~ 12才 ・ 冬 ~7
小次郎と健は若島津邸の客間に、二組の布団を並べて寝ていた。健の部屋でという話もあったが、ベッドが置いてある分狭いのと、なるべく大人の寝ている部屋の近くがいいだろうという配慮によるものだった。
部屋は暖房を切ってあるが、布団の中は温かい。小次郎は鼻の上まで掛け布団を被った。
もう恐いことは無い、ここは安全な場所だ それが分かっているのに、寝付けなかった。
「・・・まだ、起きてるか」
ふいに健が声をかけた。もし小次郎が寝ていたなら起こさないで済むようにと、小さく抑えた声だった。
「・・・起きてる」
「眠れないのか?」
「眠ろうとしてたのに、お前が声を掛けたんじゃないか」
小次郎がぽそりと答えると、健は肘をついて身を起こした。
「・・・なあ」
「・・・何」
「お前、今日はバイトの日じゃなかっただろ。なんで増やしたんだよ」
「・・・・・・」
「おい」
「・・・もうすぐクリスマスだし。あいつらに何か買ってやりたかったから」
嘘ではない。それが理由の全てではないけれど、嘘ではないから、小次郎はそう答えた。
だが健は追求の手を緩めない。
「じゃあなんで、バイト増やしたことを俺に言わないんだよ」
「・・・・・」
「日向」
「・・・迷惑かけると思ったんだよ」
「・・っ、ばっかじゃねえの・・・っ!?」
健はとうとう布団を跳ねのけて起き上がり、声を荒げた。「迷惑って何だよ!お前、俺がどんだけ心配したと思ってんだよ・・・!」と怒りを露わにする。
「お前、俺があんだけ気をつけろって・・!」
「若島津」
「人の言うこと、全く聞きもしないで・・っ」
「若島津。・・・うるさい。おばさんたちに聞こえる」
静かな声で健を諫める。
健は指摘されて、初めてそのことに気が付いたように口を噤んだ。しばらく無言で小次郎を見つめていたが、小次郎が何も答えないことを知って、ハア・・・ッ、と大きく息を吐く。苛々していた。
心配したのだ。
もし日向に何かがあったら・・・いや、何かなんてある筈がない。きっとどうせ取り越し苦労だ。だけど、帰るのが遅くはないか ?やっぱり何かあったんじゃ・・・。いや、でも。
そんなことをグルグルと考えながら夜の町を走った。健だって怖かった。小次郎を見つけるまでは不安で仕方がなかったのだ。
なのにこうして家に帰ってきて、いざ自分に黙っていた理由を問い質してみたら、たった一言『迷惑をかけると思ったから』とくる。挙句の果てには『うるさい』だ。
案じていた分、その反動もあって今はいっそ小次郎のことが腹立たしい。
(・・・とりあえず無事に戻ってこれたことが一番なのは間違いないけれど)
無事といっていいのかはよく分からないが、両親が小次郎を病院に連れていくのではなく、この家に泊めたということは最悪の事態ではなかったのだろう。健はそう推測した。
だがもし自分があの場所に着くのが遅くなっていたら、結果は違っていたのかもしれない。タイミング一つで、この友人がどうなっていたか分からないのだ。健は今更のように悪寒を覚え、身体を震わせた。
「・・・馬鹿だな。冷えたんじゃねえのか。早く布団に入れよ」
「うるさい。馬鹿はお前の方だろうが」
文句を言いながらも、健は大人しく再び布団に潜り込む。
元々、こんな風に小次郎を責めるつもりでは無かった。つい激昂してしまったけれど。
本当は『もうこんなことは二度と御免だからな』と、どうか繰り返さないでくれと、そう言いたかっただけなのだ。
小次郎は小次郎で、健にどういう態度を取っていいものか決めあぐねていた。
怖かったし、ショックだった。小次郎は自分が『変質者』に遭遇してしまったのだと分かっている。あれが普通の大人なのではない。大人の中にもやっぱり頭のおかしい奴はいて、たまたまそういう人間に襲われたのだ。自分は何も悪いことをしていないのに。
そうだ。自分は何も悪いことをしていない だが、自身に起きたことを友人に知られるのは恥かしかった。助けて貰っておいて何だとは自分でも思うけれど、それでも小次郎は健には知られたくなかった。
(・・・若島津は、どこまで・・・)
大人の男は重かった。小次郎がどんなに暴れても、戒めが解けることはなく、掴まれた手も離されなかった。
どうしようもなかった。逃げられなかったのだ。自分が馬鹿だったのは分かっている。だけど、だからといって 。
常夜灯のみが照らす薄暗い部屋の中、小次郎はゆるく開いた左の手のひらをぼんやりと見つめた。
「・・・・・」
忘れたいと思ったところで、簡単に忘れられるようなことではなかった。
思わず視界が揺らいできてしまい、小次郎は慌ててその手を握り込んだ。
「そういえば日向。お前、手をどうかしたか?」
「え・・・?」
丁度その時、沈黙を破って若島津が唐突に小次郎に尋ねた。背を向けていた小次郎の心臓が跳ねる。振り向くことが出来なかった。
「・・・なんで」
「左の手。お前がずっと気にしてるみたいだから、捻ったか、怪我でもしたんじゃないかと思ったんだけど」
「怪我はしてない」
「本当かよ。見せてみろよ」
「やだ」
健がまた起き上がる気配を見せたので、小次郎はもう一度「嫌だ」と言った。
「・・・何か隠してんのか」
「何ともねえって」
「だったら見せてみろって」
「いやだって言ってんだろ」
「日向」
「何かあったとしても、俺は」
やはり健に背中を向けたままで、小次郎は続けた。静かな声だった。
「お前には言わない。・・・絶対に、お前には」
それは健が一瞬怯むほどに、絶対的な拒絶だった。
(・・・一体、こいつに何が ?)
今夜あったことを考えれば、小次郎が常と違うのは当然なことだとも言えた。
だが何故、自分には言えないというのか。それは他の人間には言えても、自分にだけは言えないということなのか 健には分からなった。
(お前、俺に見えなかったところで、何をどうされた ?)
草むらに横たわった小次郎が何をされていたのか 姉にも話したように、本当のところは健は知らない。
健に見えたのは、覆い被さった男が小次郎の上で蠢いていたことだけだ。『何も無かった』と言われれば信じるし、そうでなかったと言われれば否定はできない。だってよく見えなかったのだから。
(あの男は、一体、お前にどこまで・・・・・・?)
「若島津」
小さな声で呼ばれて、健はハッと顔を上げた。いつの間にか小次郎が自分の方を向いていた。
「俺、明日、サッカーしたい。練習に付き合ってくれよ。お前の都合のいい時間でいいから」
「・・・分かった。その代わり、今日はちゃんと寝ろよな」
「うん・・・おやすみ」
「おやすみ」
小次郎と健の視線が合わさって、すぐに外れた。そして小次郎はまた健に背中を向けて、反対側の壁の方を向いてしまう。
結局のところ、健にはどうしようもないのだ。今の自分では、小次郎のために何をどうしてやることもできない。
おそらく、何も無かったかのようにこれまでどおりに接すること。それが、この親友が自分に対して一番に望んでいることなのだろうと思われた。
それならば、そうしてやるしかない。傷を抉るような真似だけはすまい 健はそう思った。
二人でいる時に、これほどに重くやるせない気持ちになるのはお互いに初めてのことだった。
小次郎と健が心安らかに眠れるようになるには、まだしばらくの時間が必要だった 。
END
2017.12.23
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