~ 12才 ・ 冬 ~5







「離し・・・っ、や、やめ・・っ」
「そんなに脅えなくていいんだよ。君だって大人になれば、こうなるんだから」
「嫌だッ!」

掴まれた左腕はビクともしない。小次郎は足をばたつかせて暴れるが、体重をかけられて思うように動けない。

「君のも見せて」

男は小次郎のジーンズのボタンを外そうとする。小次郎は絶望に目を見開いた。

「やめろ・・・!」

首を振って、尻でずり上がってどうにか逃れようとする。だが力強い腕に捉えられて元の位置に引き摺り戻された。小次郎が小学生にしては体格のいい方だといっても、大人の男相手にはどうにもならなかった。

「離せぇ・・っ!」


その時、遠くから「・・・日向!?日向、いるのかっ!?」と自分を呼ぶ、切羽詰ったような声が聞えた。











健は小次郎のバイト先であるおでん屋に向かって、必死に自転車のペダルを漕ぐ。小次郎なら何処を通るかを予測して道を選んだ。外れたら・・・ということは考えたくなかった。

(たぶんあいつのことだから、一番近い道を選ぶだろう。回り道をして大きな道に出るんじゃなくて)

一旦日向家の近くまで行き、そこからおでん屋に向かって最短の距離を走る。
アルバイトを増やしたことを明かさなかった小次郎に腹も立つが、今は心配の方が先に立った。

(何かある筈なんて、絶対に無いんだ。だって男なんだし、日向なんだから)

そう自分に言い聞かせた。これで無事に会えて安心できたなら、気のすむまでとことん罵ってやろうと思う。


(・・・・あれ・・・。あれは・・・!)

健の視力はいい。夜目もきいた。
その目は数十メートル先の前方に、忘れもののように道端に放置されている丸い物体を捉えていた。急いで近づいてみれば、それはサッカーボールだった。健は自転車のスタンドを立てるのももどかしく、投げ捨てるように自転車を放る。手に持って確かめると、それは有名なスポーツ用品メーカーの4号球だった。

     日向の、ボール!!)

転がっていたボールは、やはり見覚えのあるものだった。間違いなく小次郎のものだ。薄くなっていて読み取りづらいが、バルブの横に小さく名前も書かれている。

(ボールだけ・・・。じゃあ、日向はどこに      !?)

「日向!どこにいるんだよっ!日向!」

ボールを抱えて辺りを見回す。人気もなく、明かりも少ない場所だった。何も無ければ、こんなところに小次郎がいつまでも居るとは思えなかった。
だがここに小次郎のボールが落ちていたのは事実なのだ。そして通常であれば、小次郎がサッカーボールを置いていくなど有り得ないことを健は知っていた。このボールは父親から贈られた大事なものなのだと、以前に健に語っていた。




ふいに声が聞こえたような気がした。いや、絶対にした。かすかに届くくらいの小さな音だったし、猫か何かの鳴き声のようにも聞こえたが、だがそうではなく、確かに人のそれだった。そして人の声だとするなら、大人のものでは無かった。

ボールを放り投げて、声がした方向に全力で走り出す。開発中で宅地造成がされつつある場所だ。新たに作られたばかりの私道を進むと、奥の更地にはブルーシートで覆われた資材が積み上げられている。その更に向こう側は暗く鬱蒼とした雑木林だ。健は躊躇なく、奥に向かって駆けていった。


「日向ッ!!」

辺りを照らす灯りなどなく、薄ぼんやりとした月明りがあるだけだった。それでも、何か塊のようなものが草むらに横たわっているのは分かった。それが蠢いているのも。それが、重なった大人と小さな人間であることも     


カっとした。身体中の血が沸騰したかのようだった。全身の毛が逆立つような、凄まじい怒り。健の内で何かが壊れ、箍が外れるのが自分でも分かった。それは健がこれまでに感じたこともないほどの、爆発的な怒りだった。

「・・・野郎ッ!」

雄叫びを上げ、健は突進した。相手は大人であるうえに凶器を持っている可能性もあったが、そんなことを考える余裕は無かった。ただ我武者羅に走って、小次郎の元に向かった。

だが健の声で闖入者が現れたことを知った男は、あっさりと獲物を見捨てて逃亡を図った。
小次郎の上から素早く退くと、そのあとは顧みることもなく走り去る。コートの裾を翻して、男は迷うことなく雑木林へと分け入っていった。そこを抜けて斜面を少しばかり下ると、地元の人間しか使わないような細い道に出る。そのことは健も知っていた。

健は一瞬、どうするべきか迷った。犯罪者を逃がしたくは無いが、追いかけるのは危険でもあった。何より転がったままで動かない小次郎のことが気にかかる。すぐにそっちの方が先決だと判断した。このままここに置いていくことなど出来ない。

「日向、大丈夫か・・・!?」


小次郎に近づいてその顔を覗きこんだ健だったが、小次郎は応えなかった。健には見えないように両腕で顔を隠し、声を殺して泣いている。

(・・・『大丈夫か』だなんて、馬鹿じゃないのか、俺は      !)

こんなところで大人の男に襲われて、大丈夫だなんてこと、ある筈がなかった。そんなことは今の小次郎を一目見れば、誰にだって分かることだった。

顔の僅かに見える部分は濡れていて、微かな光源にもてらてらと鈍く光っていた。涙なのか唾液なのかも判然としないが、土と混じってぐちゃぐちゃだった。
服は乱れて、ジーンズのボタンが外されている。逃げた男が何を目的としていたのか、小次郎に何をしようとしていたのか、健にですら明白だった。

怒りで眼裏が赤く染まる。健の歯がギリギリと音を立てた。
こんな目に合っていいような奴じゃない。どうして日向がこんな事をされなくてはいけないのか。懸命に頑張って、家族を支えているだけじゃないか、どうしてこいつが、こんな思いをしなければならないのか       どれだけ胸の内で声を荒げようとも、誰が答えてくれる訳でもなかった。だが説明されたところで意味は無い。

小次郎が受けたのは、卑劣で身勝手な、謂れなき暴力だった。



声もなく泣き続ける小次郎を、どうしたらいいのか分からない。
健が自身をこれほどに無力だと感じたのは、生まれて初めてのことだった。









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