~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 5





男は俺の耳元でスウ・・・と一度深く息を吸うと、顔を上げた。

「こうして近づいても、まだほんのり薫る程度だけれど。本当に甘くて・・・いい匂いだ。ヒートになったらどれだけ強く薫るんだろう?今の状態でこんなに惹かれるんだから、僕と君、相性がいいんじゃないかな」

親しげな笑みを浮かべてそんなことを言われても、俺は笑い返せやしない。この場をどう切り抜ければいいのかと、混乱する頭でただそれだけを考える。

これが本当に相手を探しているΩなら、話は違うだろう。決まったパートナー・・・番または恋人とも言うが、それがいないΩなら、αに声を掛けれられれば嬉しい筈だ。ヒートが近いなら尚更。そのαが強いαであるなら、より一層。

だけど、俺はΩじゃない。俺の身体がどれほど変わろうとも、頭の中身は未だαのままだ。誰に理解して貰おうとも思わない。だから放っておいてくれればいい。
何をどうしたって、俺はΩにはなれない。なる訳にはいかない。

「・・・あんた、イカれてんじゃねぇの?俺はΩじゃねえよ。んなもん、俺の見た目で分かんだろ。どこにこんなゴツイΩがいるよ。・・・気持ちワリイから、とっととどっかに行けよ!」

掴んだ腕を離そうとしない男に焦れて、実力行使でその手を解こうとするが、思っていたように解けない。予想以上に男の握力が強かった。

「腕が痛えんだよ!いい加減に、離せ・・・っ!」
「確かに、普通のΩの子よりは育っているし、力も強いね。・・・でも僕を振り切れないようじゃ、君はαではないよ。だけど凡庸なβでもない。・・・じゃあ、一体何なのかな」

俺は忌々しいこの男に舌打ちをした。
俺が何なのかだなんて、俺が一番知りたい。俺が何になってしまったのか。どうして俺がΩに変わらなければならなかったのか。誰よりも強いαだった俺が、どうして。それも今更。いまさら、だ。

「俺はαだ。αをΩと勘違いするなんて、間抜けもいい所だな。後で笑われて、赤っ恥かきやがれ」
「ふーん?見た目と違って、意外に口が悪いんだね?・・・いいよ、もう少ししたら、ハッキリするだろうし」

そう言って、また耳の後ろに顔を寄せてくる。


俺のことをΩだと決めつけて迫ってくるαの男。
こんな状況に陥るのは初めてのことだ。どうすればいい?


最早、部活に遅刻しそうだなんてことはどこかに飛んでしまっていた。
今はとにかく、目の前の男を何とかしなくてはならない。勿論、別の日に会いましょう、なんて約束をする訳にはいかない。だけどただ逃げるにしたって、俺がΩだと思わせたままでは後で分が悪くなる。

思い悩む間も、αの男は明確な意思をもって身体を密着させてくる。
男の言うように時期が近いのは確かだったが、まだヒートには入っていない。それでも俺の身体からは微量のフェロモンが出ているということなんだろう。発情を抑える薬は飲んでいなかった。

俺は歯噛みした。こんなことなら、ヒートでなくても普段から薬を飲んでおけばよかった。自分では自分の出している匂いなんか分からないから、ヒートでなければ問題ないかと思っていた。それが間違いだった。

『身体は薬に慣れてくるから、時期でなければ飲み過ぎないように』 と処方してくれた医者からも言われていたが、効かなくなれば、もっと強い薬に変えればいいのだ。身体に負担がかかってもいい。こんな目にあうことを考えれば、よっぽどマシだ。


「な・・っ!どこ触ってんだよっ、変態野郎!」

男の手が何かを確かめるように、俺の腰に這わされる。抱きこまれるようにして背中を撫で上げられて、悍ましさに身体が震えた。

             イヤ、だ。

頭に浮かんだのは、その一言だけだ。

気持ち悪い、屈辱的だ、誰が通るとも限らない場所で知らない男に好きにされるなど、冗談じゃない       
後になればいくらでもその時の気持ちを他の言葉で表すこともできただろうが、その瞬間に出てきたのは、嫌だ、止めてくれ       という懇願だけだった。
正直に言えば、俺を捕えている男のことが恐ろしかった。

この男は、俺をΩにしようとしている       、そう気が付いたからだ。

性の対象として扱うことで、俺の中身までΩに変えようとしているαの男。もしこのままこの男に犯されでもしたら、もう俺は 『 頭の中身はα 』 などという、他人が聞けば鼻で笑うだろう言い訳も出来なくなる。
αに一度でも抱かれれば、きっと俺は俺でなくなる。αに与えられる快楽を知れば、それ無しでは生きていけなくなる。Ωとはそういうものだからだ。
寝たら最後、俺もαに依存するΩになって、身体だけでなく心までがΩになっていくのだろう。本当のΩにされてしまう。

