~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 6







あれから数日が経ったが、特に何事もなく無事に過ぎた。反町が蹴倒した例のαの男も、それ以降は特に俺に接触してくることも無かった。さすがに懲りたのかもしれない。

だけど俺は一層注意深く、用心するようになった。見知らぬ男に声を掛けられ、Ωではないかと疑われたあの日の衝撃は忘れられない。
あのことを切っ掛けに、俺はヒートの時期に飲む筈の抑制剤を日常的に服用するようになった。その薬は初めてΩだと分かった18歳の時に処方されたもので、抑制剤の中では弱いものだ。常習性も無い。

抑制剤は様々な種類のものが出ていて、普通にドラッグストアで売っているし、ネットでも手に入る。
だが俺は、そういったところで市販の薬を購入したことは無かった。面倒ではあったけれど、いつも学校から離れたところにある、最初に俺をΩと診断したクリニックへ通って薬を受け取っていた。そのクリニックの医者が俺のかかりつけ医で、定期的に彼に診て貰うことが、一人暮らしする際に親から出された条件だったからだ。気が付いた時には、父と母がすでにそう話をつけていた。

先生は父親の古くからの知り合いで、年齢も父と同じくらいだった。人の好さそうな顔をした彼は、俺が行くといつも「何か変わったことは無いか」「困っていることは無いか」と気にかけてくれ、俺の話を聞いてくれる。俺にとっても、必要な時間ではあった。

後天的に性が変わった点でも、それを隠してαとして生活している点でも、俺は世間一般的にみて間違いなくレアな患者だ。
そんな俺を面倒がらずに穏やかに迎え入れてくれる先生は、行くたびに俺を安心させてくれ、落ち着かせてくれた。




先生との約束では3か月ごとに彼の元を訪れて、その時にヒート1回分の薬を受け取ることになっていた。だが今は抑制剤を毎日飲むようにしているから、次に約束した時期よりも大分早く、クリニックへ行かなくてはならなくなった。

その日、「急いで相談したいことがある」と突然にアポを取った俺を、やっぱり彼は嫌な顔ひとつせずに迎えてくれた。いつものようにカウンセリングルームに俺を通すと、柔らかい革の張られたソファに向かい合って座る。
「何か変わったことでも?」とにこやかに問うてくれた彼だったが、俺が毎日薬を飲んでいるので足りなくなってきたのだと言うと、途端に顔を顰めた。

「話を聞かせて貰おうかな。・・・ただね、何度も言っているけれども、フェロモンが分泌されているのは、正しく機能している状態なんだよ。それを薬で無理に抑えているのだから、多少なりとも心身に影響があるだろうということは理解しているよね?」
「分かっているよ。でも飲まないでいると、日常生活に支障が出るんだ」

俺だって飲まずに済むなら、飲みたくはないけれど。でもαとして生活していくうえでは仕方がないことなんだ・・・、と俺は主張した。

「今まで、ちゃんとやってこれたじゃないか。確かに君ももう適齢期だから、フェロモンの分泌量も増えてはいるだろう。それでもヒートでない時期なら、さほど問題じゃない筈だよ」
「俺だってこの間までそう思ってたよ。だけど、俺から匂いがするって・・・Ωの匂いがするって言われた。薬を飲むのが駄目なら、他にどうすればいい?」

俺は彼に先日の出来事を話した。
大学の構内でαの男に捕まったこと。Ωとばれかけたこと。幸い運よく、勘違いと思わせて追い払うことが出来たこと。

彼は俺が話している間、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしていたが、最後にはホウ、とため息を吐いた。

「よかった。何とか乗り切ったんだね」
「ギリギリ。友達来なかったら、ほんとにヤバかった。・・・ねえ、俺、どうしたらいい?薬飲み続けるしかない?でも、身体が薬に慣れていくんでしょう?もっと強い薬を出してくれる?」
「今より強い薬は、常用するのは駄目だ」
「じゃあ、毎日飲むのは今の薬で、ヒートの時に強い薬を飲むのは? ヒートに入ったら、今の薬じゃ隠せないような気がする。匂いは自分じゃ分からないけれど、・・・その、感覚的にはどんどん強くなっているのが分かる」

