~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 34









そこまで一気に吐き出してしまうと、今度は何も話すことが俺には無くなった。手持無沙汰にテーブルの上にあるカップを取り上げるが、結局飲まずにソーサーに戻す。

先生は何か考えているのか、さっきから口を閉ざしている。
だがやがて眼鏡の位置を直すと、「・・・うん。そうだね」と小さな声で呟いた。

「少し整理していこうか」

先生はやっぱり穏やかな顏をしていた。その表情からは何も読み取れない。彼の中で何かしらの結論が出ているのか、いないのか。もし出ているなら、それはどういったものなのか。それをこの人はどう感じるのか。
俺には何も分からなかった。

「まずはヒートの周期が狂うことはあるか、ということだけれど」

ゆっくりとした口調で、先生は続ける。

「それはあると言っておこう。そりゃあ、僕らは人間だもの。機械じゃない。いくら定期的にやってくるものだといっても、ちょっとした体調の変化でずれることはあるよね」
「・・・それは、そうだろうけれど」

それくらいは俺にも理解できる。これまでだって、特にΩになったばかりの頃はヒートの周期も不安定だった。なかなかやってこなかったり、始まってはすぐに終わったり、または終わったばかりなのにやってきたり。飢餓感は今ほど酷くなくて軽い薬でも対処できたけれど、それでも『いつやってくるか予測がつかない』という点だけ見れば、その頃の方が厄介だった。

だけどいま問題にしているのは、そういうことじゃない。

「メンタルの状態や環境の変化によってもね。ヒートが早まることもあれば、遅れることもあるね。でもそれは特段おかしいことではない。程度によっては、病気を疑う必要もあるけれどね」
「・・・・・」
「たださっきの君の話を聞く限りでは、そうじゃないように僕は思うんだ。もちろん、君が心配なら検査をしても構わない」
「検査・・・」
「心配なら、だよ。だけどさっきも言った通り、僕はその可能性はあまり考えていない。じゃあ病気じゃないなら何が要因なのかということだけれど・・・これは外部の要因と君自身、内部の要因とがどちらも影響してくるだろうから、一概には『これがそうだ』と断定するのはなかなか難しい。こういった場合、大抵は原因が一つではないんだ。幾つもの要因が複雑に絡み合っていて、原因を特定できることの方が圧倒的に少ない」
「・・・じゃあ俺の場合も、分からない?その・・・αによって違うことを言っているっていうのも?」

尋ねると先生は俺の顔をちらと見て、それから手元のメモに視線を落とした。右手に持ったペンをトントンと白い紙に打ち付ける。トントントン      しばらくその微かでリズミカルな音だけが、俺たちの間に流れた。

(静かだな・・・)

俺は先生から視線を外して、ぼんやりと部屋の中を眺めた。

カウンセリングルームはそれほど広くないけれど、明るくて清潔な部屋だった。南側の壁には大きな窓が一つあって、擦りガラスが嵌まっている。外の景色は見えないけれど、そこから柔らかい日差しが入りこんでいた。
そこかしこに置かれた観葉植物も、どれも手入れがちゃんとされているようで葉がつやつやとしている。先生か、または先生の代わりに面倒を見る人が愛情を込めて育てているのだろう。

シンプルだけど、雰囲気のいい部屋だ。それにはおそらく、壁に掛かった幾つかの絵も影響しているのだと思う。
それらは風景や花を描いたものが多く、派手でもなければ、パっと人の目を惹くようなものでもない。上手いかどうかと聞かれたら、それさえも俺にはよく分からない。
だけどいずれも描き方や色使いに温かみがあり、柔らかい印象のものばかりだった。

(まるで描いた本人、そのものみたいな絵だ)

これらの絵は全て、先生のパートナーが描いたものだ。彼女      先生のパートナーは女性のΩだけれど      には、俺も子供の頃に会ったことがあって、記憶にある限りではやっぱり小柄で可愛らしく、控えめな感じの人だった。それこそここにある絵の中の花のような、もの静かでひっそりとした人で      だけど傍にいると癒されるような、そんな女性だった。

(こういう人がいいんだろうな。普通のαは)


「小次郎」

ふいに呼びかけられ、とりとめのない思考は一旦途切れる。意識を現実に引き戻された。

「さっき話だけどね。もう一つの君の疑問だけど」
「・・・うん」

おもむろに『もう一つの疑問』と言われて、ドキリとする。

「ヒートの周期がずれるのは、程度に差はあれ、さほど珍しいことじゃない。だけど、もう一つの方・・・君の香りを認識することのできるαとできないαが同時に存在する、というのはね。そんなにありふれたことじゃない」
「・・・ありふれたことじゃない?」
「二人とも番のいないαだと言ったね?どちらも男性のαだと。そこに相違点はない。・・・ということは、小次郎。この二人の間で何が異なるのか、ということだけれど」
「・・・・」
「僕は、もしかしたら君には既に心当たりがあるんじゃないかと      実はそう思っている。もちろん僕の思うところは伝えるけれど、ただそれよりも前に、君は僕に言いたいことがあるんじゃないかな、って。・・・そう思っているんだけれど、どうかな」
「・・・どうかなって・・・でも、俺」

先生からの予想外の問いかけに戸惑う。

いや違う。
こんな風に問われることは予想外だったかもしれないけれど、でも先生が言っていること自体は、その通りだった。
俺は昨日、『もしかしたら』と考えた。だけどすぐに打ち消した。『そんな筈はない』と。
そんな偶然がある筈はない、これはそんなものじゃない。そんな関係じゃ無い      それ以上は考えるのも怖くなって、俺はあいつを部屋から追い出して、子供みたいに自分のベッドに逃げ込んだ。

だけど今、先生はそのことを否定してくれない。
この人は俺に、『お前に何も分からない筈がないだろう』と言っている。本当のところは自分なりに答えを出しているのだろうと。
だがそれは、俺が聞きたい言葉ではなかった。

「先生、ずるいよ・・・」

そんな風に誘導されたって、何て答えればいいのか分からない。
だって、そんな結果じゃ駄目なんだ。そんな結末を望んだりはしていない。

「・・・分からないんだ」

ぽつりと俺は漏らしていた。

「分からないんだ。どうすればいいのか。どう、考えればいいのか」
「うん」
「・・・こんなこと、初めてだし・・・誰にも相談できなくて・・・だから・・・」
「今、君はちゃんと僕に相談できているよ?僕に電話をして、ここまで一人でやってきた。そして僕に話してくれたよね」
「・・・一人じゃ、もうどうしようもなくなって」
「君はさっき僕に『助けて欲しい』と言った。一人で抱え込もうとしなくなったのは、君が随分と変わった点だ。好ましい方向にね。・・・もしかしたら、その変化も彼のお蔭なんじゃないのかな。違うかい?」
「・・・分からない」
「彼は君のことを、きっととても大事にしてくれているんだろうね。君の様子を見ていれば分かるよ。・・・何でも一人で耐えることに君は慣れてしまっているから、最初は戸惑うかもしれないね。だけど、君には彼が必要だ。これは間違いないよ。・・・いいかい、小次郎。たとえ彼のすることが、彼の選択することが、君が望むことと違うとしても」

先生はそこで一旦言葉を区切り、俺の目をじっと覗きこんだ。


「彼を離してはいけないよ。君には彼が必要だ」









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