~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 37









クリニックから帰るのに、いつもはタクシーでマンションの前までつけていたけれど、今日は少し手前で下りた。一人で歩いて、頭の中を整理したかったからだ。

今日先生に教えて貰ったことを、もう一度なぞってみる。俺の身体に関して、薄々そうじゃないかと思っていたことがこれでハッキリした。

俺の体が変化しているということ。ある一人のαに合わせて、そのαのためだけに俺が変わりつつあるということ。
気づかないうちに、後戻りができないところまで来てしまったということ。

(・・・こんなことになると分かっていたなら)

・・・分かっていたら?
そうだったなら、俺はどうしただろうか。

少なくとも、あのαと仮の番になることを受け入れたりはしなかっただろう。一時の楽を選んだりはしなかった筈だ。
こうなったのは、俺が甘かったのだと分かっている。あいつは強制しなかった。俺に選ばせてくれて、俺が誤った選択をしただけのことだ。

(だけど、もう今更     

今更そんなことを蒸し返しても、何の意味も無い。過ぎた時間は取り戻せない。

問題なのはこれからだ。これからどうするのが、一番いいのか。
あいつにとって。俺にとって。

俺は『運命の番』として反町を選んでしまったけれど、あいつはそのことを知らない。それは幸いと言っていい。

(・・・最悪、あいつだけはこれ以上巻き込まないで済む)

先生には『手離すな。自分から幸せを逃すな』と言われた。
そう思ってくれるのは嬉しいし、ありがたい。

それでもまだ、俺は決め兼ねている。あいつが何を望んでいるか、俺が何を欲しがっているか、それらが明らかになったとしても、決めることが出来ない。俺があのαを自分のものにしていいのかどうかが、どうしても分からなかった。



日が沈みかけて薄暗くなってきた道をトボトボと歩く。図体のでかい男が肩を落として悄然とした様子で歩いているのだから、傍から見ればさぞ滑稽だし、もしかしたら不審者に見えていたかもしれない。だけど、そんなことを気にする余裕は俺には無かった。

俺はあいつのことを切り捨てた。つい昨日のことだ。
あいつは何度も俺のことを好きだと言ってくれていたのに、俺は一度も同じ言葉を返したことが無かった。『お前といるのは楽だったけれど、それだけだ』      昨日の夜、そんな酷い言葉で傷つけた。『もう要らない』とまで言って、部屋から追い出した。
プライドの高いαの尊厳を踏みにじって、そのうえで捨てた。

「・・・・最低だな、俺・・・」

意識しない呟きが漏れる。

あんな風に言うべきじゃなかった。
別れた方がいいのなら、その方があいつのためだというのなら、そう言って分からせれば良かった。理解してくれないなら、納得してくれないのなら、そうなるまで何度でも説得すればよかった。そうしなかったのは、俺がその努力を怠ったということだ。
あいつを傷つける必要なんか、どこにも無かったのに      酷いことをした。


「あれ・・・」

気が付いたら、またぽたぽたと涙が零れ落ちていた。通りかかる人たちがそれに気づくと、驚いたような顔をして足早に過ぎていく。

今日の俺は本当におかしかった。自律神経がどうにかなっているのかもしれない。αだった時には、こんな状態になったことは無かった。自身をちゃんとコントロールできないだなんてことは。

(・・・ああ、でも。感情のコントロールは出来ていたけれど、強情だとは、よく言われたっけな・・・)

『後悔するくらいなら、強情を張らなければいいのに。本当にあなたは頑固なんだから』

子供の頃、母親によく呆れ顔でそんなことを言われた。それくらいに俺は、我の強い子供だった。
今の俺を見たら、彼女は同じことを言うのだろうか。いい年をして何をしているのだと、どうしてそう成長しないのだと、咎めるのだろうか。

だけど俺だって。
俺だって出来るものなら、素直な人間になりたかった。
欲しいものは欲しいのだと、堂々と言えれば良かった。もう俺のものなんだから、誰かに渡すのは嫌だと、そう主張できれば良かった。

     でも、そうしてはいけないと、思っていたんだ。

「・・・ふ」

涙がポタポタと地面に落ちていく。さっきよりは人通りが減っているけれど、それでも全く歩いていない訳じゃない。俺を見た人は、きっと頭のおかしい奴だと思っていることだろう。

     馬ッ鹿みてえ)

これまでの俺はこんな風に外で泣いたりして、人の目を引くようなことは絶対にしなかった。
αの時だけでなく、Ωになってからも。
それはΩであることを自分で認めたくなかったからだし、それ以前に単純に目立つことが危険だからでもあった。

だがこれからの俺は、そんなリスクを気にする必要は無いのだ。だってもう、俺からαを誘うフェロモンは出ない。誰彼かまわずαを誘うようなフェロモンは。

ある意味では、俺は自由になったのだと言える。
3か月に一度のヒートがやってくるのは変わらないにしても、これからは外出だってさほど恐れる必要はない。動けるのなら、出歩いても構わない。その辺のαに連れ去られ、いいように扱われる危険性は減ったのだから。
この状態は、αとして生きていくにも、一人で生きていくにも都合がいい。

