~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 8







「日向さん、薬飲む?頭痛薬とか、胃薬とか」
「・・・いらない。薬苦手だし、多分寝てれば治ると思うから」

そうは言いながらも、歩いて帰ってくる間に気分は更に悪くなっていた。家に着く頃には、正直言って立っているのもしんどいほどだった。

反町に鍵を渡して開けて貰い、自分の家に入る。ジャージ姿のままで帰ってきたので、とりあえず寝室に入って部屋着に着替え始めた。俺の後に続いて家の中に入ってきた反町は、寝室までにはついてこず、リビングに行ったようだった。

「反町。俺、このまま寝るから。送って貰って悪かったな。お前適当に休んだら、練習に戻れよな」

着替え終わってからリビングに向かって声をかけると、「ふあーい」と間延びしたような返事が聞こえる。ベッドに潜り込んでダウンの肌掛けを上から被ると、反町が水の入ったグラスを持って入ってきた。

「日向さん。水、飲むっしょ?」
「飲む。ありがとう」

グラスが汗をかくほどによく冷えた水は、口に含むと心地よかった。とにかく何とか帰ってこれたことに安堵して、グラスの半分ほどまで飲んでから反町に返す。

「本当に一人で平気?なんだったら俺、このままこの部屋にいようか?部には連絡すればいいし」
「大丈夫だって。そんなことで練習サボるなよ、来週は試合だってあるんだし。・・・監督と主将によろしく言っておいてくれ」
「・・・うん、分かった。でも、本当に大人しくしててよね。終わったら、様子見に来るからさ」
「ガキじゃねーぞ。来なくていい。・・・もういいから早く行けって」

再びベッドに横になって目を閉じると、頭の中がクラクラした。回転系のアトラクションに乗った後に目が回ってフラフラするような、あんな感じ。今ベッドを降りたら、多分数歩で座り込む羽目になるだろう。

「あ、そうだ日向さん。1回熱測っとこうよ。体温計どこにあるの?」
「体温計?・・・テレビの下、かな。・・・多分、一番左下の引き出し」

熱・・・?
熱があるから、眩暈がして視界がグルグルしているのかと納得した。そう言われれば顔も熱いような気がする。でもどれくらいの熱がありそうかなんて、自分で額を触ってみても分からない。

「あった。日向さん、これ測って」

反町に渡された体温計を脇の下に挟む。すぐにピピ・・という電子音がしたので取り出して反町に手渡すと、「あー・・・38.5度」と呟くのが聞えた。

「日向さん、病院行く?俺、車で連れていくよ?」
「・・・いい。行かない。とりあえず寝たい」

ヒートで熱を出すなんてことは無かったから、これも薬の副作用なのかもしれない。それか、ここのところ色々とあったし、考えることも多かったから知恵熱みたいなものか。いずれにせよ病気ではないのだから、病院に行く必要もないし、連れていかれたところで困る、という事情もある。

「だいじょぶだから・・・。ほんとに行けって。俺、すこし寝てるから」
「本当に大丈夫?・・・何かあったら、電話してよね。練習中でも、マネージャーに連絡してくれればいいし」

んなことするか、と思ったけれど、もう言葉にならなかった。身体は熱いし頭もはっきりしないし、何より眠かった。
横になったら気持ち悪さも少し薄れたが、そのせいか今度は強烈な睡魔に襲われていた。もう何も考えずに、このまま寝てしまいたかった。



遠くで反町の声がした。

          つらかったら、かならずれんらくして       

ばか。おまえ、心配しすぎ。はやく、いけって・・・。

          かぎ、かけていくから       

うん、たのむ・・。

          す、みにくる         くていいから      

・・・ごめん。もうなにいってるか、よくわかんない・・・・。



そのままゆっくりと意識を手放すように、俺は眠りに落ちた。














突然の目覚めは、落下する感覚を伴う。

ぽっかりと開いた落とし穴に突き落とされたかのように、ふわりとした浮遊感と、落ち続ける感覚。そんなものを伴う覚醒は、決して気分のいいものではなく、一気に現実の世界に引き戻される。
実際にどこか高いところから落ちる夢でも見ていたのかもしれなかった。覚えてはいないけれど。

「・・・は、あ」

カーテンの閉めていない窓の外はもう暗い。何時なのか分からず、一瞬朝なのか、寝坊したのかと思って焦る。


だがすぐにそうではなく、部の練習を早退して家に帰ってきたのだということを思い出す。そして今の自分の状況。Tシャツにハーフパンツという部屋着で、ベッドに横になっている自分。汗をかいたらしく、Tシャツがペタリと肌にくっついているのが気持ち悪かった。

おそるおそる体を起こしてみると、吐き気やムカムカした感じは無くなっていた。頭痛も消えている。もしかして単なる寝不足だったんじゃないかと思いたくなるくらいには回復していた。

だけど本当のところは分かっている。今は薬が切れた状態なのだ。だから薬によって引き起こされた体調不良は解消したが、それとはまた別の問題が起きている。

俺は下半身に手を伸ばした。触るまでもなく、あの場所が変化しているのが分かる。俺はその膨らみにハーフパンツの上からそっと触れてみた。途端に今ままで感じたこともないような甘い痺れが走る。

「ふ、あっ!」

怖くなって慌てて手を離した。


なんだ、これ。なんだこれ。なんだこれ!

