あれって、なんの木か知ってる?」
ヒロミちゃんはキッチンの中に座ったまま身体をひねり、
流し台側にある窓越しに、僕の指差した木を見た。
「ええ?ああ、あの木ですね。そう言われてみると、
あの木がどんな木だったかなんて気にしたことなかったですねぇ。」
ヒロミちゃんはかつて大学で植物の勉強していたらしい。カフェ*トレボの
“トレボ”はポルトガル語で、英語の“クローバー”のことだそうだ。
カフェの周りはシンボルの“クローバー”や、いろんな種類のハーブなんかの
鉢で囲まれている。そんな植物好きなヒロミちゃんでさえ、その木がなんの木
なのか気にかけてなかったようだ。
僕はカフェ・マキアートの入った紙コップを持ったまま、
その木の下に行ってみた。
あれ?これってひょっとして・・・
なんと、その木はオリーブの木だった。
こんな大きなオリーブの木を見たのは初めてだった。
驚いた。
かつて見たこともない大きなオリーブの木が、こんな街の中にあるとは
思いもしなかった。
さらに驚いた。
見上げてみると、赤黒く色づいた実までがたわわに生っている。
実が生ったオリーブの木を見たのも初めてだった。
慌ててヒロミちゃんにこの事実を伝えに行く。
別に慌てることもなかったけれど、僕の中では大きな事件だった。
目を輝かせてキッチンから出て来たヒロミちゃんも、木の下にやって来た。
「うわっ、ほんとだ、オリーブですねえ。気が付かなかった。
うわぁ、いっぱい実が生っていますねえ。」
ヒロミちゃんだけではなく、この木の側を通って、たくさんの人が
カフェ*トレボに集まってくるというのに、
これがオリーブの木だってことが話題にならなかったことも不思議だった。
しかも、こんなにいっぱい実が生っているというのに。
ううん?そうか、僕が唄っている時、いつも背後にはこのオリーブの木が
あったのか。空を目指す枝の先を見上げながら思った。こいつはずっと、
僕のうたを聞いていてくれていたんだ。
そうか、そうだよな。頭の中を真っ白にしながら初めて唄った時のことや、
“もっと大きな声で唄いなさい”っておばあちゃんに励まされたことや、
放置自転車を整理していたことや、
りかちゃんと曲を作っていたことや、
その曲を“コーチ”の女性に聞かせてあげたこと、
そんなことを全部、
このオリーブの木は見ていたんだ。
そう思うと、なんだか妙に愛おしさがこみ上げてきた。
真夏でも、日が落ちれば、いい風が通り抜けるここは涼しかった。
その涼しさに誘われて、いろんな人がここに集まり、
いろんな出会いがあった。
いい風が吹き抜ける場所には、何かいいものが宿るんだろう。
僕がそんな風の中で音楽を育てている間、人知れずオリーブは実を結び、
そして膨らませていた。
柔らかな南風が吹き、オリーブの木が揺れた。
何かが変わる、そんな気がした。