~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 32








俺の首筋から顔を上げた反町は、怪訝な顔をしていた。

「・・・?何って、何が?」
「・・・日向さん。本当に、何も無かった?あいつにこんな風に触られなかった?」

反町が俺の顏を見つめながら聞いてくる。その目は俺の表情のどんな微細な変化も見逃すまいとしているように、真剣そのものだった。
俺は少なからずムっとした。

「無えよ、しつこいな。さっきもそう言っただろ。・・・お前、俺のこと信用してねえんだな。俺からあいつの匂いでもするのかよ」
「αの匂いなんか分からないよ。・・・・日向さんのことだって信用してるし、したいと思ってる。だけど、おかしいんだよ。だって、普通なら有り得ないんだ。少なくとも俺があいつなら、相当なことがない限り、手を出さないでいる自信は無いね。既に番がいるとか、不能だとか・・・そんなことでもなければ、有り得ない。こんな甘い匂いの日向さんを前にして、αが何もしないだなんて」

反町が再び俺の首筋に鼻先を埋めた。自然と体が密着する。反町の体温と重さを感じて、正直なことを言えば俺は気持ちが良かったし、興奮していた。ただ上に乗られているだけだというのに。

それと反町から漂うこの香り。フレグランスを変えたのだろうか、これまでの反町の香りとは全く違った。以前のも嫌いではなかったけれど、こっちの方が断然いい。具体的に何の香料が入っているのかは分からないけれど、爽やかなのに華やかな甘さもあって、それでいて不思議と安心するような、ずっと傍にいたくなるような・・・それくらいに惹きつけられる香りだった。

背中に回された反町の手が、シャツの裾から潜り込んできた。腰や背筋を撫で上げ、そのまま服をたくし上げる。
反町は俺の首筋や耳の下にキスをしながら、匂いを確かめるように何度も鼻を擦り付けてくる。くすぐったいし恥かしくもあって、俺は身を捩った。

「なん、だよ・・・。お前、まだ」
「・・・ヒートじゃないって、日向さん、言ったよね。そうだよね。それは間違いないんだ」

反町は俺の答えを待つまでもなく、一人で納得していた。

「確かに時期じゃない。それは俺も知っている。・・・だけど、じゃあこの匂いは何なんだろう。ヒートの時ともまた違う・・・。この匂い、何。どうしたの」
「・・・どうしたのって言われても、俺には何がおかしいのか分からねえよ」
「さっきからαを誘う匂い、出してる。日向さんは自分じゃ分からないんだろうけれど・・・こうして近くにいると頭がクラクラするくらい。俺じゃ無かったら、日向さんとっくに犯されてるよ」
「何言ってんだよ。まだヒートじゃないんだから、そんな筈・・・」

俺は反論しかけたが、途中で何かがおかしいことに気が付いて口を閉ざした。反町の腕の中に留まりながら、どういうことなのかと考える。

ヒートではない。それは間違いなかった。俺のヒートは1か月前に終わったばかりだ。次に来るまではだいぶ間がある。そのうえ抑制剤を毎日飲んでいるのだから、反町が言うように俺からフェロモンがそれほど出ている筈は無かった。少なくとも、『αを誘っている』などと言われるほどには。

同時に昼間の出来事を思い出す。紅葉は何と言っていたか。
あの男は閉じられた空間に俺と二人でいても、俺のフェロモンを感じ取ることは無かった。寧ろ、『お前から何も匂いがしなくなったから、Ωの子と別れたと思った』と、あの男はそう言っていなかったか     

たとえ俺からαを誘う物質が出ているにせよ、紅葉が気が付かなかったほどに微量なのだとしたら、俺の匂いに慣れている反町の方こそが気にも留めないだろう。こんなことを言い出したりする筈が無い。

やっぱり何かがおかしかった。はっきりと形を成した訳ではないが、捉えどころのない違和感のようなものが膨れ上がっていく。俺は反町の肩を押し返し、腕の中から抜け出した。その表情をつぶさに観察しても、反町にふざけている様子は無かった。
ただその頬は微かに上気して、潤んだ瞳が濡れたように光っている。それは『誘っている』という反町の言葉を証明するかのように、Ωの発情に引きずられた時のαの特徴であるようにも見えた。

(・・・どういうことだ?紅葉は何ともならなかったのに、どうして反町が      ?)