気が付けば声に出して叫んでいた。

「何だよ、これ・・・何なんだよ!」

今まではヒートの時期になれば必ず、抑制剤を飲んでいた。効力が弱い薬ではあっても、服用しないという選択肢は無かったから、必ず、だった。
それでもヒートによる発情は抑えようもなかったから、何度も自分で自分自身を慰めてきたけれど。だけど、薬が切れた状態で触ったことは今まで無かった。

こんな強烈な感覚は知らない。

もしかしたら単に薬の効き目が切れているから、ということだけじゃなくて、俺の体が変化してきているというのも原因の一つではあるかもしれない。だけどそんなことを冷静に分析している余裕は無かった。

分かっているのは、とてもじゃないけど、こんな感覚には耐えられそうにないということ。
いつものように一人で処理して何とかなるとは、到底思えなかった。さっき自分で触れたところを中心に、覚えのあるよりもよっぽど強い、トロリとした蜜のような愉悦が体中に広がっていく。身体が震えて慄いた。

このままでは自分がどうなるのか、分からなかった。おかしくなる。気が狂うかもしれない。実際、番を失ったΩの中には一人であることに耐えられず、気が触れる者もいると聞く。
怖い、と自覚すると、勝手に涙が目尻に滲んだ。


「は、あ、・・・・はッ」


俺は震える足を床につけて、ベッドを降りる。途端に膝が崩れて床にうずくまる。

「・・ぅ・・あ、はあっ」

苦しい。
フローリングの床に爪を立てる。ギリギリという音がして、指先が痛んだ。けれどそんな痛みすらも一瞬後には快感となって俺を苛む。
呼吸が早くなる。ハッハッという、発情期の犬のような呼吸音。そんなものを自分が発しているのだと知って、とうとう涙が溢れて床にポタポタと落ちた。

「・・・ふ、ふぅ・・っく・・」

こんなのは嫌だった。俺は犬じゃない。獣じゃない。Ωだとしても、そのまえに理性のある一人の人間だ。

          薬。くすり、さえのめば。

薬さえ飲めば、人間に戻れる。抑制剤はいつもキッチンの棚にしまっていた。それを一刻も早く身のうちに入れたかった。


何か支えが欲しかったけれども、身体を預けられそうなものは無い。四つん這いになったまま、それこそ犬のような恰好でキッチンに進む。
やっとの思いでキッチンにたどり着くと、シンクのふちに手をかけて覚束ない身体を支えながら立ち上がった。
戸棚の扉を開けて、新しい抑制剤の袋を取り出す。パッケージから小さな錠剤を取り出そうとするが、手が震えてなかなか上手く出せない。

「ち、くしょ・・ッ」

罵りながら何とか取り出した錠剤は、二粒とも俺の手のひらを滑り落ちて床に落ちた。俺は舌打ちをした。何もかも上手くいかないことに大声でわめき散らしたくなるが、まだ人としての矜持は保てているらしく、叫び声は何とか飲み込む。
それでも癇癪の玉が限界まで膨らんでいることは自覚していた。棚から乱暴にグラスを取り出し、水を汲む。

その時、予期しないタイミングでインターフォンの音が部屋に鳴り響いた。

ビクリと身体が震える。音はマンションの外からの呼び出しではなく、誰かがすぐそこ、玄関扉の向こう側で家主である俺を呼び出していることを示していた。
もしかして・・・と訝しんでインターフォンの画面を見ると、大学から戻ってきたらしい反町が、俺の荷物を持って扉の向こうに立っていた。

「・・・んだよッ!」

俺が持ってきてくれと頼んだ荷物だった。だけど、このとき感じたのは「なんでお前がいる!」という八つ当たり以外のなにものでもない、いらついた感情だけだった。

親切で持ってきてくれたのだと分かってはいる。それでも今は煩わしさが先に立つ。呼ばれたところで、扉を開けて招きいれる訳にはいかないのだ。
沸点にまで達しそうな怒りと苛立ち、それに治まることのない情欲で呼吸がますます早くなる。苦しささえ覚えるが、とにかく反町を追い帰すのが先だった。寝ている振りをして今この時をやり過ごし、薬を飲んで落ち着いた頃に連絡しよう        と考える。

『日向さーん。・・・寝てるのかなぁ?』

反町ののんびりとしたつぶやきが、インターフォン越しの機械的な音声に変換されて耳に届く。
俺は水の入ったグラスを両手で握ったまま、僅かな物音も立てないように息を殺し、反町が諦めて帰ってくれるのを待った。

だが、そうはならなかった。
俺の思惑に反して、聞こえてきたのはガチャ、という鍵を開ける音だった。シンとした部屋に響く、金属の音。この部屋に、自分以外の他人が侵入しているという証のそれ。

         どうして!?

どうして、反町が鍵を持っている!?

パニックを起こしかけている頭で、必死に思い出す。眠気に勝てず、今にも陥落せんとばかりの俺を置いて出ていく時に、あいつは何て言っていたか        

確か、そうだ。

          鍵、かけていくから。このまま借りていくね 。

そうだ、確かに、そう。そう、言っていた。

心臓がバクバクと音を立てて暴れ出す。うまく呼吸ができない。はく、はく、と口を開けて酸素を取り入れようとするが、息苦しい。
手のひらにじっとりと嫌な汗をかいて、体がガタガタと震えてきた。

         様子、見に来るからね。一応インターフォン鳴らすけど、寝てたら起きなくていいから。勝手に入るから。

うそだ。どうして。入っていいなんて、言ってない。

目の前がスウ・・・と暗くなって、視界が狭くなる。血が下がってきているのかもしれなかった。

今この部屋にいるのは、発情期のΩであり、抑制剤の効力の切れている状態の俺だけ。そして玄関から続く廊下と俺のいるキッチンを隔てた扉一枚の向こう側にいるのは、友人でもあるαの男。


自分がどういう状況にあるのか、それを理解したとき、俺の手からグラスが滑り落ちた。





ガラスが砕け散る甲高い音は、そのまま俺の、俺がこれまでに築いてきた世界の、壊れて粉々になる音だった          









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