~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 9
「日向さん!?すごい音がしたけど、大丈夫!?」
キッチンの扉を開けて急ぎ足で入ってきた反町は、床に散乱したグラスのかけらと、一面水浸しの中でへたり込んでいる俺を見て顔色を変えた。
「どうしたの!?倒れた?気分悪い?」
「や、なんでも・・・。くすり、のもうと思って・・・痛ッ」
さっき落としていた錠剤を隠そうとして手を伸ばし、ガラスの欠片に触れてしまった。プツリと切れた皮膚から、徐々に血が盛り上がり、やがて指先まで垂れ落ちる。
「なんでも、って!指!指、切ってるよ!・・・他に怪我は!?怪我はない!?」
指の傷など大したことはなかったが、反町は慌てて駆け寄ってきて、俺の手を取る。
「怪我したのはここだけ?本当にどうしたの。具合悪いんなら、寝てなくちゃ駄目だよ。何かして欲しいことがあるなら、すぐに呼んで!」
「・・・大げさだな。手が滑ってコップを落としただけだし、それでちょっと切っただけだろ・・・」
「もう、日向さんってば・・・。俺がどんだけびっくりしたか、分かって言ってんの?・・・ほら、ここは後で俺が片づけとくから、向こうに行って傷を見せて。ソファに座って」
呆れたように嘆息する反町に促されて、リビングに移る。早く帰ってくれないかと願ったが、今この状況でそれを言うのも不自然かと思うと、口に出すのはためらわれた。
場所を移したソファの上で、反町が俺の右手を手に取り、傷口を丁寧に拭う。傷の大きさを確認した後、ほっとしたような声を出した。
「良かった。ザックリいったのかと思ったけど、そうでもなかったね。絆創膏貼っておくね。でも利き手の指先だし、使えないと不便だろうから、何かして欲しいことがあったら言って」
「大丈夫。ありがとう」
「どういたしまして。・・・じゃあ、日向さんは休んでて。ここにいる?それともベッドで寝てる?俺はキッチンの方を片づけてくるからさ」
「いいよ、向こうは俺が後で片づけるから。お前はもう自分の家に戻れよ」
「何言ってんのー。日向さんまだ調子悪そうだし、それくらい甘えてよ。じゃあ、ここで座ってて」
反町はそう言ったかと思うと、勝手知ったる・・とばかりに掃除機を取りにリビングを出ていった。
反町が突然にやってきたこと、軽いとはいえ怪我をしたことで、俺の体の熱は一旦は冷めた。だけどこうして落ち着いてしまえば、やはりヒート特有の劣情が立ちのぼってくる。
早く、早く帰さないと。
薬が切れてしまっている俺からは、αを誘う匂いだってしている筈だった。反町は気が付いた風でも無かったけれど、あいつだってキッチンの惨状に驚いてそれどころじゃなかったからかもしれない。
反町は今、向こうで俺が割ってしまったグラスを片づけてくれている。ガラスが散っただけではなく、結構な量の水もぶちまけた訳だから、さぞ面倒だろう。申し訳ないと思う反面、何もかも放っておいてくれていいから、このまま帰ってくれと願う。
早く薬を飲みたい。焦りや緊張から、じっとりと汗をかく。体温も上がる。そうなればそうなるほど、体臭は強くなる。フェロモンもきっと強く薫ってしまう。今すぐにシャワーを浴びたかった。
この部屋のリビングは広い造りになっているけれど、そうはいってもキッチンはカウンターを挟んですぐそこだ。どれだけ匂いが伝わるのかなんて、俺には分かりようも無いけれど、でも分からないからこそ不安だった。
ソファのうえで膝を抱え込んで、できるだけ小さく丸くなる。不安がある時ほどフェロモンは強く分泌されるのだと、先生は言った。大丈夫、落ち着け。今さえやり過ごせば何とかなる。そう自分に言い聞かせる。
明日も昨日までと変わらない一日を送るのだ。そうでなくてはならない。そのために出来ることなら、何でもしてきたのだから。
早く一人になりたい、早く時間が過ぎて欲しい。それだけを思う。
「終わったよ」
不意に耳元で声がして、反射的にバっと避けるように後ろに下がった。だがソファの上だったし身体が上手く動かなかったから、そのままソファから落ちかける。腕を取られてすんでの所で引き上げられ、床にぶつかるのは回避できた。
「あっぶな!・・・ねえ、ほんとに大丈夫?ベッドで寝てた方がいいんじゃない?」
