~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 7







梅雨前線が南から北上している・・・と朝の天気予報で、気象予報士が解説していた。
だけどその日は、関東はまだカラリと晴れていた。日差しは少し強いくらいで、それでも吹く風は爽やかで気持ちがよかった。貴重な洗濯日和となるでしょう、ともその気象予報士は言っていた。


その日その時間、俺は大学にいた。
教室の移動のため、学部の入っている棟から別の棟に向かって構内を歩いている途中だった。大学の幾つかの棟と棟は上階にある渡り廊下で行き来できるようになっていたが、外が気持ちいいので出てみたのだ。

歩みを進めていると、目的とする棟よりもさらに奥の棟、その前の掲示板のあたりに反町がいるのを見つけた。女の子と立ち話をしているようだった。

相手の子は華奢で小さくて、一目でΩと分かるような女の子だった。遠目だから顔の造作までは分からないけれど、反町が連れているのだからそれなりに可愛い子なんだろう。高校時代から何人か反町の彼女を見たことがあるが、どの子も反町の好みそのものの、おっとりとした優しい雰囲気の子ばかりだった。
もしかしたらこの間のパーティーとやらで見つけた子かな・・・と思いながら、俺は何とはなしに立ち止まって二人を眺めた。


女の子は反町が何かを話すたびに、それに合わせてコクコクと頷く。少し幼い動作にも見えるが、Ωというのはそういうものだ。小さな動物みたいで、俺でさえ可愛いと思う。
彼女が首を振ると、柔らかそうなウェーブのかかった髪が揺れる。肩より上で切り揃えられたふわふわの髪の毛は、その子の細くて白い首をことさらに魅力的に見せていた。自分の見せ方を知っている子なのだろう。反町がその子の耳に顔を寄せて何か囁くと、女の子が顔を上げて笑う。音など聞こえる筈もないが、鈴の音のような笑い声を想像させた。

時折、風が強く吹いて女の子の髪を乱す。ふわりとした淡いピンクのワンピースを着ているその子は、裾が翻るのと髪型が崩れるのを気にしているようで、しきりとスカートの後ろを抑えたり、髪の毛を触る。そうすると反町がさり気なく風上に動いて、その女の子を守ってあげるのが見てとれた。

『 Ωの子は弱いんだから、守ってあげなくちゃいけないんだから 』との反町の台詞を思い出す。

αの男と、Ωの女の子。それは決して珍しい組み合わせではない。αとΩであれば同性同士のカップルもいるにはいたが、やはり異性同士の方が多い。

乱れたままの女の子の髪を、笑いながら反町が直す。女の子は甘えるように首を傾げて、小さくて華奢な手をそっと自分の男に向けて伸ばす          


ごく普通の、ありふれた情景だった。あるべきαと、Ωの図。なんらおかしいところなど無い、至って正しい二人。


当たり前の光景ながら、それはまるで完成された美しい一幅の絵のようだった。完璧な瞬間を切り取ったかのように、歪なところの無い真円のような世界。ずっと見ていたくなるような景色。懐かしいような、いとおしいような気持ちにさせられる。
自分でも不思議なくらいに惹かれたし、実際に見惚れてもいた。すごく、きれいな二人だと思った。


羨ましいと思っている訳じゃない。誰かを羨んだり妬んだりする時期はもう、とうに過ぎていた。人間、諦めた方が楽なこともあるのだ。サッカーだけは諦めるつもりはないけれど、代わりにそれ以外の望みは、俺はとっくの昔に捨てている。


憧憬というのが近いのかもしれなかった。
自分の手には入らないからこそ、あこがれるもの。そうっとして、そのままにしておきたいもの          

そこまで考えて、これを羨んでいるって人は言うんじゃないのか・・・・と思い至り、自分がおかしくなって少し笑った。




俺はその後も暫く二人を眺めていたが、講義があることをようやく思い出して、慌ててその場を後にした。


















「日向!!」
「日向さんッ!」


ガツっという鈍い音とともに衝撃を受けて、でもその瞬間は何が起こったのか分からなかった。

一瞬後には倒れている自分を認識したが、頭がクラクラしてすぐには起き上がれない。


「・・・ひゅうがさんっ、大丈夫!? どっか怪我した!?痛いところは!?」

わらわらと周りに人が集まってくるのを感じて、俺は無理に身体を起こす。頭を上げて周りを見渡して、ようやく現在の状況が見てとれた。

今はサッカー部の練習の最中で、紅白戦の中で相手に接触して倒れたのだ。特にラフなプレーをされた訳ではなかった。いつもの自分なら、避けることもできたし、跳ね返すこともできた筈だった。

それが出来なかった。理由は簡単だ。朝から体調が悪かった。頭が重かったし、身体もだるくて、思うように動かなかった。それだけだ。相手に非があった訳ではない。

「・・・大丈夫です。・・・足元が滑ったから踏ん張れなかっただけで」

関東もつい先日梅雨に入った。今日も午前中まではしとしとと雨が降っていたのだ。昼過ぎに一旦上がったものの、芝は濡れていて滑りやすかった。
芝が濡れていなくて乾いていたなら、倒されはしなかった筈だと思いたかった。

「てめ、何やってんだよ!こんなんで日向さんが怪我したらどうするんだよッ!」

俺とぶつかった相手は一年生の佐倉だった。高さのある体格を生かしたDFで、空中での競り合いは強いし、粘り強さもある。チームとしても期待している新人だ。

その佐倉に向かって反町が喰ってかかる。

「反町。佐倉が悪い訳じゃないから。俺が滑って転んだようなもんだから」

実際、佐倉は俺に巻き込まれて転倒したようなものだ。一緒に倒れこんだ際に、俺が下敷きになったから佐倉にそれほどのダメージは無さそうだったが、青い顔をして「すみません」としきりに謝っている。

