~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 35









先生は言った。
『そのαを手離してはいけないよ』 、と     


     先生、なんでそんなこと」
「君も分かっているように、彼が君にとっての運命の相手だから」

さらりと先生は告げる。

だけどそれの意味するところは、俺にとってはひどく残酷なものだった。薄々そうではないかと覚悟していたことでも、こうして言い切られると衝撃は大きい。先生の言葉は、俺のαとしての人生が終わることを示している。


長い間αとして生きてきた。自分がそうでないと分かってからも、手に入るはずだったものを幾つも諦めながら、何とかここまでやってきた。周りの人たちを偽り続けるのは苦しかったけれど、俺にはそうするしか方法は無かった。

αじゃない自分の人生なんて考えられなかったから。
子供の頃からの夢を、どうしても叶えたかったから。

でも、それも終わりだ。とうとう、この日がやってきた。いつかは来るのかもしれないと、ずっと怖れていた瞬間。それがついにやってきた。

「・・・・・っ、」

俺は一体、どうしたらいいのだろう。

失ったものは、二度と戻ってこない。もう俺には、Ωとして生きていく人生しか残されていない。
だけどそうやって望まぬ形で時を重ねていくのは、果たしてそれは、『生きていく』ことと同じと言えるだろうか     

「・・・先生。おれ・・・これから、どうすれば・・・?」

どうするも何もにない。俺はΩだ。しかも特定のαの所有物になったΩ。
普通に考えれば、これからの俺はただ一人のαに縛られることになる。あの調子がよくて明るくて楽しい性格をした、おそろしく趣味の悪いαの男に。
それはこの身体もそうだし、おそらく精神的にもそうなるだろう。もしもこのことが公に知れたなら、社会的にも。

αに縛られて従属するだけのΩなどには、絶対にならない      そう固く信じていたのに、そう強く願っていたのに。
俺はまた失敗した。また駄目だった。

俺の望みは、いつも絶対に叶わない。


「小次郎」

先生は少し困ったように眉を下げて俺を見た。

それはそうだろう。「どうしたらいいか」なんて聞かれたって、それを決めるのは俺だ。俺自身が決めるしかない。先生はもう、アドバイスをくれている。お前のαを受け入れろと、そう言っている。

     だけど、もう遅い)

先生に何と言われようとも、あのαとは終わったのだ。俺自身が終わらせた。だから、今更手離すも何もない。

     違う。そうじゃない)

遅いとか、遅くないとかの問題じゃない。どう考えたって、俺があのαを手に入れる訳にはいかなかった。

こうなってしまって、結果的には俺は間違っていたのかもしれない。でも、『運命の番』に縛られるのは、Ωだけという話ではなかったか?αは『運命の番』となったΩであっても、それに飽きてしまえば新しく別のΩを選ぶことだってあるのだという。
本当にそうであるなら、やっぱり俺は間違ってなんかいない。


頭の中の整理がつかない。混乱していた。
『運命の番』とは、一体なんのためにあるのか。どうしてそんなものが存在するのか。
たぶん俺は、どこかで先生の言っていることをまだ否定しようとしている。俺とあの男がそんな関係である筈がないと、そう思いたがっている自分がいる。

それでいいのかもしれなかった。
認めずに、このまま何も聞かなかったことにして一人で生きていけばいい。どのみち、これから先は何があったとしても、俺は一人で乗り越えていくしかないのだから。


「小次郎。いま君が何を考えているのか、僕はある程度は分かっていると思うよ。君とは長い付き合いだしね。      だけどね、これは忘れないでほしい。本来ならこれはΩにとって、とても喜ばしいことなんだ。もちろん相手のαにとっても。・・・αとΩが運命の番を得る確率は、非常に低い。いや、『得る』というのは適当じゃないな。『成る』といった方が正しい」
「・・・『成る』?」

成る、という先生の言葉が引っかかった。

どうして俺なのか、どうしてあいつなのか。
それは昨日だって散々考えた。考えても考えても納得できる答えは出ず、きっと何かの間違いなのだと思い込もうとした。信じたくなかった。だけど逆に、あいつと俺の間には本当に何の関係もないのかというと、それも自信は無かった。

