~ 12才 ・ 冬 ~3
「小次郎。そろそろ上がれ」
「ここ片づけたら、上がります。お先に失礼します」
「おうよ。迎えがまだ来てなかったら、中で待ってていいからな」
「はい」
厨房で食器を洗っていた小次郎に、店主が声をかける。表の方はもう一人アルバイトの学生が対応しているから、抜けても問題ない。
小次郎は周りを簡単に片づけてから、エプロンを外して帰り支度をした。
店の裏口から外に出ると、途端に冷たい真冬の風に晒された。思わずジャンパーの首元を手で押さえる。
「さむ・・・!」
今日は無理を言って増やして貰ったバイトの日だった。小次郎は肩に抱えたナップサックからサッカーボールを取り出すと、地面に置いてポン、と蹴り出した。足取りも軽やかにドリブルを始める。
店主に言われた迎えなど待つ必要が無かった。そんなものは来る筈が無いからだ。小次郎はバイトを増やしたことを母親にだけは告げていたが、それ以外の人には一切伝えなかった。その中には健も含まれる。
(たった二日のことだし。・・・それに、どうして増やすんだって、あいつに聞かれても面倒だし)
もともと健は小次郎がアルバイトをすることを、快く思ってはいない。日向家の事情を知っているからこそ止めろとまでは言ってこないが、そうでなければ強制的に止めさせようとしてきたかもしれないくらいには嫌がっている。曰く、『だって朝早かったり夜遅かったりして、危ないじゃないか』とのことだが、小次郎にしてみれば、車にはねられたことのある奴にそんなことを言われる覚えは無い。
しかも健は小次郎の見ている前で轢かれたのだ。あの時の光景と恐怖は、今でもたまにフラッシュバックすることがある。
( ほんと、どっちの方が危ないんだか。後先考えねえのは、お前の方こそじゃねえかよ・・・)
スピードを落とすことなく走りながら、小次郎は胸のうちで憎まれ口を叩く。
そうこうしているうちに徐々に心拍数が上がり、呼吸が速くなってくる。夜のしじまにボールを蹴る音と、小次郎の足音だけがリズムよく響いた。
静かな夜だった。他の誰の、人間も動物も、自分以外の生きものの気配を感じないほどに。
だから小次郎は、向い側から人が歩いてくるのに気が付いた時、驚いたのだ。
その人物からは何の物音もしなかった。衣擦れの音も、靴の音も。
最初はスピードを落としてそのまま擦れ違おうとしたが、何となく嫌な感じがして、小次郎はボールを足元に収めて立ち止まる。
暗いうえに陰になっていて、相手の顔は見えなかった。長いコートを羽織っていて、その下の服装も分からない。だが体格からして大人の男の人だろうと、小次郎は見当を付けた。
男はどんどん近づいてくる。二人の距離が縮まるにつれて、小次郎の緊張感が増していく。寒さのせいだけじゃなく、肌がピリついた。人は本当に怖いものからは却って視線を外せなくなるのだということを、小次郎は初めて知った。
住宅街と住宅街の狭間で、ちょうど人も車も滅多に通らないような場所だ。いくつか造成中の土地があり、その向こうにはまだ開発されていない未整備の土地もある。さらにその奥は雑木林で、闇が濃い。
大きな道路からそれほど離れている訳ではないのに、さっきまでは何の心配もなく走っていた筈なのに、この男が現れてから小次郎は、急に自分が外界から隔離されているように感じた。ここで何かがあったなら、多少の声を出したところで誰も来てくれないのかもしれない そんな不安を抱いた。
「こんばんは」
男が小次郎に話し掛けた。高くも低くもなく、ざらついた質感の声だった。
小次郎にはおおよその年齢も分からない。ただ予想したとおり、男であることは確かだと思った。少なくとも成人はしている大人の男だと思えた。
「・・・・」
「こんな時間に、どうして子供が一人でいるのかな?君みたいな子がうろうろしていると危ないよ?僕が家まで送ってあげようか?」
「・・・・」
こういう時にどうすればいいか、小次郎は小学校で教わっている。
大声を上げる、防犯ブザーを鳴らす、子供110番の家に駆け込む だが小次郎は防犯ブザーを身につけていなかったし、子供110番どころか、一番近い民家にもこの場所から駆け込むのは難しそうだった。
「ああ、君は僕のことを信用していないみたいだね。そうだよね。無条件に大人を信用したりしたら、いけないよ?世の中にはおかしな奴も多いからね」
男は更に小次郎との間合いを詰めてくる。
「・・・あっちいけよ。大声を出すぞ」
そう言ったなら、不審者は怯んで逃げ出すかと思ったのだ。だが実際には、そうならなかった。
相手は嗤っただけだった。表情は小次郎からはよく見えなかったけれど、漏れる声や纏う空気で嘲っているのが分かった。
小次郎は即座に判断して反転する。元来た道を駆け出した。普段からサッカーで走りこんでいるのだ。大人が相手でも、走力なら負けないと思えた。
だがサッカーボールを蹴りながらでは無理だった。とはいえこのボールは小次郎にとっては、ただのボールではない。父親が存命中、最後に贈ってくれたボールだ。
家族全員が揃っていて幸せだった頃の思い出と直結しているそれを、『置いていく』という選択肢は小次郎には無かった。
手に抱えるために掬い上げようとして、一瞬、速度を落とす。
それは時間にすればほんの短い間のことではあったが、捕獲者にとっては十分な隙となった。
「・・・・・・ッ!」
後ろから抱きつかれ、大人の大きな手で口を塞がれ、声を出すことも出来なかった。
蜘蛛の巣に搦めとられた蝶のごとく、小次郎は捉えられて身体の自由を奪われた。
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