~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 38
「う・・あ、・・・あぁ・・っ」
身体がガクガクと揺れるのを止めることができない。立っていられず、その場に崩れ落ちそうになるのを反町が支えてくれた。
「日向さん!?どうしたの・・・!」
ベンチに座らされるけれど、それだって姿勢を保っていられない。俺は固い木の上に倒れこんだ。
体の震えは止まらない。腹の奥の疼きも。俺の内部で何かが勝手に蠢いている。何かを欲して、ざわざわと皮膚の下、臓腑の奥で暴れ回っている。腹をすかせた蛇が這うかのように、ぬめぬめと何かが。
「・・・は、はあ・・っ、ん、ふあ・・ッ」
息が荒くなる。体が熱くなって、こめかみからも首筋からも汗が流れ落ちる。何とかして帰らなくちゃいけないのに、意識も朦朧としてきた。頭の中に霞がかかったようで、考えることがはっきりしなくなってくる。
(これ なんで・・?なんでおれ、発情している・・・・?)
ヒートの時期じゃない。ヒートの時期じゃない筈なのに。
もうフェロモンの匂いがどうのというレベルじゃなく、俺ははっきりと発情の兆候を見せていた。
「・・・日向さん、これ・・・」
声がした方にどうにか視線を動かすと、反町が腕で口と鼻を覆っていた。
(ばか・・・にげ、ろ )
今の俺に一番引きずられるのは というより、唯一影響を受けるのが、この男だ。早く逃がさなくてはいけなかった。でないと、反町の方にそんな気がなくたって俺に引きずられてしまうだろう。
それなのに俺は、無意識に手を伸ばしてしまう。
「・・そり、まち」
「日向さん・・・どうして?何で急に・・?」
「にげろ・・・っ」
「逃げるって、俺が?何のために・・」
反町がふいに口を閉ざして、公園の入り口の方を振り向いた。俺にはよく分からなかったけれど、何かを聞き取ったようだった。
「抑制剤は?」
「・・もって、ない・・」
「とりあえず帰ろう、日向さん。こんなところにいると危ない。・・・何があっても俺が守るって言いたいけれど、危険は避けた方がいいに違いないから」
反町は自分のジャケットを脱いで、俺に頭から被せた。
「姫抱きにすると目立っちゃうから、背中におぶっていくね。・・・よ、っと」
「いい、から・・っ、放っておけよ・・!」
「日向さんを誰かに差し出すような真似、俺がするとでも?」
「おれはだいじょうぶ、だから」
「黙ってて」
俺を背中に担ぐと、反町は足早に公園を出る。人の声がする方を注意深く避けて歩き、マンションのエントランスをくぐる。ダイミングよく降りてきたエレベーターに乗り込む。他に同乗者はいなかった。
「日向さんの部屋に連れて帰るからね」
「・・・ンン・・っ、ふ」
「もう少しだから、我慢して」
そんなことを言われても無理だ。背負われているのだから、鼻先に反町の首筋がある。これまでに嗅いだどんな匂いとも違う、かぐわしい香り。ほんの少し吸うだけでも理性が無くなりそうなのに、これだけ近くにいるのだ。頭がくらくらする。どうして自分を保っていられるだろう。
しかも頭から反町のジャケットを被っているのだから、尚更この男の匂いしか嗅ぎ取れない。
こんなの、我慢なんか出来るわけがない。
「ん、、ンン、・・ひ・・っ、ん」
「日向さん、すぐに着くから」
いつの間にか泣き始めていた俺を、反町が背中で揺すり上げる。
「も、・・もう、や、・・やだ・・・」
「大丈夫。薬飲んだら、すぐに楽になるからね」
上昇を続けていたエレベーターが速度を落とし、やがて目的のフロアに着いた。
俺をおぶったままエレベーターを下りた反町が「・・・どうも」と誰かに向かって挨拶をする。俺も知っているような人とすれ違ったのかもしれない。
反町は俺の部屋の前まで来ると、持っていた鍵を使ってドアを開けた。そのまま寝室に直行してベッドの上に俺を下す。
「・・・は、あ・・っ」
