~ 12才 ・ 冬 ~6
「小次郎くん・・・!」
志乃の運転する車から降りた小次郎は、憂慮と焦燥を顔に浮かべた若島津家の母に出迎えられた。子供3人を産んだ気丈な逞しい女性ではあるが、それでも小次郎の汚れた姿を目にして彼女は声を詰まらせた。
「とにかく、家に入りましょう。ね?・・・今は何も考えなくていいからね。お風呂が沸いているから、まずは入って温まりましょう・・?」
母親だけでなく、健の姉の志乃も、兄の暁もそこにいた。だが小次郎は誰を視界に入れることもなく、呆けたように立っている。
「小次郎。こっちだよ」
「・・・・っ」
暁が家に上がらせようと小次郎の左腕に軽く触れた瞬間、その手は振り払われた。その場にいた誰もが息を呑む。
「じゃあ、おばさんと行きましょうか。小次郎くん、いらっしゃい」
母親が背中に軽く手を当てて誘導すると、小次郎はおとなしくついていった。志乃がホッとしたように息をつく。それからもの言いたげに健を振り向いた。
今の小次郎には到底『何があったのか』などと尋ねることは出来ない。だから自分が視線を向けられているのだろうと、健には分かる。分かるけれども 。
「犯人がいたのは見たんだ。でも暗かったから、顔も年もよく分からない。・・・日向が何をされたのかも、本当のところは俺にはよく分からない」
「・・・そう」
「俺が着いた時は泣いてたけど・・・服は着てた」
「・・・・・」
弟が詳しいことを知らないことを、志乃は却ってこれで良かったのだろうと思った。
これからも友達で有り続けるなら、知らない方がいいこともある。小次郎が落ち着き次第、確かめなくてはならないことは沢山あるが だが、少なくともそれは大人の役目だ。
志乃は目を強く瞑って、眉間を揉んだ。
「バスタオルはこれを使ってね。着替えは健のを出しておくから、それを着てね。脱いだものはこっちに・・・汚れててもそのままでいいから。ゆっくり、ちゃんと温まってくるのよ」
小次郎は返事はしなかったが、僅かにコクリと頷いた。それを見て、健の母はほんの少しだけ愁眉を開いた。
今はショックを受けているけれども、受け答えが出来ない訳ではない。せめてもの安心材料ではあった。
それにざっと観察したところ、小次郎の服で汚れているのは上着とジーンズだけのようだった。その下の服と下着には汚れも無く、破れやほつれも無い。
多分、大丈夫。我が子はぎりぎり間に合ったのだ 彼女はそう思った。
(だけど・・・・あちらのお母さまには何と連絡すればいいのかしらね・・・)
今夜のことを知ったなら、小次郎の母親はどれほどの衝撃を受け、打ちのめされるだろう。自分は我が子を守れなかったと、どうして夜に外に出したりなどしたのかと、この先ずっと悔やむことになるだろう。同じ母親として、容易に想像できる。
ましてや日向の家は母子家庭だ。子供たちに関するすべての責任が、彼女一人の肩にかかっている。苦難を共に引き受けてくれる筈の伴侶は、彼女にはもう居ないのだ。
小次郎とその家族のこれからのことを想うと、健の母はどうするのが最善なのか分からなかった。
シャワーを浴びて身体が温まってくると、小次郎は徐々に自分が落ち着いてくるのが分かった。
そうすると今度は、未だ連絡もしていない家族のことが気にかかる。
(遅くなってるのに、電話もしないで・・・。かあちゃん、心配しているだろうな)
もしかしたら今頃、自分を探しに行っているんじゃないだろうか。知り合いのあちこちに電話をかけたりしているんじゃないだろうか そう想像すると、居ても立っても居られなくなる。こんなことをしている場合じゃない、早く帰らなくちゃ 小次郎の気が逸る。
(だけど・・・)
小次郎はシャワーに当たりながら、握っていた左手をゆっくりと開いた。
あの男に引かれた手だった。ある意図をもって導かれた手。
「・・・・・っ」
実際にあの男に触れたのかどうかは、小次郎には分からなかった。揉み合っていた最中のことは、思い出そうとしても混沌としている。圧倒的な恐怖に呑みこまれて、記憶が一部曖昧になってしまっている。
だけどあの男は、この手を汚そうとしたのだ。それは確かだった。
それが汚らしく感じる。実際に触ったのかどうかだけが問題なのではなかった。そう望まれたというだけで、小次郎は自分の手が穢れたもののように感じた。
ナイロンタオルに手に取りボディソープを垂らすと、小次郎は左の手のひらをこすった。何度も何度も。痛みを感じるくらいに強く。
「・・・っ、く・・ひっ、・・んっ・・」
ぼろぼろと涙を零して小さくしゃくり上げる小次郎は、目には見えない汚れを落とそうと必死だった。
風呂を出ると、脱衣場に健のスウェットの上下と、新品の下着が置いてあった。小次郎はそれを身に着けて、若島津の家の人たちがいるリビングに戻る。
「あの・・・ありがとうございました」
「ちゃんと温まった?・・・少し、落ち着いた?」
「はい。あの、電話を」
「おうちに連絡ならしておいたからね。うちにいるので、心配しないでくださいって」
「え・・・」
健の母の言葉を聞いて、小次郎は顔を強張らせた。
「じゃあ、かあちゃんに・・・」と、震える小さな声に、健の母は慌てて否定した。
「違うの、違うのよ。小次郎くんが、うちに遊びに来てます、って伝えただけだからね。大丈夫だからね。たまたま健と会って、それでうちに寄って貰ったってことにしてあるからね」
「たまたま・・・」
「それで、健とふざけてたら飲み物を零しちゃって、シャワーを浴びてるってことにしたからね。・・・だから落ち着いたら、お家に電話すればいいからね。でね、帰りたかったら送るけれど、もし良かったら今日は泊まっていっていいんだからね。小次郎くん、まだ目が真っ赤だから・・・」
『目が真っ赤』と言われて、小次郎はリビングの壁にかかっている鏡を覗きこんだ。確かに赤くなって目蓋も腫れぼったい。これで家に帰っても、一体何があったのかと母親を心配させるだけだろう。
振り向くと、健も「そうしたら?」と勧めてくれた。小次郎は少し考えてから頷き、電話を借りた。
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