~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 29
「・・・引っ張んなよ・・・っ!」
ひっそりと静まり返ったマンションまでの帰り道に、できるだけ抑えたつもりの俺の声が響く。
「お前の考えているようなことなんか、何も無かったって、言ってんだろ・・・!?」
「・・・・・・・・」
「聞いてんのかよ!」
昼間に紅葉と別れるところを見られてから、そのまま部活が終わるまで反町と話す機会はなかった。
練習中もロクに目を合わせないし話しかけても来ないから、面倒なことになるんじゃないかという予感はしていた。案の定、練習を終えて帰宅するとなったら、部室を出た途端に腕を掴まれて半ば引き摺られるようにして歩かされ、今こうしてここに至っている。
俺はこれみよがしにため息をついた。
俺からしたって、反町に言いたいことは山ほどある。
紅葉とは本当に何も無かった。そもそもあいつは、俺のことを正真正銘のαだと思っているんだ。
だから、お前が心配するようなことは起こる筈が無い。お前が普段から危惧しているような、Ωだと知られて無理矢理にどうこうされるなどということは。
ただ別の意味での危険はあったかもしれないけれど。
だけどそれは別に俺じゃ無くたって同じことだった。男も女も、αもΩもすら関係なく、あいつに気に入られれば誰だって身の危険があったということだ。
というよりも、そもそもあいつがそんな趣味をしていると知っているなら、お前は一言俺に言っておくべきだったんじゃないのか ?
俺は反町に対して、そんな風に抗議したっていいくらいだった。もし紅葉が、相手を暴力で意のままにするような奴だったなら、たぶん危なかった。今の俺では、力であいつに敵いはしないだろうから。そして一度でも犯されたなら、俺がΩだとバレない筈がなかったから。
だが紅葉の性癖について前もって知っていれば、自分がヒートであろうとなかろうと、俺はあいつのことをもっと警戒しただろう。徹底的に接点を持たないようにした筈だ。そうしたらこんな風に反町を怒らせることも、きっと無かった。
「・・・俺だけのせいかよ・・・」
呟いた言葉は反町には届かなかったのか、俺の腕に掛かる手が緩むことはなかった。再度ため息をつく。
これから最低でも数時間は続くだろうこいつの不機嫌を思うと、憂鬱で仕方が無かった。
マンションのエレベーターに乗り込むと、当然のように反町は俺の部屋のある階のボタンを押した。それよりも下にある自分の部屋のフロアは素通りだった。
無言の男二人を乗せた箱はあっという間に目的の階につく。エレベーターの扉が開いて足早に降りた反町は、やはりさっきまでと同じように俺の腕を掴んで離そうとしなかった。
部屋の前に着いて自分の持っている鍵でドアを開けると、俺を先に中へと押しこむ。靴もちゃんと脱いでいないのに乱暴に背中を押されて、さすがに腹が立った。
「なんだよ!勝手に人の家に上がりこんで・・・お前はさっさと自分の部屋に帰れよ!」
帰れと言ったところで、頭に血が上っているのであろう状態の反町が言うことを聞く筈がない。俺がどんなに喚こうとも答えもせず、無理矢理に手を引っ張ってリビングに入ると、αならではの馬鹿力を発揮して俺をソファに放り投げた。
「・・・ッ!痛えなッ!何すんだよっ!」
この部屋には造りのしっかりした質のいい家具を揃えたつもりだが、それでも体格のいい俺にぶつかられたソファはガタガタと悲鳴を上げた。またしても階下の住民に迷惑をかけただろう。だが今はそんなことより、この状況をどうにかする方が先だった。
急いで起き上がって身構えれば、αの男は仁王立ちして俺を見降ろしている。その顔にはさっきまでの感情の読み取れないような能面のような表情とは違って、怒りの色がはっきりと浮かんでいた。
「・・・どうして紅葉なんかと一緒にいたんだよ!しかも二人っきりで!人気のないところから出てきて!それがどんなに危険な状況だったかって、ちゃんと分かってるの!?」
「それは俺だって、確かに迂闊だったとは思ってるよ!だけど、別について行きたくて行った訳じゃねえし・・!大体、何もなかったって、さっきから言ってんだろッ!なら、それでいいじゃねえかよ!」
「結果的に何もなかったからいいとか、そういうことじゃないだろ!?」
「うるせえ!そもそもお前が怒るようなことかよ!お前にそんなことを俺に言う権利があんのかよっ!」
俺は紅葉の特殊な性癖について予め情報を寄越さなかったことを詰ったのだが、反町はそうは取らなかったようだ。俺の投げつけた言葉に、明らかに表情を強張らせた。
その顔を見て、俺はますます気分が悪くなる。
俺だって、こいつに心配を掛けたい訳じゃ無い。怒らせたい訳でもない。こんな顔をさせたいんじゃなかった。
俺がもっと気をつけるべきだったのは間違いない。
だけど今日のことに限っては、こいつが一言でもいいから先に忠告しておいてくれれば、結果は違ったと思えた。あんな風に、紅葉に閉じ込められることもなかった。声をかけられたところで無視して逃げることもできた筈だ。
(俺だって、誰を相手にしてもいいなんて思っている訳じゃねえんだよ・・・!当たり前だろうが・・・ッ!)