「・・あ、うん・・・そう、そうする・・・くすり、薬を飲んだら寝るから。だからお前はもう帰れよ。・・・片づけ、ありがとな」
掴まれた腕から、もう幾度も経験したことのある、ゾクリとした感覚が生まれてくる。それは皮膚の上を這いずるようにして肩から肩甲骨、背筋へと伝わり、ぞわぞわとした感触を植え付けていく。汗が滲む。部屋の温度も湿度も、少し上がっているような気がした。俺は反町から目を逸らした。
「・・日向さん?」
「何、でもない。お前も早く、帰って休めって」
反町は俺の腕を離すと、今度は先ほど怪我した指先を、傷口に触らないようにして注意深く掴み上げた。
「絆創膏に血が滲んでる。小さいけど、深く切ってたのかな。貼りなおすね」
テーブルの上に出しっぱなしにしていた絆創膏の箱から新しい1枚を取り出すと、血のついた古いものを剥がして、貼りなおす。
丁寧にゆっくりと巻いていく反町と、終わるのを息を詰めてひたすら待つ俺の間で、不自然な沈黙が下りる。気まずい空気になろうとも、俺は俺がΩだということさえ知られなければそれでいいのだが、ただ居たたまれないことには変わりがなかった。
「ねえ、日向さん。・・・あの子、来てるの?来てたの?」
不意に話しかけられ、俺は顔を上げた。
反町は俺の顔を見るでなく、絆創膏を巻き終わった俺の指先に顔を近づけて、出来上がりを確かめるように矯めつ眇めつしている。
「・・・あの子って?」
「日向さんの番の子。この部屋、あの子の匂いがするじゃん。俺が出ていく時、こんなじゃなかったし。・・・それにしても、残り香が強いよね。ヒートなのかな」
「あ、ああ。・・・心配して、来てくれてた。連絡、したから・・・」
すらすらと嘘が出てくることに自分でも驚く。いつの間にこんなに人を騙すことに慣れたのだろう。
「ほんと仲がいいんだね。羨ましいなあ。俺もそんなΩの子、欲しいな」
「・・・・・」
そんな風に言われても、俺には何も答えられない。ただ下を向いて足元を見ていた。
「でも拗ねてなかった?まあ今日は日向さん、体調悪いからしょうがないけどさ。ヒートの時にΩの子を放っておくなんて、普通、あり得ないじゃん」
「別に・・・拗ねてなんか」
「その子、優しいんだ?」
何が可笑しいのか、反町がふふ、と笑う。
不思議な感じがした。他人の噂話が作り出した架空の番。実際には居もしないΩの恋人。そんなものが首の皮一枚のところでαとしての俺を守っているのかと思うと皮肉でもあったし、こんなに怖れている割には世間と自分との関係性はものすごく薄っぺらいような気がした。
だけど、これが今の俺だった。これから先も嘘をついていくだろう。たとえそのせいで人を遠ざけなければならないとしても。
一つ嘘をつけば、その嘘を守るために新しい嘘をつく。虚偽と捏造を重ねて、それらが破綻しないように、綻びが見つからないように、上手く不実と少しの真実を配置し、采配しなければならない。
そんなことを本当にこの先も続けていけるのか。
到底、自分に向いているなどとは思えない。だが続けなければ先は無い。戻れはしないのだから、どのような道であっても進むしかないのだ。暗澹たる思いにため息をついた。
「・・・ほんと、嘘つくの下手だし。罪悪感もっちゃうし。なのに、よく騙す気になったよね」
「え?」
「でもそれで騙されるんだから、俺もよっぽど間抜けってことかな」
最初、何て言われたのか分からなかった。だから条件反射のように聞き返した。
反町はうっすらと笑っている。いつも楽しそうなことを貪欲に見つけては、周りを笑わせている陽気な男。そんなイメージが重なりようもない程に、今の反町の表情からは何も読み取れなかった。
「反町?」
「違うよね」
「・・・・」
「違うんだよね。番の子なんて、来てないでしょ?・・・あー、それも違うか。来てないってのじゃないよね。最初から、いないんだよね?番の子なんて」
ヒュッ・・と甲高く細い音をたてて、俺の喉が鳴った。
いないんだよね。最初から。 尋ねてきた訳じゃない。反町は言い切っていた。
ドッ、ドッ、と、心臓が尋常じゃないほどの強さで鼓動を刻み始める。次第に苦しくなって、肩が上下する。だけど吸っても吸っても、上手く酸素を取り入れることができない。俺はTシャツの上から胸の辺りを握りしめた。ハ、ハ、という短い呼吸音が口から漏れる。
