~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 26








αの男は俺に覆い被さるようにして扉に両手をついている。
少し目尻の垂れた甘く整った顔が、ごく至近距離まで迫っていた。思わず顔を逸らす。
だがすかさず顎を掴まれて、無理矢理に視線を戻された。

「・・・何だよ・・・ッ」

声が震えないように。
脅えが滲まないように。

それだけを意識して、俺はαの男を睨みあげた。上手く隠しおおせているのだろうか。それは分からなかった。

「離せよ・・・ッ!」

俺が声を荒げたところで、紅葉は動じる様子など見せない。それはそうだ。この男は他人を支配する側のαなのだから。俺が何を言ったところで、自分のしたいようにするだけだろう。

だけど俺は逃げなければならなかった。今は発情期でないということも、この状況では気休めにもならない。こんなにも近くにαがいることが、ただ怖かった。
紅葉は俺を扉と腕の中に閉じ込めている間も、口を開こうとしない。何を考えているのかよく分からない表情をして、俺をじっと見下ろすだけだった。

「・・・っ」

それからそのままゆっくりと俺との距離を詰めてくる。首筋に顔を寄せられ、俺は吃驚して咄嗟に手で押し退けようとした。
だが腕の力では敵わない。もがけばもがくほど、より深く紅葉に抱きこまれる形になった。

「・・・離せ!・・・止めろよ・・ッ!」

顔のすぐ近くに紅葉の熱くて湿った呼気を感じた。それが嫌で首を振ると、ふいに耳の裏の柔らかい場所に男の鼻先が触れる。普段、絶対に他人に触れられたりすることのないところ。
一気に顔に血が上る。頬が熱くなる。

「ば・・ッ、離せって言ってんだろっ!この変態ッ!何してんだよッ!」
「しー・・。少し、静かにして・・・黙ってて」

紅葉のその口ぶりは、まるで聞き訳のない子供か何かを諫めているかのようだった。どう考えたって、おかしい行動を取っているのはこいつの方なのに。

「・・・嫌だ、離せよ・・・」

自分でも声が上擦るのが分かる。

もしかしてこの男は既に知っているのではないか       そんな考えが嫌でも浮かんだ。
俺がαではないことを、αの振りをしているΩに過ぎないことを、この男はもう確信しているのではないだろうか。そのことをすぐに暴こうとしないのは、単に間の抜けたΩをいたぶりたいだけじゃないだろうか       そんな風に疑うと、背中に冷たい汗が一筋流れた。


考えろ、考えろ       それでも、混乱の中にありながらも、俺は必死に自分に言い聞かせた。
これは本当に危機なのか。
これが危機だとするなら、どうやって切り抜けるべきなのか。誤魔化すのか、逃げるのか。それとも黙ってやり過ごすなんてことが、まだ可能なのか。
この後も俺がこれまでと変わらずに生きていくために、どう対処するのが最善なのか    

身体がぶるりと震えた。
失敗は許されない。そうなったらきっと、やり直しは効かない。
恐怖と緊張とで、どうにかなりそうだった。だけどギリギリのところで耐えていられるのは、これが初めての危機じゃないからかもしれなかった。
一度目は、見知らぬ男。二度めはよく知る男。
そして三度目は、顔見知り程度の男       。前回の危機に比べれば、なんとか切り抜けれらるレベルかもしれない。あの発情期真っ只中に薬の切れた夜に比べれば。

だけど、俺は怖かった。あの時よりもよっぽど恐ろしかった。
あの頃の俺は、Ωとバレたならαとして培ってきたものを全て失うのだと思って、それが容認できなくて、ただひたすら人生を失うことに脅えていた。
今だってそれは怖い。だけど、それだけじゃない。もう俺は知っている。αに性の対象として見られるということが、どういうことなのかを。αの熱の烈しさも、αがどんな風にΩを求めるのかということも。
身の内にαを迎え入れたことこそ無かったけれど、だけどもう俺はαに与えられる快楽も苦しさも知っていた。

「・・・いや・・だ」

嫌だ嫌だ嫌だ。
俺にさわるな。俺はお前のものなんかじゃない。お前なんか、嫌だ、絶対に嫌だ        声にならない言葉で拒絶する。

目の前の男は、番のいないΩならきっと誰もが欲しがるだろう上等な部類のαだ。だけど、俺には要らない。俺はこの男なんか欲しくない。
もし      もしも紅葉にこのまま無理矢理に身体を開かれたなら、俺は一体どうなるのだろう。きっと妊娠はしないだろう。発情期じゃないから。
だけど、俺の中にその事実は残る。αに抱かれたという事実が。あいつ以外のαに抱かれたという事実が。

脳裏に浮かぶのは、俺みたいな出来そこないのΩを相手に「仮でも番は番なんだから、ちゃんと甘えてよね」と嬉しそうに笑うαの男。俺のことを好きだと言って、俺がいいと言うまでは抱かないと約束した男。陽気で茶目っ気があって、だけど実は俺よりもよっぽど大人だったあいつ。

     お前、どうしてここにいないんだよ・・!助けろよ・・!)

お前が俺を助けなくて、どうするんだよ!お前、俺を本当の番にしたいって言ってただろう・・・!     望んだことではなかったが、結果的に紅葉についてきてしまったのは俺の落ち度だ。そのことを棚上げした俺は、心の中で身勝手にもここにはいないαの男を詰った。

(嫌だ嫌だ、こんな男、絶対に嫌だ      !)

お前じゃなきゃ、誰が、お前じゃなければ、誰が、誰が他のαのものなんかに      

(・・・お前じゃなきゃ・・・誰かと繋がるというのなら、俺は、お前じゃなきゃ    




そこまで考えて、俺は愕然とした。









       back              top              next