この人は、俺の疑問に答えてくれるのだろうか。

「先生。・・・『成る』って、それって、どういうこと?」
「『運命の番』などと言ってもね、小次郎。実際にはその相手は、生まれた時から決まっている訳じゃない。予め決まった相手ではないんだ。運命の・・なんて大層な呼び方をするものだから、世の中には勘違いしている人が多いようだけれどね」
「・・・かんちがい」
「運命の番同士は、別に赤い糸で繋がっている訳では無いし、お互いにそうであると目に見えるような印がある訳でも無い。考えてもごらん。現実的にあると思うかい?生まれる前から結ばれる相手が決まっているだなんて」
「・・・よく分からない」

俺は正直に答えた。俺自身も、『たまたま近くにいる人間が運命の相手だなんて都合がよすぎる』と、かねてから不思議に思ってはいた。生まれる前から番が決まっているだなんてこと、本当にありうるのだろうかと。

「大前提として、人間にしろ動物にしろ、僕らは知り合った中でしか相手を選ぶことは出来ない。出会わなければ何も始まらない。その出会い自体が偶然や必然が重なった結果ではあるから、それを運命と言うのならばある意味そうなのかもしれないけれど。でもそれは、いわゆる『運命の番』と多くの人が呼ぶものとは違う」
「・・・・」
「僕らは出会った人たちの中から、この人ならば、という相手を選択する。それが友人であるにせよ恋人であるにせよ、他人との関係性を築くというのは、その連続だよ。僕たちは自分にとって必要だと思える人間を、一緒にいて心地よいと思える相手を選ぶ。その人ならと、親交を結ぼうとする。特別な関係になろうとする」

ここまでは特に難しい話じゃ無かった。俺は小さく相槌を打つ。

「だけど、これは相手があってのことだからね。上手く自分の想いが伝わらないこともあるし、逆に相手が向けてくる好意を受け入れられないこともある。・・・僕はこう思うんだよ。いっそ運命の相手というものが本当にいて、その人に出会えばビビビっとすぐに分かるのであれば、これほど楽なことは無いってね」
「・・・先生。じゃあ、『運命の番』っていうのは本当は何なの? どうして先生は、俺と・・・あいつがそれだと思うの?」

先生の言っていることは、分かる。だけど一方で、それならどうして多くの人が誤って認識しているのか。何か見えない力によって決められている訳でもないのなら、『運命の番』とは本当は何なのか。

「生まれつき決まった番なんて居ないけれど      これはまだ研究の途上にあるから、一つの見解と思って聞いて欲しいんだけどね。・・・たまにね、ごくたまに自分の番を、ただ一人のαに決めてしまうΩがいる。千に一人か、はたまた万に一人か      正確な数値は明らかじゃないんだ。機微な事柄だからね、把握するのは難しい。だけど本当に稀な確率で、出会った人たちの中から生涯を共にする、ただ一人のαを自ら決めてしまうΩがいる」
「・・・・・・」
「彼らは何らかの理由で、もしくは何かを契機として、ただ一人のαを選びとり、そのαのために自分の体質を変えてしまう。唯一と決めたαだけを受け入れる身体に自分を作り変えてしまうんだ。ざっくりと言ってしまえば、そのαだけを誘い、他のαを寄せ付けないようになる。・・・つまりは自身が生成するフェロモンの質を変えてしまうんだよ。」
「・・・・・・」
「いいかい。『運命の番』を選ぶのは、いつだってΩの側だ。選択権も決定権もΩが握っていて、αの側には何も無い。・・・僕らαは、どんなに『運命の番』を欲しがったとしても、自分の側から得ることは出来ないんだ。Ωに選ばれるのをただ待つしかできない」
「Ωの側からしか・・・・?」
「そう。君たちΩがαを選ぶ。逆は無い」

先生の話していることは、これまで聞いたことも、考えたこともないような話だった。上手く受け止めることが出来ない。

「・・・で、小次郎。君の場合だけれど」

先生はただ呆然とするしか出来ない俺の顔を、真正面から見据えた。

「君のヒートの周期が狂っているだけというなら、特定のαにのみフェロモンが作用するという現在の状況は、説明がつかない。君がそのαの彼・・・普段から親しくしている方のαの彼、だけどね。その彼にしか効かないフェロモンを生成していると考えるのが、この場合は理屈に合う。そしてそれは、君が彼を選んだということと同義だ。彼こそが君の運命の相手・・・いわゆる『運命の番』だと、僕はそう言えると思う」