身体が暴走して制御できない状態になっていく一方で、俺の頭の中はクリアで、ちゃんと回っていた。俺には反町が何を言いたいのか、何を言っているのか、正しく理解できた。いっそのこと分からなければよかったのに。そうすれば曖昧に誤魔化して終われたかもしれないのに。
反町はもう、さっきのように薄ら笑いなど浮かべてはいなかった。墨を流したように真っ黒な双眸に怒りを滲ませて、俺を睨んでいる。
「いなかったんだよね。最初から、番なんていなかった」
「なに、言って・・・」
「じゃあ、なんで日向さんからあの子の匂いが出てるんだよ。・・・これだけ強くフェロモン出されたら、もう俺にだって分かるよ。日向さんが出してるんだよ、この匂い。・・・そうでしょ?」
カタカタという細かい音が聞こえてくる。テーブルの上に置いたテレビのリモコンが音を立てていたのだ。俺の指先が触れていた。震えているのは俺だった。
反町はそれ以上の言葉を発さず、俺を見ている。その目は確信を帯びたように強い光を湛えていて、何かを確認しようとしているものではなかった。
この男は既に知っているのだと、何もかも分かったうえで俺を追い詰めようとしているのだということが、俺にも知れた。
一つの部屋に、ヒートにあるΩと、未だ番のいないα。
普通ならこの状況からどう進むかなんてこと、誰にだって分かるだろう。どんなに鈍い人間でも。きっと子供にだって。
ソファに座って対峙したまま、逃げたいと思いながらも動けない。下手に動いてもいい方向に転がるとは思えず、視線を外すことすら出来なかった。
それでも俺はまだ心のどこかで、もしかしたらこの場を切り抜けられるのではないかと考えていた。反町とは12の時から一緒に過ごしてきた仲だ。俺がΩだと知られたのは想定外ではあったが、反町との7年にもわたる友人関係、信頼関係を信じたいとも思った。このまま何も無かったこととして帰ってくれれば、明日からまた同じ毎日を過ごせるのではないか そんなことを都合よく考えた。
だが反町はそんな淡い俺の期待など知らぬ風に、じりじりと距離を詰めてくる。俺が後ろに下がれば下がった分だけ、また近づく。
ソファの端、肘掛にまで追い詰められて俺がそれ以上は下がれなくなると、反町はふ、と笑って俺の両手を掴んだ。不安定な姿勢のうえに覆い被さられて、身動きが取れない。抵抗はしなかった。間近で見つめられて、どうするのが今の状況において正解なのかが分からなかった。
自分が一体どうなるのか、どうされるのか。見通すことができずに恐怖だけが喉元までせり上がってくる。さり気なく周りを見渡して武器になりそうなものを探すが、そんなものは手近にはなかった。
勝てるか。
腕づくでどうにかしようとするなら、この男に素手で自分は勝てるか。そう自問する。
1年半前までなら、考えるまでも無いことだった。俺は反町よりも上背もあって力も強かった。だが今はどうか。自信は無い。
胸の前に抑えつけられた腕に力を入れてみるが、少し浮いたところで更に強い力でねじ伏せられて、痛みが走った。
「・・・痛えよッ」
口惜しさに顔を背けて腹立ちをぶつけると、反町は薄く笑った。そのままゆっくりと顔を近づけてきて、俺の首筋に鼻先を埋める。
「・・・日向さんの匂い、すごく甘くて、クラクラする。おかしくなりそう」
上に乗り上げた男がそう呟いたのが、合図だった。
俺はありったけの力を振り絞って反町を突き飛ばすと、立ち上がって玄関へ走った。
外へ、外へ、外へ!
とにかく外へ出なくちゃいけなかった。ここに留まっていては、喰われるだけだ。相手は肉食獣で、俺はその獲物だ。俺だって体格はそう変わらないのだから、ヒートでない時期なら勝ち目もあるかもしれない。だけど、今は駄目だ。逃げるしかなかった。
はあっ、はあっ。
息を荒くして、テーブルの上にある物や進路にある障害物をなぎ倒しながら進む。
リビングのドアを開けて、かけ転ぶように廊下へ出る。足がもつれて壁にぶつかりながらも、裸足もそのままにタイル貼りの玄関の床に降りて、ようやく外へと続く扉のノブに手をかけた。
もう少しでここから出られる !
そう思ったところで、俺は捕まった。
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