~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 33









次の日、俺は大学の講義も部活もサボって、クリニックを訪れていた。
朝一番で電話しても先生のスケジュールは空いていなくて、無理矢理ねじ込んで貰ってようやく訪れることが出来たのは、午後の15時を過ぎた頃だった。

そんな風に突然押しかけたにもかかわらず、先生は気分を害した様子も見せずに俺を迎えてくれた。いつもの穏やかな顔で。
だけど俺の顔を一瞥して、何かが起きたことには気付いたようだった。

「さて、話を聞かせて貰えるのかな。小次郎?」

カウンセリングルームに通してくれた先生は、ゆったりとした柔らかいソファに俺を座らせると、柔和な表情を崩さずに問う。

「・・・どう言ったら、いいのか」
「思い浮かんだことからでいいから、話してごらん」

情けない話、こんなところまで来たのに、俺には何を話していいのか、どう説明すればいいのか分からなかった。だけど、ここに来ずにもいられなかった。昨日自分の身に起きたことを一人で抱え込むのは、もう無理だった。あの部屋に一人では居たくなかったし、色んなことが限界だった。

「先生・・・」
「うん?」

彼と目を合わせると、落ち着いた、優しく親しみのこもった眼差しが返ってくる。
父親と同年代の彼は、これまでのどの時も、俺がどんな状態にあった時も、こんなふうに辛抱強く穏やかに見守ってくれていた。今もそうだ。この人を信頼できなくなったら、もう俺には親くらいしか頼る人が居なくなる      そう思うと、話さなくちゃいけないのだと心が決まる。どんなに言いづらいことであっても。

「小次郎。もし、まだ話したくないというなら・・・」
「ううん。違う・・・聞いて欲しいんだ。それで・・・助けて欲しい」

『助けて』      それはこれまでずっと、俺が他人に言えずにきた言葉だった。先生は少し驚いたように目を瞠った。

「・・・あのさ、おかしなことがあって」

俺は、ポツポツと話し始めた。

「俺がおかしいのか、他の人がおかしいのか・・・。よく分からないんだけど」

一度話し始めてしまえば、あとは楽になる。俺はなるべく包み隠さずに説明しようと心がけた。先生には知られたくないようなことも、出来るだけ正確に伝えた。

「・・・今は、ヒートじゃないんだ。前回のヒートが終わってから、1か月くらい経ってる。今だって薬は飲んでいるけど・・・。ごめんなさい、昔使ってたのと同じ薬、あれ、毎日飲んでいるんだ。先生には止めろって言われてたけれど・・・前に危ないこともあったし、予防だと思ってずっと飲んでる」

前回のヒートの様子、特に昔よりも飢餓感が強くなったことなど、あからさまな話をしても表情を変えることのなかった先生が、『抑制剤を毎日飲んでいる』と明かすと片眉を跳ね上げた。だが非難めいた言葉は口にしないでくれた。

「その件については、また今度別に話そう。今は先を続けてくれるかな?」
「・・・ヒートの時は、結構辛かったけど・・・ううん、たぶん一人だったら辛かっただろうけれど、その・・・近くにαがいて対処してくれたから・・・」
「うん」
「だから、そいつに・・・その、して貰ってからは、それほどじゃなかった。俺、あんなに違うものだって知らなかったから、少し驚いた」
「そうだね。決まったαがいるΩにとっては、ヒートはそれほど怖いものじゃない。そのことを知れたのは良かったと思うよ」

そのαは何処の誰なのかと追求するでなく、先生はそう言った。『決まったα』と。

言い得て妙だと思う。
番ではない。本当の番にはついぞ成れなかった。だけどヒートの時に助けてくれるのは、俺にはその男しかいなかった。
たった一人。いつも同じ、その男。決まった相手。

     そんな風に俺は、あいつを都合よく使ってきたんだよな・・・)

プライドの高いαの男を、自分の都合のいいように利用してきた。
そのことがどれだけあいつを傷つけるのか、俺は分かっていたのに     

「小次郎?」
「あ・・・ううん」

俺はかぶりを振った。忙しいなか時間を取ってくれたのだから、今は目の前の相手に集中するべきで、それ以外のことは後回しにするべきだった。

「ここ最近はさ・・・問題なく過ごせているんだ。薬の副作用もないし、たぶん、これまでの中で今が一番落ち着いている。ちゃんと大学にも毎日行けているし、部活も出れている。周りからも怪しがられたりすることもないし。・・・次のヒートまでの間だけだとしても、今は本当に調子がよくて、順調に過ごせているんだ」
「それは良かった。前から言っていることだけれど、落ち着いて過ごせる環境というのは、Ωにとっては特に重要なんだよ。その状態にある場合、過多にフェロモンを生成する必要もないからね」

俺は頷いた。精神状態が良好な状態にあることで、αを誘うフェロモンもある程度は抑制される。そうなることで、Ωは自分の身を安全に保つことが出来る。要は調子の良い時は他のことも良いように回るし、悪くなれば悪循環に陥って状況はどんどん悪くなるということだ。