先生の口調は柔らかかったけれど、迷いは無かった。俺から話を聞いただけなのに、あの男に直接会った訳でもないのに、先生はあいつが俺の『運命の番』であることを疑っていない。

「・・・・・だ、けど・・・っ!だって俺は、後天性のΩだし、そんな・・・普通のΩじゃないし・・・っ」
「後天性のΩは事例自体が少ないから、更に研究は進んでいない。成長して大人となった時に、先天性のΩとどういった点がどれだけ異なるのか、誰も正確には知らないんだ。・・・だけどね、小次郎。これは何度も言ってきたことだけれど、生まれつきかそうでないかで、君が彼らに劣っていると考えるのは間違っている。そんな風に自虐的になって大切なものを自ら失うのは、とても馬鹿げたことだよ」
「・・・でも!」

『Ωとしても、まともじゃない』という俺の言い訳を、先生は一蹴した。

「君は素晴らしい青年だ。普通じゃないどころか、何だって人並み以上にやってのけるし、そのための努力もしている。僕は知っている」
「だけど、先生・・・!」
「君は優れた子だよ。昔からそうだったし、今でもそうだ」
「・・・・・」

言葉が出ない。この先生はいつもそうだ。そうだった。

『君のどこがおかしい。君の一体何が、他の人より劣っているのか』と、先生は俺に対して常に言い続けてきてくれた。俺がΩになってしまった時も、その後も。おそらくは親以上に口うるさく、何度も何度も繰り返して。

「小次郎。僕が思うに、君はとても素敵な相手に巡り合ったんだね。君は恋をしている      これは見当違いじゃないと、自信を持って言えるよ。君はずっとαと番になることを拒んでいた。その君が選んだくらいなんだからね」
「・・・俺が、選んだ・・・」
「そうだ。さっきも言ったように、Ωがαを選ぶんだ。逆は無い。心の底からΩが望まなければ、この関係性は成り立たない。婚姻とも関係ない。ただΩの心情によるものだと思えるんだよ、僕には」

先生はそこで話を切り、一拍置いた。
それまでは穏やかだった表情を少し厳しくすると、再び口を開く。

「それから小次郎。これは大切なことだから、言っておかなくてはいけないんだが」
「・・・なに?」
「君はもう、今後その彼以外を『運命の番』とすることは出来ないかもしれない。これもまた未知の領域だ。だけど一説では、Ωが一度『運命の番』を選んだなら、それが最初で最後の相手なのだとも言われている。まだ分からない。だけど僕は、その可能性があることを君は覚悟しておくべきだと思う」
「もしそうだった場合は・・・そのαと別れたとしても、Ωは一生をそいつに縛られるってこと?」
「だから君は、彼を手離してはいけないんだよ。君の方から彼を失うということは、みすみす自分から幸せを逃しにいくようなものだ」

『運命の番』は『成る』ものだと、さっき先生がそう言った意味がようやく分かった。


ならば、一体いつなのだろう。
俺があのαを自分のものにしようとしたのは。
いつから、あの男を手に入れようとしていたのだろう。       俺の身体は。


あいつの顔が脳裏に浮かぶ。
俺のことを甘やかしたいのだと言って、柔らかく笑うαの男。自分のことよりも俺のことばかりを優先させて、要領がいいくせに馬鹿ばっかり見ているような奴。

そのことで俺が文句をつけると、そうすることが自分にとっては喜ばしいことなのだと、臆面も無く言ってのけた。


「・・・先生、俺。おれ、でももう    

先生の言う通りだった。
俺にはもう、あの男が必要だった。『運命の番』であるからだけじゃない。

古くからの友人としても、大切な部の仲間としても、これから先の長い時間を共にするパートナーとしても、全部のあいつが必要だ。どこからどこまでなど、区切ることは出来ない。
いつの時代のあいつも、俺にとっては替えのきかない存在だった。


『運命の番』にならない道なら、幾つもあっただろう。

薬の切れたあの夜に、あいつが部屋に来なければ。
仮の番にと申しこまれた時に、それを受けなければ。
18の歳に、俺がそもそもΩなんかに変わっていなければ。



だけど、成った。
こんな結末を望んでいたわけじゃない。それは間違いない。


でも成ってしまった。

俺が選んだ。あの男を。









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