「・・・日向さん」
「あ、や、・・さわったら・・!」
汗で額に貼りついた前髪を払ってくれるのさえ、今は快感として捉えてしまう。服が肌に擦れるのも、シーツの感触も、全ての刺激が俺を追い上げる。
「やだ・・やだ、もういやだ・・・そり、まち・・っ」
下半身は前も後ろも、すっかり濡れそぼっている。下着の中がグチャグチャになっているのが自分でも分かった。俺の身体は、すっかりαを受け入れる準備を整えている。
濡れた生地の感触が気持ち悪い。今すぐに脱いでしまいたかった。
苦しいのと訳が分からないのと、不快で耐え難いのと、怖いのと。ぜんぶを今すぐにどうにかして欲しくて、俺は泣いた。泣いて『たすけて』と繰り返していた。
「大丈夫だよ。あとでちゃんと綺麗に身体を拭いてあげるからね。・・・まずは薬を飲もう。待ってて」
反町がキッチンに薬を取りに行こうとするのを、俺は震える手で服をつかんで引き留めた。
「ちが・・・。くすり、こっち・・」
「こっち?この引きだし?」
ベッドサイドに置いた小さな棚から、薬を取り出してもらった。一錠を口の中に押し込むと、持ってきて貰った水で流し込む。
「・・ン」
グラスを持つ手がおぼつかないのを、反町が上から両手で支えてくれる。
口の端からボタボタと水を零しながらも、俺は間違いなく薬を飲みこんだ。
「・・・・飲めた?」
「ん・・」
ホッとした。
これで大丈夫 そう思った。
「・・はあ、・・・ン、・・ふ、・・」
ベッドに再び横になって、薬が効いてくるのを待つ。どれくらい待てばいいのだろうか。実のところ、その辺が俺にはよく分かっていない。それでもとにかく、じっと待っているしかなかった。
その間も、俺の内にいる蛇はますます荒れ狂う。熱と疼きをそこかしこにばら撒き、決してその勢いが衰えることはなかった。
「ン、んん・・っ、あ、あっ、ああ・・っ」
もう無理だ。これ以上は無理。このままでいたらおかしくなる 。
俺はベッドサイドに立っている反町を見上げた。αの男は、発情真っ只中にあるΩを困ったような顔をして見降ろしている。だがその目に浮かんだ欲望の色は隠せていない。反町だって、ちゃんと俺のことを欲しがっていた。
「んんっ!・・あ、ふあ・・・あ、そ、りまち・・・!」
「・・・日向さん・・・。まだ・・・、まだ薬、効かないの・・?」
『俺の方が限界だよ・・・!』と、小さな呟きが聞えた。手で鼻を抑えて、苦しそうに顔を歪めた反町が俺に背を向けて部屋から出ていこうとする。俺はその背中に向かって必死で呼び留めた。
「ま、てよ・・・っ。だ、いじょぶ、だから・・・もう」
「大丈夫なんかじゃないよ・・!日向さん、自分で分からないんでしょう!?自分がどれくらい甘い匂いをさせているか・・・!何だよ、これ・・・!こんなの、今まで嗅いだことないよ・・・っ」
常になく切羽詰った様子の反町を見て、『ああ、先生の言ったことはこういうことなんだな』と、ストンと胸に落ちた。
普段はいくらだって完璧に取り繕うことができるのに、その男が今、自分をコントロールできずに困惑している。俺の発情がこれまでに経験したヒートとは全く違うように、反町にとっても他のΩの発情とは違うように感じるのだろう。
どうしたって抗えない 番とは、本能とは、そういうものなのだから。今の俺からは、この男を誘うためだけのフェロモンが出ているのだから。
(俺が選んだ。俺が俺自身を変えてまで、こいつを選んだんだ )
ならば俺には、この男を手に入れる権利があるのではないだろうか。誰憚ることなく、俺のものだと言っていいのではないだろうか。
Ωへの渇望に震えるαに向かって、俺は手を伸ばした。俺のものだ 今度こそ、俺のものにする。
だれか他人に執着するのは、自分がΩと分かってから初めてと言ってもいいかもしれなかった。
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