~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 30








反町の目が大きく見開かれる。何かを言おうとするように唇が開きかけたが、言葉は出てこなかった。

αの男はそのまま暫く無言で俺を凝視していたけれど、ふいに顔を背けて自分の前髪をグシャグシャとかき乱した。手の陰になってその表情はよく見えなかった。

「・・・そりゃあね。日向さんの言う通り、俺は本物の番でも何でもないしね。単なる大学の同級生で部活の仲間でしかないし。日向さんのすることに口を出す権利なんか何もないよ。何も、ね」

反町の声は俺がこれまで聞いたこともないくらいに、しわがれて苦し気なものだった。

「だけど俺は日向さんのことを番にと望んで、そのことを日向さんに申し込んだんだよ。俺のただ一人の人に、伴侶になって欲しいって、そう言ったんだ。・・・もしかして、そんなこと忘れた?覚えてない?そんなの、日向さんにとってはどうでもいいようなこと?だから俺には関係ないって言ってるの?日向さんが何をしたって関係ないって、そんなことを言われて俺がどう思うかなんて、日向さんにとってはどうでもいいこと?」

俺はただ黙っていた。
勿論忘れてなんかいない。反町に『この先の人生を一緒に歩んで欲しい』と求められた日のこと。忘れようったって、そう簡単に忘れられるものじゃなかった。

あの夜、濡れた前髪の向こう側から、この男が真剣な眼差しで俺を見上げていた。真摯な瞳に優し気な色を映して、柔らかく微笑んでいた。穏やかな声で、俺とずっと一緒に居たいのだと告げてきた。
その時の気持ちを、今となったらどう形容したらいいだろう。
嬉しいと感じた訳じゃ無かった。それは確かだ。手離しで喜べるような状況じゃなかった。
だけど、今にも暴れ出しそうだった胸の鼓動を覚えている。

それから大学からの帰り道。
部の奴らにベタベタと身体を触られた日、荒れ狂ったαの男は縋るように俺に抱きついてきた。
それをつい、何とかしてやりたいだなんて思ってしまったことや、煉瓦敷きの道の上、繋いだ手のひらが熱かったこと。そんなことも覚えている。街灯の淡い光も、細く長く伸びていた自分たちの影も、今でもはっきりと思い出せる。

全部。ちゃんとぜんぶ、覚えている。



俺はソファに凭れたまま、反町を見上げた。

自分はこのαの男をどう想っているのか      そんなことを問うのは、今更だろうか。他の誰かと繋がるくらいなら、こいつじゃなくちゃ嫌だ        そんなことを考えた身としては。

だけどそれでも、やっぱり俺は反町と番になりたい訳じゃ無かった。そんなこと、望むべきことじゃ無かった。
どうしたって俺は、αとして生きていくしかないのだから。

そのくせ俺は、『仮の番に』という反町の提案を受け入れた。『本物の番が現れるまで』と明確な期限も切らずに、曖昧な関係を続けた。甘やかされるがままに都合よく、この男の優しさを利用した。ただ自分が楽でありたいがために。

反町の方から言い出したこととはいえ、煮え切らない俺の態度がこいつを傷つけなかった筈はないだろう。俺と違って鈍感な人間ではないのだから。
なのにこの男は、俺に向かって文句をぶつけるようなことはしなかったし、俺を責めることもなかった。
これまでのところは。今この時までは。

「・・・俺に何が分かるかって言うけど」
「・・・・・・・」
「じゃあ日向さんは、日向さんと紅葉が二人でいるのを見たとき、俺がどんな気持ちだったか分かるっていうの?あいつが日向さんに抱きついた時、日向さんに触れた時、俺がどんな気持ちでいたか、本当に分かってるの?」
「・・・・・・」

反町は苛立ちを堪えるように、ひとつ大きく息を吐いた。

「何も無かったのは分かってるよ。そんなことは、日向さんを見れば分かるんだよ。だけど、そうじゃない可能性もあったんだ。危険があるって分かってるのにあいつに近づくなんて、なんでそんな馬鹿なことをするのかって、俺は聞いてるんだよ」

俺だってついていきたくて行った訳じゃ無い     そんな言い訳をしたところで、こいつは納得しないだろう。確かに人の目を気にしないのであれば、振り切って逃げることは出来たのだから。

「・・・別に知らない奴じゃないんだから、声を掛けられれば俺だって話くらいする。ヒートでもないんだし。・・・お前が大げさなんだよ。俺だって、俺をαだと思って近づいてくる奴には普通に受け答えくらいするだろうが」
「大げさなんかじゃないよ。人混みにいれば紛れてしまうような微量なフェロモンだって、密室で二人きりだったら嗅ぎ取られるよ?・・・少しでもΩの匂いがすれば、反応するのが俺たちαなんだから。日向さんには感じとれないから、そんな暢気なことを言ってるんだろうけれど」