「背中から落ちたな。頭も少し打ったか・・・。反町、日向を医務室へ連れていけ。場合によってはそのまま家に帰させろ。・・・日向は最初から顔色が悪かった。お前も無理なら無理と、早く言え」

主将の指示で、俺は仲間に引っ張り上げられ、そのまま医務室へ直行することになった。「すみません」と主将と監督に謝ると、早く行けと、追い出すように手を振られる。俺は反町と一緒にグラウンドを後にした。





「俺は一人でも大丈夫だから、お前は練習に戻れ」

グラウンドから医務室へと向かう途中、俺は立ち止まって反町に言った。もとより医務室になど行くつもりは無かった。
接触事故による打ち身は大したことなかったし、気分が優れないのは病気でも何でもないことは、自分が一番よく知っていた。俺は前日からヒートに入っていたのだ。

新しい薬を貰ってから以降、初めてやってきたヒートだった。とうとう始まった忌々しい生理現象。昨夜俺は呪詛の言葉を吐きながら、これまで飲んでいたものよりも強いその薬を服用した。

効果はすぐに現れた。
いつもなら薬を飲んだところでなかなか収まらないヒート特有の欲求・・・αに対する渇望が、それほどには起こらなかったのだ。ただその代わり、しばらくすると頭に鈍痛を感じ始め、全身に纏わりつくような倦怠感に苛まれるはめになった。
結果的には、この新しく処方された薬は俺に合っていないようだ・・・ということがすぐに分かった。


『少しでも変調を感じたら服用をやめるように』

俺のかかりつけ医である父の友人は、そう言っていた。
なるほど、こういう状態を想定していたのだな、ということをソファの上で横になって、ぼんやりと思った。
だからといって、服用を止めるつもりは無かった。だるいことはだるいが、眠れないほどではなさそうだったし、そうであれば学校に行って気が紛れていれば、昼間は大丈夫だろう・・・そう考えた。

今朝になると、体調は少しは回復していた。朝食を食べてから、俺は新しい薬を2錠飲んだ。
とりあえずは様子を見て、あんまり酷くなるようだったら先生に連絡して、クリニックに行けばいい・・・と軽く考えていた。

その考えが甘かったらしい。
午後になると、講義の間も徐々に気分の悪さが増してきた。今にして思えば、その時点で先生にアポを取ってクリニックに向かえばよかったのだけれど、人が話しかけてきたり部の仲間に会ったりして、なんとなく帰るタイミングを逃してしまった結果がこれだった。


「試合も近いんだし、お前がわざわざ抜けてくることもねえよ。ほら、早くさっさと戻れ」

帰れ、というさっきの俺の言葉を見事にスルーした反町に、再度伝える。

付き添ってくれようとする人間に対して、自分でも乱暴な言葉だと思わない訳ではなかったが、反町もこれまでの付き合いで慣れているのかちっとも堪える風でもなく、「えー、やだ。俺だって休憩したかったから、丁度いいんだよねえ」と返してきた。

「それに日向さん、確かに今日は具合が悪そうだよ。もう部活に戻らないで、このまま帰った方がいいよ。俺、送るし」
「一人で帰れる」
「まあまあ、そう言わないで。とりあえず医務室に行こうよ。・・・気持ち悪いとか、吐き気がするとかは無い?それと痛いところは?肩と背中、打ったでしょ。湿布貰う?」

覗き込んでくる瞳を見ると、軽い口調の割に俺のことを本気で心配してくれていることが見てとれる。そうだ、反町一樹とはこういう奴だった、と改めて思う。
普段は飄々としていて何事にも真剣さをあまり見せようとしないけれど、きっちりとやることはやるし、責任感もある。主将に俺のことを「任せた」と言われたのだから、俺が今ここで何を言ったところで、途中で放り出してサヨナラすることは無いだろうと、そうも思った。

それでも俺は「大丈夫だから、部活に戻れ」と何度も繰り返す。一方で反町も一向に引く気配を見せない。

医務室には寄らずにこのままマンションに向かうつもりだったから、それで反町を帰したかったのだけれど。
俺はその目論見は諦めて、方針を変更した。

「・・・じゃあ、マンションまで送ってくれ。医務室はいかない。このまま帰るから。悪いけど、荷物取ってきてくれるか?」
「送るのも荷物取ってくるのも、最初からそのつもりだからいいけど・・・。大丈夫?ほんとに医務室に寄らなくていいの?」
「頭はそれほどぶつけてないし、背中ももう大丈夫。どっちかというと早く横になりたい。・・・なんか悪いもん食べたかな、俺」
「そういう感じなの?吐きそう?車で来ている奴、呼ぼうか?」

余計な心配をさせたくなくて、ちょっとした食あたりを匂わしてみるが、それはそれで心配されて俺は心の中でため息をついた。
誰を呼ぶつもりか知らないけれど、そいつの車の中で俺が吐いても構わないとお前は思っているのか        という突っ込みも心の中に留めておく。

俺と反町の住むマンションは大学から徒歩圏内にあったから、反町は通学には車を使っていないし、俺はそもそも車を所有していなかった。

大丈夫、歩いて帰れる        と返事をすると、反町は頷いて俺の腕を自分の腕に絡ませるようにしてマンションに向かい始めた。









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