まさか      まず思ったのは、それだった。
だって、そんな筈は無い。俺はΩだけど、普通のΩとは違う。だから一瞬頭に浮かんだ、有り得ない言葉      『運命の番』という言葉を、俺はすぐに打ち消した。
大体そんなものが存在するのかどうか、本当には分からないのだ。それに俺は出来そこないのΩで、例えそんな関係性がこの世にあるとしても、俺自身には一欠けらも関係がないのだと思っていた。

「・・・日向さんが紅葉に何かされたんじゃなければ」
「・・・え?」
「ヒートの周期が狂っているっていうこと?それしか考えられなくない?」
「周期?」
「そういうケースだって、有り得るでしょう?病院に行って、診て貰った方がいいよ。かかりつけのドクター、いるよね?」
「いるけど・・・だけど、本当に俺からそんなにフェロモンが出てるのか?お前の方がおかしいとか、勘違いとか・・・その可能性は無いのか?」
「俺がおかしいってことは無いと思うけど・・・。今日だって他のΩの子と話す機会はあったけど、いつもと変わらなかったし。勘違いかどうかは・・・俺の反応、分かるでしょ?」

反町が俺に覆い被さったままで、下半身を押しつけてくる。その固い感触に、俺は頬を熱くした。

「ヒートじゃないなら、尚更おかしくない?抑制剤まで飲んでいるのに、こんなに甘ったるい匂いさせてるなんて・・・。周期が狂ってるって考えるのが、妥当だと思う」
「・・・・・・」
「とにかく病院に行ってきてよ。このままこんな匂いを振りまいて外に出たりしたら、それこそ危険だよ。・・・というより、これ何とかしないと、俺、日向さんのことを外に出してあげられないよ」

普段の俺だったら、外に出るも出ないも俺の自由だ、お前にどうこう言われることではないと、怒りも露わに言い返しただろう。

だが今はそれどころじゃなかった。
これは一体どういうことなのか      そればかりが頭の中を渦巻く。

     まさか・・・。そんなこと、ある訳がない)
(だけどじゃあ、一体どうして)

どうして、どうして、どうして      幾度も繰り返したところで、答えなんか分からない。もしかして本当にそうなのかと、ほんの少しでもその可能性を考えることは恐怖でもあった。反町の言うように周期が狂っているだけならいい。だが単にそれだけを原因としたのでは、説明のつかない点があるのも確かだった。

俺からこれまで出ていたフェロモンを全く感じなくなったというαの男がいる一方で、「時期じゃない筈なのに、αを誘っている」と言うαの男がいる。
そして俺自身も、後者からはこれまでに誰からも嗅ぎ取ったことのないような、得も言われぬ心地よい香りを感じている。前者には何も感じたりしなかったのに。

この状況が意味するところ      その答えは、もしかしたら一つしか無いのかもしれなかった。

(だけど、そんなの)
(だって俺は、ちゃんとしたΩじゃなくて)
(突然にΩになって、でも、人が思うようなΩにすらもなれなくて     

どう受け止めればいいのか。
もしもこの疑念が真実であるとするなら      そうであるなら、きっともう後戻りできない。Ωは一旦番のαを作ったならば、一生をそのαに縛られる。社会的にも、おそらくは精神的にも身体的にも。αの方はそのΩに飽きてしまえば、他のΩをいくらでも選び直すことが出来るというのに。

「・・・・・っ」

どうしてこうも思うようにならないのか。何故俺の望みは、ほんの少しも叶えられないのか。
一体何のために、俺がこんな目に合わなければならないのだろう。誰かに教えて貰いたいくらいだった。

これから自分がどうなるのか      それを考えると怖かった。
血が下がってきたのか、目の前が暗くなって身体に力が入らない。意識はちゃんとある筈なのに、自分がどこにいるのか、何をしているのかが判然としなかった。足元が崩れていくような感覚をおぼえて、狭くなった視界の中で俺はぼんやりと反町の顔を見上げた。

(この男が、俺の『運命の番』・・・?)

