Vol.33 - 18 Oct. 2003

来年3月いっぱいで、母校の県立高校が廃止になってしまうそ
うです。
ホームページには「大幅な選択枠を持ち、自由に学ぶことので
きる単位制の総合学科に生まれ変わります」と書かれています
が、最寄りの学校と統合して、校舎はその最寄りの学校のもの
が存続されることになっているので、ボクたちの通っていた校舎
は、どう考えても廃校ということになります。
少子化による学生数の減少で、廃校は想定されていた結果だ
とのこと。
ところで、“廃校”と聞くとさぞや田舎の、過疎地の話だと思われ
ることでしょう。
しかし、実際には神奈川県川崎市北部の巨大住宅地の中に、
1970年代後半に建てられた高校の話なのです。

1970年代半ば以降、川崎市北部から横浜市北部にかけての
東急田園都市線沿線一帯は、東急グループによって開発が進
められる広大な新興住宅地として毎年何十万、何百万という人
間が流入していました。東京西部のベッドタウンとして多摩ニュ
ータウンなどと並んで急速に人口が増えていった地域です。
多摩田園都市と呼ばれるこの地区にボクが転校してきたのも、
人口増加率が最も高かったそんな時期のだったのだろうと思い
ます。
東京都内から転校していった小学校は、想定していたよりも小
学生の増加人数が多かったために、本来は中学校用に建てた
ばかりの校舎を小学校として使用していました。3学年1,000名
程度が中学用の校舎に納まって「分校」生活をし、そこからもう
一度転校した小学校も、全国一の生徒数を誇っていました。新
年度の始まりの4月だけで一学年当たりひとクラス分の転校生
が入ってきていました。
中学校もできたばかりの学校で、ボクたちの学年で3学年全て
が揃ったという状況。
できたばかりのインフラを一気に占拠するような世代として、ボ
クたちはこの地域で育ってきたわけですが、そんな新興住宅地
もこの辺りで一息ついてしまったようです。
核家族化に続く少子化の波を受けて、人口の増加が劇的に鈍
化。増え続ける人口に対応してできた我が母校は、結局有名
になることもなく、なんとも事務的にその役目を終えていくよう
です。

思えば、高校、嫌いだったなぁ。
いや、行きたくないとかそんなことではなかった。なんだか嫌い
だったのです。
内申書で数学の成績が悪かったからという理由で、入れそうな
県立高校のランクを下げられて、それが自宅から一番近い学校
だから厭だと言って、結局選んだ二番目に近い高校は、結構ラ
ンクの低い学校だったのです。
電車とバスを使ってわずか20分のその学校は、市境の崖の上
に建っていました。東側は校庭の向こうに団地群が立ち並ぶ
広大な新興住宅地。校舎の窓から見える南西側は手つかずの
緑に覆われた丘陵地。そして裏手の北側は、テレビ「水戸黄門」
のロケにも使われたという禅寺と急峻な百段階段のある神社の
丘に見下ろされるような、谷底を貫く古い道と昔からありそうな
集落。一時間に1本ずつくらいの市営バスと東急バス。
東側の新興住宅地とのどかな山村を思わせる北側の対比も、
当時はなんだか気を滅入らせただけだったような気がします。
当時は大学に行って良い会社に入るというのがなにも考えてい
ない中学生や高校生にとってはふつうの“漠然とした夢”だった
から、普通高校への進学は義務教育みたいなもので、それも
毎日を漫然とさせる要因のひとつだったのでしょう。漫然と通う
“二番目に近い学校”を、ボクは当然好きになれないでいました。
同級生を見下していたのだとも思う。誰とも仲良くならずにいて、
唯一、同じ中学校から行った連中だけと喋っていました。
でも、同じ中学校から行った連中が、当時なかった野球部を作
ろうと言い出して、そんな活動に引きずり込まれてからなんとな
く事態が変わってきました。生徒会本部の仲介で、校長や教頭
に創部への想いを直接訴える場が設けられ、そんな中に特に
野球部創部への夢など何もなかったボクも引き入れられ、つい
には創部への熱い思いを語れと言われ…。
確か、校長相手に「生徒の夢を阻害するような権利はないはず
だ」と発言したような気がします。そのひとことで創部への道が
開けたとあとから生徒会顧問の先生に聞きました。
そしてその生徒会顧問から、生徒会長になるように薦められた
のでした。
つまらなくとも3年、楽しくても3年。そんなことに気づいて、毎日
漫然と通うことの不毛さに決別しようと思い立ったのです。当時
の同級生からすれば、取り立てて変わったこともなかったように
見えるかもしれないけれど、ボクの中では結局一番大きな心境
の変化があったのが、高校時代でした。
楽しくなければ毎日の生活に意味がないと思うようになったの
もこの頃でした。
野球部創部に紛れて模型部も作ってしまって、生徒会室で鉄
道模型を作ったり、副会長が自宅から持ってきたモデルガンに
火薬をぎっしり詰めて撃ってみたりもした。ひと並みにカノジョを
作ったりもした。一学年下の、人気のある女の子。
ボクは結局3年生を遊んで過ごし、卒業後は浪人生活。再び漫
然とした生活を送ったおかげで、一年後輩のはずのカノジョは
公立大学病院の付属看護学校に入って、ボクはもう1年浪人…。

それは余談として、そんな高校を卒業してから20年。今思い返
せば、それなりに楽しかった、ボクにしてみればまずまずの3年
間でした。
今さら、もうすっかり音信不通になってしまった同級生たちや、
“カノジョ”を含む仲間たちに会いたいとも思わないけれども、学
校の周りののどかな空気が懐かしく思われる瞬間は、いまだに
あります。
決して好きな学校ではなかったけれど、それなりに多感だった
時期に3年間を過ごした場所です。
卒業後は学校の脇の道路を通ったことは何度もありますが、校
内に入ったことはありませんし、久しぶりに行ってみようと思っ
たことすらありません。しかし「廃校」と聞いた時には、少し寂し
さを感じました。喪失感、とでもいうのでしょうか。
神戸が震災で崩壊し、ニューヨークのワールドトレードセンター
がテロの攻撃を受けて崩壊消滅…。
思い出の地がなくなる、いつでも帰っていけると無意識に思って
いるような自分の過去に、否応なく大ナタが振るわれて、もう決
して帰れないことを宣告される。ぜんぜん見向きもしなかった高
校なのに、なぜかそんな気持ちに少しだけなりました。

廃校は、どうやら当初から予定されていたことのようでした。
ボクとしても別に断固反対する気はないし、その後は高齢者介
護施設として利用されるそうなので、それはそれで歓迎すべき
こと。
ただ、東京近郊のベッドタウンとして思いもよらなかった新たな
形態の“過疎化”によって、母校が廃校になってしまうということ
に、ちょっと驚いてしまったのでした。
11月の初めに最後の文化祭が催されるそうです。
久しぶりに行ってみましょうか、最後ですから。


2004年12月24日に訪問してみると
校舎はすでに解体され、校庭からの
入口はがっちりと閉ざされていた。 

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ノンキな通信  I.Z.'s Attic




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