「・・・っ、」

なのに、なぜ涙が止まらない。
頬を伝って次から次へと落ちていく涙は、どれだけ出せば止まるのだろう。体中の水分が抜けてしまえば止まるのだろうか。

(・・・このままじゃ、マンションにも入れない)

マンションの他の住人とは特に親しくしている訳じゃ無いけれど、同じ階の人とは顔を合わせれば挨拶くらいは交わす。
いかにも泣きましたといった顔で、その人たちに会いたくはなかった。

(どこかで、時間を潰してから・・・・)

マンションには小さな公園が隣接している。ブランコや滑り台があるだけの、簡素な造りの公園だ。昼間は親子連れが遊んでいたりするけれど、この時間ならおそらく誰も居ない。

俺はその公園に入っていった。中ほどにあるベンチに腰をかける。背もたれに上半身を預け、手足の力を抜いてだらりと伸ばした。




空はいつの間にか、すっかり夜になっていた。さっき歩いていた時にはまだ夕暮れといった感じだったのに、日が落ちると暗くなるのが早い。
マンションや他の高いビルに囲まれた公園だから、ベンチから見上げた空も小さく切り取られた窓のように見える。そんな狭い空でも、明るい星が幾つか光って見えた。

(本当に・・・これからどうするのが、一番いいんだろうな)

サッカーに関する限り、俺がするべきことは変わらない。これまで以上に努力をして、プロの選手になって、オリンピックにもW杯にも日本代表として出場し、優勝を目指す。そんな選手になる。

ただ      プロの道は、今の学生サッカーとは比べるまでもなく厳しい世界だ。ライバルも強い。
運命の番を選んでしまった俺が、あいつ無しでどれだけやっていけるのか。ヒートの時期を、本当に耐えられるのか。変化してしまった身体で、果たしてどんな状況になるのか      ふと不安になる。

(・・・んなモン、誰にも分からないんだから、考えたって仕方がない。前と同じと思えばいいじゃねえか)

そうだ。昔に、あいつが来る前の状態に戻るだけ。昔といっても、僅か半年くらい前のことに過ぎない。どうってことない。まだ戻れる。俺は一人でもちゃんとやっていける。


無理にでもそう思いこまないと、一歩も先に進めないような気がした。








カサリと近くで葉が擦れる音がした。微かだけれど、誰かが歩いてこちらに近づいてくる足音も。

風のせいではない。今はそよとも風は吹いていない。誰かがこの公園に入ってこようとしている。この子供用の遊具がいくつかあるだけの、夜の公園に入ってきている。

俺は警戒した。それはΩとして身につけた習性のようなものだった。簡単にΩと知られるリスクは無くなったと分かっていても、どうしても俺の中に怯えがある。

ベンチに腰かけたまま動かず、息も気配も殺す。様子を見るしかなかった。

だが「・・・そこにいるの、日向さん?」と問いかけられ、俺は近づいてきているのが誰なのかを知った。

「・・・反町」

街灯の下に現れた反町は、走ってでもきたのか軽く息を上げている。その顔は少し怒っているような、焦っているような・・・決して機嫌のいいものには見えなかった。

「反町?どうして・・・」
「日向さん、何があった・・!?一体、何があったんだよ・・っ!」

反町は街灯の明かりに俺を認めると、急いで走り寄ってきた。俺をベンチから性急に立たせると、その両手を俺の服や体にあてて、何かしら異変がないかをチェックする。

「何がって・・・何も」
「誰か・・・αに捕まったとか、酷い目に合されたとか・・・・そういうことがあったんじゃないの?」
「そんなこと、心配してたのか?・・・何もねえよ。見れば分かるだろ」
「じゃあ、なんで泣いてたの?」

忘れていた。
今はもう涙は止まっているけれど、ついさっきまではずっと泣いていたのだ。俺の顔を見れば、反町じゃなくたって何かがあったと思うだろう。

反町は俺の顔を両手で挟んで、その親指で俺の目の下を撫でた。柔らかく、そっと行き来する繊細な動きに、俺の身体が揺れる。

「・・・反町っ」
「言って。ちゃんと俺に説明して」
「なんで、俺が、いちいちお前に」
「”何で?”・・・それこそ、いちいち言わなくちゃ分からないの?」

掴まれた腕が痛い。反町の指に必要以上の力が入っている。

(・・・どうして、お前は     

どうしてだろう。こいつは、どうしてこんな所に居るんだろう。これは本物の反町なのだろうか。
俺が都合のよい夢を見ているんじゃないのか。

       違う。
幻聴でもない、幻覚でもない。反町だった。本当の、俺のα。俺の番。
俺の願望が見せた訳じゃ無く、確かにここに居る。

これだけ近寄ってしまえば、どうしたってこいつにしか感じることのない、熟した果実のような、蜜のような、甘くて官能的な香りが鼻孔を擽る。


「・・・・んッ・・や、離せ・・っ!」

膝から力が抜ける。

ズクン、と中で何かが収縮した。
俺の、身体の中の、奥深いところで。

何かが。









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