そうなったらαとしての俺は完全に過去のものとなり、記憶の底に埋もれていく。俺の夢も何もかも、全てを道連れにして。

そんなのは嫌だ。まっぴらだ。
αなんてクソくらえだ。

男の腕の中から何とか抜け出そうと、意外なほどに厚くて固い胸板を押して暴れる。けれど俺を閉じ込めている男は「変態は酷いな」と言って、気配で笑うだけで、俺を自由にはしてくれない。

「離せ・・!本当に俺はΩじゃないし、てめえと遊んでいる暇はねえんだよ!」
「αを誘うフェロモンを出しているのに?Ωじゃないって?」
「違うって言ってんだろ!でも例えΩがここにいたとしても、そいつにだって選ぶ権利があるだろうよ!誰だってしつこい男は嫌い・・・」

だろう・・・、という言葉は口から出る前に途絶えた。


その瞬間、目の前にいた男が消えたからだ。










正確には、俺を捕まえていた筈の男は、地面に転がっていた。そして、鈍い音をさせて、その男の腰を横から思いっきり蹴りつけて吹っ飛ばした反町が、いつの間にか俺の隣で腕を組んで仁王立ちしている。

「どうよ?これでもサッカー部のフォワードだしね。なかなかの脚力でしょ」

そう言って、今度は靴の先でガン、と転がったままで呻いている男の鳩尾を蹴り上げた。


「・・・痛ッ・・。・・・突然、何をするんだ・・・!」
「あぁ?それはこっちの台詞なんすけど? ・・・うちのエースストライカーに何をセクハラしてんだよ。てめえ」
「・・・エースストライカー?・・・Ωの、君が?」

倒された男は俺を見ながら、『Ω』 と呼ぶ。俺は内心でビクリとしたが、それは表に出さないように努めた。

「はあ? お前、何言ってんの? 誰が? Ω? 寝言は寝てから言ってくれるー?・・・日向さん、コイツ、知り合い?頭おかしい系?」
「・・・知らない奴。頭は・・・多分、おかしいんだと思う」
「だよねー。訳わかんないこと言ってるもんねー」

反町はガツン、ともう一度αの男を蹴りつける。口調は軽いけれども、反町が本気で腹を立てていることが俺には分かる。いつもはクルクルとよく変わる表情が一切無くなって、感情を表すものは冷たい視線だけになっているからだ。反町が本当に怒るとこんな風になるのは、長い付き合いで知っていた。

蹴られた男が呻き声を漏らしても、反町は眉ひとつ動かさない。ああそうか、こいつもやっぱりαなんだ・・・って、妙なところで実感する。

「何をどう勘違いしてるか知んないけどさぁ。なんでサッカー部のエースで、中高からこの学校にいるこの人が、Ωになりえんの?」
「・・・匂いが、するだろう。お前もαなら、嗅いでみれば分かる」
「匂い?」

反町は隣に立つ俺を振り返る。度を超えた怒りに冷え切った目は、俺を見ても和らぐことはない。
俺は動揺と怖れが自分の表情に出ていないかと不安になった。俺から出ているらしいαを誘うフェロモン。それを感知すれば、反町にだって俺がαではないときっと分かってしまうだろう。

再び心臓の鼓動がドクドクと大きくなる。自然と後ずさりしそうになる身体を、最大限の努力で留まらせた。不審な動きを見せれば、男のもつ俺への疑惑が強まってしまう。

反町はおもむろに俺の頭に顔を寄せてきて、スン・・と匂いを嗅いだ。

「・・・ああ、コレね。この匂い、いつもの子だね、日向さん。・・・今日もその子と一緒だったの?」
「・・・いつもの?」
「そうだよ。よくこの子の匂い、させてるじゃん。いつも同じ香りの子だもんね。日向さんの番なんでしょ?」
「番?この子には番がいるのか?」
「そう。この人には決まったΩの子がいるの。あんた、この人が移されてきたその子の匂いに反応したんでしょ。ダッセーのぉ」

くく、と馬鹿にしたように嗤う反町に、αの男は顔をしかめる。二人のαが自分のことを話しているというのに、俺はそれをどこか他人事のように、一歩引いた感覚で眺めていた。ふわふわと、地面に足が着いていないような感じがした。

何がどう結論づけられたのか・・・・二人の会話を咀嚼すると、どうやら助かったらしいことが分かる。
でもまだ安全とは言い切れない。一体誰が敵で、誰が味方なのか。
αは敵だ。じゃあ、反町も敵なのか。
何に向ければいいか分からない怒りや羞恥で、頭の中がグチャグチャだ。情けないのと悔しいのと、怖かったのとほっとしたので、飽和状態もいいところだった。