有り得ない。絶対に有り得なかった。
大体、こんなに近くにいる相手がたまたまそんな存在だったなんて、そんな都合のいい話があるものか。きっと何か、理由がある筈だ。『運命』なんかじゃない、何か他の理由が。


状況は混沌としているが、ただ一つだけ確かなことがある。
もう俺は、この男との関係をズルズルと続けるべきじゃなかった。ついさっきまで『せめて卒業までは』などと甘いことを考えていたけれど、それでは遅かった。今すぐに俺はこの男から離れるべきだ。俺自身は手遅れだとしても、もしかしたらこいつは巻き込まないで済むのかもしれないのだから。
・・・いや。本当はもっと早く、この優しい手を離すべきだったのだろうけれど。

「日向さん、大丈夫?顔色が悪いね。ごめんね、脅かすようなことを言って。・・・でも、明日は病院に行こう?ちゃんと診て貰おうよ。俺も一緒に行くよ。車で連れていくから」
「・・・分かった。行く」

俺は医者に行くことに同意した。反町は明らかにホっとしたような顔になった。
その反町に向けて、俺は続ける。

「ちゃんと明日、診て貰うから・・・。だけど、お前はついて来なくていい」
「・・・日向さん?」

ああ、お前にこんなことを告げるのは、本当に胸が痛いな。ごめんな、反町      俺は心の中で謝った。
でも仕方の無いことだった。どうかお前は俺とは関係のないところで、何ひとつ欠けることのない人生を送って欲しい。そう願った。

「クリニックには俺一人で行く。お前が一緒に来る必要は無いから。一人で十分だから」
「え・・・でも、日向さん一人じゃ」
「本当に大丈夫だから。いいからお前は早く帰れよ。      そしてもう二度と、この部屋には来るな」
「日向さん!?」

傷ついたように響く声を無視して、俺は立ち上がった。反町のことも無理矢理に立たせて、玄関の方へと押しやる。

「お前に何と言われても、俺はαとしてしか生きていけない。その代わりにずっと一人だってことは、覚悟している。誰に頼らないでも、やっていける。・・・むしろお前が傍に居すぎると、そっちの方が都合が悪いんだ。お前といることで、却って疑われることだってあるかもしれない」

だってそれは、α同士としては不自然なことだから。

「だから、俺のことはもう放っておいてくれ。一人で居たいんだよ。結局はその方が俺のためになる」
「待って、でも日向さん。Ωの子が一人で生きていくなんて、本当に・・・」
「俺は普通のΩじゃない・・・!」

突然の俺の態度の硬化に戸惑う反町を押して、「早く帰れ。二度と来るな」と急きたてた。持ってきていた荷物をその手に押しつけて、玄関のドアを開けて力づくで外に追い出す。

「ちょっと、日向さん・・・!まだ、話が終わってないよ!」
「部屋に置いてあるお前の荷物も、そのうち持っていけ」
「日向さん!」
「これまでありがとうな、反町。俺はお前とは番にならないし、金輪際なるつもりもないけれど、お前といると楽だったのは確かだ。それは感謝してる」

わざと傷つくような言葉を選んだ。

「でも、もう要らないんだ。俺が欲しいのは元の生活だけだから。全部終わりにする。『仮の番』も解消だ」
「日向さん、どうして」

呆然と俺を凝視するαの男。何だろう。哀しいというよりも、どこかホっとしている自分がいる。
失ったものと、失わずに済んだものと      比べてみれば、自分が間違っていないと思えるからか。

「さようなら、反町」

一方的に伝えたいことだけを伝えて、俺はドアを閉めた。扉はたいした音も立てずに、静かにこの部屋と外界との間を遮断する。鍵をかけてバーロックもかけた。


「・・・・・・っ」

ドアの外側で反町が何か言っているような気がしたけれど、俺は寝室に逃げ込んで扉を閉めた。ベッドに身を投げ出して、冷たいシーツに顔を押しつける。気持ちが悪い。吐き気がした。

     これで良かったんだ。これで正しかった)

大丈夫、やるべきことをやっただけだ。だいじょうぶ、俺は間違っていない      何度も自分に言い聞かせる。あいつにあんな顔をさせたとしても、それでもこれが正しかったのだと、これで良かったのだと・・・自分自身で納得しないと、今夜は眠れそうになかった。

(・・・大丈夫。時間が経てば、今日のこともちゃんと忘れられる)


今がどれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、時間が経てば痛みはいつしか和らぐ。人間は幸いにも忘れることが出来る。

過ぎていく時間が時には人に優しく作用してくれるということを、俺は自身の経験からよく知っていた。









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