「・・・だから今は、ヒートじゃない俺からそれほどフェロモンが出たりはしていないと思うんだ。そりゃあ、本当のところは自分では分からないけれど」
「そうだね。自分の香りは分からないものだからね」
「・・・先生にとってみたら、どう・・・かな?」
「僕は仕事柄、普段からΩのフェロモンに誘発されないように対処しているからね。普通のαよりは鈍いかな。だからかもしれないけれど、今の君からは、これほど近くにいても何も感じないよ」
「前はどうだった?」
「近くに寄れば、ある程度はね。といっても、ヒートでなければ僕にとっては気になるほどじゃなかったけれど・・・ただここ最近、君の香りが強くなってきたようには感じていたんだ。君は若くて番のいないΩなのだから、当然といえば当然なのだけれど」
「・・・そう」
「だから気になっていた。もしかしたら君、好きな相手ができたんじゃないかって」

先生はそこで会話を区切ると、さきほど自分で淹れた珈琲のカップを持ちあげ、一口含んだ。今日ここに来て初めて、先生の目がいたずらっぽく笑ったように思う。
それに付き合って、俺も笑えれば良かったのだけれど      実際には、ゆるく首を横に振っただけだった。

「そんなの、いない」
「そうか。僕の観察も当てにならないね。弱ったな。これでお金を貰っているって言うんだから、申し訳ない」
「そんな・・・」
「冗談だよ」

先生はふふ、と笑った。その目尻にできた皺を見ると、あらためてこの人は自分より随分と年嵩なのだと感じる。父親と同じくらいと考えれば、当たり前なのだけれど。
俺の倍以上の時間を生きて、これまでに沢山の経験をしてきた人だ。信頼に足る先生だと思っている。心から。
この人がいなければ、俺はとうに折れていたのかもしれなかった。

「あのさ、先生・・・」
「うん?」

俺は一度大きく息を吸って、吐いた。気を奮い立たせる。そうでないと挫けそうだった。

「あのさ、昨日さ・・・。俺、言われたんだ。α・・・その、さっきの、近くにいたっていうαとは違う奴なんだけど。そいつが、俺から全くフェロモンの匂いがしなくなったって言うんだ。前は強く匂ってたのに、最近は全く感じなくなったって」

これからが本題だ。ようやく話の核心に触れる。
この先は、知られたくないからといって誤魔化してはいけなかった。今日ここまでやってきたのは、このことを聞いて貰うためなのだから。

「以前に別のαに襲われかかった時は、単に道をすれ違っただけだった。その頃はまだ、ヒートじゃなければ薬を飲んでいなくて      ただ、その騒ぎがあった時は、まだヒートには入っていなかったけれど時期が近くて・・・『Ωじゃないか』って怪しまれた。・・・要は、その頃の俺でも、それくらい匂いがしていたってことだよね?」

あの日のことは、今思い出しても恐怖しかない。
見知らぬαに腕をつかまれ、『Ωだろう』と詰め寄られた。幸い反町に助けて貰えたけれど、もしもあの時にあいつが通りかかっていなかったら、今ごろ俺は、あのαのものになっていたのかもしれない。

「だから昨日、大学でαの男と二人きりにならなくちゃいけない状況になって・・・、俺、すごく怖かった。用心していたつもりだけど、万が一バレたらどうすればいいのか、どう逃げたらいいのかって・・・そればっかり考えてた。       なのに」

なのに。
あの調子のいい、節操の無いαの男は。

「なのにそいつ、俺から何にも匂いがしないって言うんだ」
「・・・・・」
「そう言われてさ。俺は安心したんだよ。俺がとってる予防策は、間違ってないんだって・・・そう思った」
「・・・うん。そう・・・うん、続けて」

先生はたまに相槌を打ちながら、俺の話を聞いてくれている。何かをメモに書きつけてもいたけれど、その内容は俺には見えなかった。

この人にはこれがどういうことなのか、何を意味するのか、もう分かっているのだろうか。

「だけど、その後・・・同じ日だけど、それから何時間か後の話で。他のαから、前よりもフェロモンが強くなってるって言われた。匂いが強くなってるって」
「それを告げたのは、さっき君が『近くにいたα』と説明した人物?」

俺は頷いた。

「両方ともαの男で、俺と同い年で・・・番はたぶん、どっちもいない。俺がヒートじゃないのも、間違いない。それにそいつ・・・後の方のαだけど、ヒートの時の匂いとは違うとも言ってた。・・・・これってどういう意味?ヒートと違うの?じゃあ何なの?それともやっぱりヒートなの?周期が狂って、おかしくなってるだけ?そんなことって、ある?俺の身体、どこかおかしいの?」

気が付いたら、最後にはまくし立てるように質問を重ねていた。そうせずにはいられなかった。それくらい俺には余裕が無かった。

知るのが怖い      。 それが正直な気持ちだ。

ここに来たことを、早くも後悔してしまいそうだった。
知らなくても済むものなら、このまま逃げ帰ってしまいたい。自分がどうなっているのかを正しく知らず、曖昧にしてこの先を生きていくのは、不安だし怖くもある。だけど、現実を突きつけられるのはもっと怖い。


俺は酷い顔をしていたんじゃないだろうか。
先生は普段とあまり変わらない、落ち着いた物腰で接してくれていたけれど。









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