言葉を濁したが、要はヒートの時のそういう欲求が強まっている、ということだ。
全く望まないことではあるが、Ωとしての俺の身体は日々変化している。成熟するにつれ、フェロモンの量も質も変わってきているようだった。それは先生にも、以前から言われていたことだった。


俺の懇願に対して彼は渋い顔をしたものの、最終的には物わかりの悪くて頑固な患者に折れて、俺の実家に連絡を入れてくれた。父親は不在だったが、母親が出たので、俺も話した。
父親でなくて、母親がいてくれてよかったと思う。結局のところ、Ωの生き辛さはαには分からないだろうから。

母は父の友人に対して、息子の望むようにして欲しい、と言ってくれた。それでやっと、俺はより効力の強い薬を処方して貰うことが出来たのだ。



「君の体質に合うかどうか分からないから、少しでも変調を感じたら服用をやめて、連絡すること。これまでの薬も、様子を見てなるべく早く常用を止めること。いいね。約束できるね?」
「分かった。約束する」

薬を受け取って帰り際、彼からしつこいほどに念を押された俺はおとなしく頷いた。
だけどもう、元の弱い薬に戻せるとは思わなかった。一度強い薬を使うようになったら最後、軽い薬では耐えられないだろう。

「今日はありがとうございました。急に押しかけてすみません」
「いや、いい。困ったことがあったら、電話しなさい。僕でもいいし、君のご両親でもいい。誰かを頼りなさい。αとかΩとかではなく、君はまだ子供なんだからね」
「いや、子供じゃないっすけどね」

俺は今年の8月で二十歳になるのだ。子供扱いはないだろうと思って笑うと、彼も目尻に皺を作って笑顔を見せた。

「それとね、小次郎」
「はい?」
「君の友人に・・・誰か一人でもいいから、信頼できる友人に話すことはできないかな。味方が一人いるだけで、不測の事態にも対応できるようになるし、何より君が安心できて、安定すると思う。前から言っていることだけれど、不安を感じている時は、そうでない時よりもαを誘う物質がより多く出る。・・・こんなことを言うと君は嫌がるだろうが、本来ならΩは、αに守って貰って生きていくものだからね」

だから、フェロモンを抑えたいのならば、まず君が落ち着くことが必要だ        と、人のいい医者は、子供を諭すような顔をして俺に言う。

「・・・先生は優しいな。無理だって分かってても、俺のためを考えて言ってくれる」
「はは。そっか。無理か」

俺にとっては、もう一人の父親みたいな人だ。本気で心配してくれているのが分かるから、この人が俺のことをΩといっても、それは腹も立たない。

「さよなら」


俺は手を振って、クリニックの扉を開けた。






クリニックに着いた時点で既に外は宵闇に覆われていたけれど、今ではすっかり夜も更けていた。中天に差しかかった真ん丸な月の光が、優しく辺りを照らしてくれる。

俺は薬の入った袋を抱えなおした。もう後戻りはできないのだと思って、覚悟を新たにした。

この薬は俺の命綱だ。一人のΩとしては飲まなくても生きていけるだろうが、サッカー選手としての「日向小次郎」は、飲まなければ多分、そこで終わり。Ωであることを完璧に隠し通さない限り、これまで培ってきた俺の人生は詰んでしまうのだ。

一生とは言わない。
せめて、サッカーが出来なくなる年齢まで。それまででいいから、αとして周りを欺いて生きていく        

いつか皆に知られたら、その時こそ全てを無くしてしまうのかもしれないけれど。


(誰か一人でも、味方を作れないか・・・・か)

周りにいるのは別に信用できない人間ばかりではない。でも、到底無理な話だった。
他人の器に水を移せば、その水がどこかから漏れていたとしても、俺にはもう分からない。秘密にしたいなら、溢れそうでも重くても、自分で抱えておくしかない。自分の胸だけにおさめておくのが一番なのだ。

それに俺はこれ以上誰かを共犯者に巻き込むつもりも無かった。家族や父の友人は既に巻き込んでしまった。だけど赤の他人に迷惑をかける訳にはいかない。嘘を突き通すのはなかなかに後ろめたいものだ。そんなので苦しむのは、俺とあの人たちだけで十分だと思う。




俺は薬をバッグにしまうと、タクシーの拾える大通りに向かって歩き出した。









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