「分かったら、さっさと消え失せろ。二度とこの人に話し掛けるな」

吐き捨てるようにして反町が男に投げつけた言葉に、αの男同士でも力関係って歴然とあるんだな・・・と、ぼんやりした頭で思った。









αの男が立ち去った後、俺と反町はすっかり遅くなったが、グラウンドに向けて歩き始めた。もう今更なので、走る気にもならず、のんびりと歩いた。

「あーあ、遅刻決定。っつーか、島野から着信あったよ。やべーかな。・・・ま、いっか。一緒に怒られようね。日向さん」
「悪かったな。俺が変なのに引っかかったばっかりに、お前まで巻き込んじまって」
「やあだあ。そんな他人行儀なこと言わないでー」

一樹さみしいー、と茶化して笑う反町はすっかり普段どおりで、俺は安心した。
さっきのΩ云々も、あの男の言うことは全く気に留めていないらしい。

男が俺に絡んでいるのを遠くから見つけて、走ってきたのだと反町は言った。
「日向さん一人でも大丈夫だったかもしれないけど、でも今時は変なのも多いしさ。下手に刺激しても怖いから、ああいう輩には適当に相槌打ちながら、早く誰かを呼んだ方がいいよ」と助言までされた。

「ありがとう。助かった。あいつ、腕の力が異様に強くてさ」
「うん。日向さんって足はともかく、上半身は意外にね。筋肉つかないもんね。さっさと蹴っちゃえば良かったね。・・って、日向さんが蹴ったら病院送りかー」

そう言ってけらけらと笑う反町に、「そんなことねえだろ」と返す。反町の顔は見れなかった。俺は上手く笑えているのだろうか。

「でも日向さんさ・・・」
「うん?」

ちょっと、もう一度嗅いでいい?          そう言って、反町は俺の頭に鼻先を寄せた。

「確かにこれ・・・この匂いはちょっと俺らには刺激的かも。何をどうやったら、こんなに移されちゃうの。一回シャワー浴びた方がいいね」
「そん、なに・・・?」
「うーん・・・。日向さんの大事な子って分かっていても、ちょっとね。この香りはやばいかもしれない。」

俺がその言葉にパッと反町の方を振り向くと、反町は「え、ちが、違うっ!違いますっ!日向さんの番に手を出そうってことじゃ、ないからねっ!」と慌てたように顔の前で手を振って否定する。
頬をほんのりと赤く染めたその様が、さっきまでの冷たい表情とは打って変わって面白い。俺はくすくすと笑う。

「馬鹿。当たり前だろ」
「う、ん。・・・変なこと言って、ごめんね」

すっかり反町の中で、俺にΩの番がいることに決定しているのはどうかとも思ったが、こうなってしまったら否定もできないし、このままにしておくしかないだろう。
寧ろ、そういう相手がいることにしておいた方が、後々都合がいいかもしれない。

「でもさ、日向さん。ちゃんと俺たちには紹介してよね。・・・その、日向さんの大事な子。Ωの、女の子?・・・もしかしたら男の子かな」
「・・・・」
「いつか紹介してくれるかな、なんて思って待ってたんだけど、なかなか日向さん、お披露目してくれないし。島野とも話してたんだよね。日向さんの相手の子は、きっとすごく可愛くて素敵な子なんだろうな・・・って。日向さんを落としちゃうくらいの子だもんね。見た目も中身も、きっと最高の子なんだろうなあ・・・いいなあ、なんてさ」
「・・・そんな、別に・・・」

内心、俺は驚いていた。
そんな風に見られていたなんて、知らなかった。反町だけでなく、島野まで俺に決まったΩの相手がいると考えていただなんて。
ということは、部の他のメンバーたちもそう思っているのかもしれない。

「俺はもう、このフェロモンの匂いは覚えたから大丈夫だけどさ。でも、さっきの男みたいのに目をつけられたら大変でしょ?その子のこと知ってたら、日向さんが傍にいない時とか、代わりに守ってあげることも出来るかもしれないし。Ωの子は弱いから、大事にしてあげなくちゃいけないんだから」

だからちゃんと紹介してね・・、と反町は続ける。

「・・・そうだな。そのうち、な」

それ以外に、どんな言葉を選べば良かっただろう。
曖昧な返事で誤魔化す俺の隣で、反町は上機嫌で「約束ねー」などと言って笑っている。


俺の嘘など微塵も疑わない、明るくて楽しくて、賑やかなことが大好きな友人。中学生の時から知っているけれど、他人が笑っているのが好きで、いつもその真ん中にいて、調子がよくて要領もよくて。
でも天邪鬼で、一筋縄じゃいかない人間でもあって。

昔から交渉事や調整が得意で、そういった類のことが苦手な俺は、部でも学校でもどれだけ助けられたか分からない。

あの頃と全く変わらず、反町は子供みたいな悪戯っぽい瞳をして、快活に笑う。



痛みとか辛さにはいい加減に慣れて鈍感になったかと思っていたのに、その笑顔を見ると少しだけ胸が痛む。

          ごめんな。

騙し続けて。
裏切り続けて。
αじゃ無くなって。


俺は隣を歩く反町に、心の中でそっと謝った。









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