その言い草が癇に障った俺は、声を荒げた。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ・・・!今だって十分に気を付けてるだろ!?だけど俺だって生きてる限り、丸っきり他人と関わらないなんて無理だろうがよ!これ以上、俺にどうしろって言うんだよ!山奥で仙人のような生活でもしろってか!?ふざけんなよ!大体、そんなにあいつが俺に近づくのが嫌なら、お前があいつを俺から遠ざけておけよッ!」

ある日突然にαからΩになって、失ったものはあまりにも大きかった。あの日以来、何をしていたって心の底から楽しいと思えることなんて無い。ずっと重いものが胸につかえていて、息苦しかった。
それでも、どんなに辛くても、俺はやっていくしかなかった。一旦この世に生を受けたからには、人は生きていくしかない。どれほど苦しくとも、みっともなくとも。そういうものだ。いつかはいいことがあるだなんて、甘いことを考えていた訳じゃ無い。ただ生きていくしかなかった。

だから足掻き続けた。ある意味、種が変わったあの時から、俺は以前よりも懸命に生きてきた。他人からαらしく見えるようにと努力をし、体を鍛えることでも学業でも、一切の手を抜かなかった。

それでも失敗したなら      例えばこんな風に、Ωであることを他人に知られたなら。

その恐怖はいつだって近くにあったけれど、だがもし失敗したとしても、それもまた自分の責任で、自分に返ってくることだった。
もう嫌だ、もう無理だと何度も思いながらも、それでも俺は自分なりにやってきたんだ。必死だった。

なのにこれ以上、俺にどうしろというのか。誰にも何も      たとえこの男であっても、どうこう言われる覚えは無かった。

「いいから早く出てけよッ!俺のことなんか、放っておけよっ・・・!」




興奮して喚く俺に反町は端正な顔を歪めて、らしくもなく舌打ちをした。

「・・・あいつ、日向さんを初めて見たときから俺に紹介しろ、ってうるさかった」

『あいつ』というのが紅葉を指しているらしいことは、俺にも分かった。

「その頃は日向さんがΩだなんて俺も知らなかったけれど、それでもずっとはぐらかしてきたよ。俺自身が、日向さんにあいつを近づけるのが嫌だったから」
「・・・・・」
「そのうちあいつが、αでもβでもΩでも、性別関係なくイケる奴だってことを知って・・・なおさら日向さんには近寄らせないようにしたつもりだった」
「・・・あいつの性癖知ってたなら、忠告くらい前もってしておけよ」
「日向さんがΩだって分かった時に、そうするべきだったって・・・今は思ってるよ。だけど、そうじゃなくてもαに対してはもっと警戒してくれるだろうと思ってた。まさか、よりによってあいつと二人きりで籠ったりするなんて・・・」

反町は緩く首を振った。
眉根を寄せた苦々し気な表情に、今更だがこの男が相当に今回の件を不快に感じていることを知る。
そうであるなら尚更、俺のことなど放っておいてくれればいいのに、とも思う。

「・・・何も無かったから、いいじゃねえか・・・って俺、さっきも言ったよな・・・?」

出ていけと怒鳴りつけたにも関わらず、反町にそうする様子は見えなかった。そうするつもりも無さそうだった。
どうしたらいいのかと、思い悩む。酷い言葉を投げつけても駄目だというなら、他にどうすれば俺を置いてここから出ていってくれるのか。それが分からない。

この男と距離を取りたい。元の静かで、淡々とやるべきことをこなしていく生活に戻りたい。
それが一人のΩとしては心許なく不安な日々であるとしても、構わなかった。

「・・・お前はさっき、結果的に何もなければそれでいいのか・・・って、俺にそう言ったけれど」

俺が口を開くと、反町はゆっくりと顔を上げた。いつもは人懐っこく煌めいている瞳が、さっきまでの激昂など忘れたかのように静かに俺を見つめている。

「俺にとってはそうなんだよ。いま無事であることが、一番大事なんだ。・・・だけど、それをお前に理解しろって言っても、無理なんだろうな」

未来のことを思い描いたって、今が破綻するというのなら意味は無い。
その日その日を、何事も無く終えるということ      それが俺には重要だった。
今日は大丈夫だった、じゃあ明日は?明後日は?その次は・・・?      そんな風に問い続ける日々がどんなものであるかを、反町が知る筈もないだろう。


だがαの男は表情も変えずに「・・・そうかな。俺には分からない、かな。結構、分かってるような気がするんだけど」と答える。
意味が分からずに、俺は訝し気に見返した。









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