Vol.40 - 15 Jun. 2004

野球を覚えたころからのパ・リーグファンとして、大阪近鉄バファ
ローズとオリックス・ブルーウェーブの合併話は、とても哀しい話
でした。

思えば、根っからの関東の人間なのに、記憶に残る野球の最初
の印象は1975年の、関西の2球団がぶつかり合ったパ・リーグの
プレイオフでした。
近鉄バファローズが後期優勝して、前期の優勝チームである阪急
ブレーブス、現在のオリックス・ブルーウェーブと覇権を争った時の
記憶が、ボクにとっての最初のプロ野球です。
その時は優勝できなかったけれど、1979年、80年とパ・リーグを
制覇したときの選手は、いまだに覚えています。
野手では平野、小川、栗橋、羽田、投手では“草魂”の鈴木啓示、
その球を受けるのは現監督の梨田。そしてなにより頼りになった
のが、この年セ・リーグのヤクルト・スワローズからやってきた
助っ人、チャーリー・マニエル。どの顔を見ても、なんだか粗っぽい
荒くれ者のようで、彼らは“野武士集団”と呼ばれていました。
でも、そんな野武士たちも1979年の日本シリーズでは、広島東洋
カープの投手、江夏豊の天才的な頭脳と技術の前に屈し、その
物語は『江夏の21球』と呼ばれる伝説として、いまだ語り継がれ
ています。

晴れの舞台ではセ・リーグの球団以上に華のあるところを見せた
球団でしたが、結局は現在あるプロ野球12球団中、唯一日本一
の経験のないチームでもありました。
そんなところが気に入っていたのです。
その後、西本監督の勇退以降は近鉄の黄金期は終わり、ボクは
薄情にも、79年にパ・リーグに生まれた西武ライオンズに興味が
移っていってしまったわけですが、いまだにパ・リーグファンである
ことには変わりありません。
関西に単身赴任していた2000年には、念願の大阪ドームで近鉄
の試合を観戦。主砲、中村紀洋(なかむらのりひろ)のホームラン
を見ることができました。そのホームランは、もうほとんどバックス
クリーンに近いレフト側外野席の、ボクのほんの数メートル前まで
飛んできました。あの時のシューッという音は今でも覚えています。
そんな球を、何を考えたのか、素手で捕ろうとした女性がいて、球
が当たった左の掌がボール以上に腫れ上がったこともよく覚えて
います。
…でも確かに、あの日、あの球場に集まっていた観客数だけでは
球団経営はやっていけないのでしょう。それは感じました。
48,000人収容できる球場に来ていた観客数は、およそその半分
程度だったと思います。

福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、西武ライオンズ、
そして今回の大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ。
最近パ・リーグの球団は、一般紙では経済面でしかその名前を
見掛けません。2球団の合併がその後の球界をどう変えていくの
かはわかりませんが、パ・リーグが“元パ・リーグ”になったとして
も、ボクはいつかパ・リーグがセ・リーグとは比較されないだけの
確固たる人気を獲得する日を夢見ています。

そうだ、今年はぜひパ・リーグの試合を見に行こう。
それからとりあえず、大阪ドームでもらったバファローズ応援タオル
は大切にとっておくことにしよう。


<< Vol.41  Vol.40  Vol.39 >>

ノンキな通信  I.Z.'s Attic




*** I.Z.'s Attic ***
Copyright - I.Z. - 2004 - 2010 All Rights Reserved