俺が好き好んでああいう状況になったと思っているのなら、それは侮辱でしかない。たとえこの男でも許せることじゃなかった。
(だからお前を呼んだじゃないか!助けろよ・・・って、お前を呼んだんじゃねえかよ・・ッ!)
そうだ、お前を呼んだんだ。
なのにお前は来なかったし 俺は怖かった。
あの教室を抜け出すためには、できるだけ冷静でいる必要があった。パニクってる場合じゃなかったから、『落ち着け、落ち着け』と何度も自分に言い聞かせ、どうすればいいのかを必死に考えた。
だけど、本当のところは恐ろしかった。誰でもいいから助けてくれと、大声で叫びだしたいくらいには、脅えていた。あのαには既に俺がΩであると知られているんじゃないかと、不安でいっぱいだった。
結果的には、そんな無様な姿を晒さずには済んだけれども。
そして今、無事に抜け出せた俺はまたこんなことを考えている。どうして俺じゃなくちゃいけなかったんだろう、と。
どうして俺ばかりがこんな目に合わなくてはいけないのか。どうして俺が選ばれたのか、どうして他の誰かじゃないのか 飽きもせず、そんな問いを繰り返している。18の時から、何一つ変わらない。一歩も前へ進めていない。
だけど答えなんてどうせ誰にも分からないのだから、きっと永遠に堂々巡りなんだろう。
もう、いい。
もう嫌だ。疲れた。人には言えない秘密を抱えて、いつか誰かに暴かれるんじゃないかと脅えて、それでもどうにかやってきた。危ないこともあったし、こうして俺の正体を知ってしまった奴もいるけれど、何とかやってきたんだ。俺は俺なりに抗いながら、αとして生きてきた。
だけど、こうして本物と向かい合えば分かる。俺とこの男では全く違う。結局のところ、俺はΩで、この男はαなのだから。こいつに俺の生き辛さが本当の意味で理解できる日なんて、絶対に来ないだろう。
そう考えて、俺は絶望にも似た虚しさがひたひたと押し寄せてくるのを感じた。やがてそれは昏い感情となって、内側から俺を蝕んでいく。自分でも止めようがなく、侵されていく。
「・・・お前なんかに、何が分かる。αのお前に、俺の何が」
「・・・ひゅうが、さん」
「出ていけ・・・!俺が何をしたって、お前には関係ない!お前と俺は、本当の番でも何でもないんだからなッ」
「日向さん・・・!」
反町は傷ついたように瞳を揺らした。
傷つくなら、傷つけばいい 寧ろ俺は、傷つけたいとすら思った。この優しい、面倒見のいい友人を。
そうすれば終わる。どうせいつかは終わりにしなくてはならないことだ。それが多少早まったところで、何の問題もない。
(お前のことを解放してやるよ 。俺は昔のように、一人でも平気だから)
それがαとしての俺の、最後の矜持だった。
「・・・仮の番だって解消だ。だから、俺が何をしたって、どうなったって、お前にどうこう言われるようなことじゃねえんだよ!!」
もう俺は十分だから。
お前から十分に受け取ったから。αに庇護されるということがΩにとってどういうことなのかも、それがどれだけ恐ろしいことなのかも、もう知ったから。
だからこれが潮時なのだと、俺はこの男の手を離すことを選んだ。
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