~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 20
足りない。全然足りない。こんなものじゃ、満足なんかできやしない。
最早αを知らない頃の自分には戻れないのだと知り、愕然とした。以前は薬さえ飲んでしまえば、こうやって自分で自分を慰めるだけでも何とかやり過ごすことができたのに。なのに今はヒートも終わりかけだというのに、自分で触れてもより煽られて熱くなるだけだった。
「・・・ふ、」
苦しい。どうしよう、苦しいんだ 。
強烈な飢餓だった。今すぐ、この飢えから救ってくれるのであれば、誰が相手でもいいような気がした。
どんなαであっても。何ならβだって。
体の熱は一向に治まらないのに、俺は寒気に震えた。怖い。どんどん自分が変わっていく。俺が最も恐れていた、α無しでは生きていけないΩになっていく。しかも、今この時の苦しさを何とかしてくれるなら誰でもいいというような、最も蔑すむべきΩに成り下がるのか そう思うと、恐ろしかった。
それでもこの熱を鎮めて欲しい、誰かに助けて欲しいという欲求は、その恐怖さえも凌駕しようとしている。
もし今がヒートのピークにあるのだったら、俺はこのままフラフラと街に出ていたのかもしれなかった。そして行きずりのαとどうにかなっていたのかもしれない。
いや、もしかしたら今だって。このままじゃ、一人では治めようがないのだから、それだって仕方がないじゃないか 頭の隅で、誰かが囁く。
「・・は、あっ、あ、あ、・・んっ!」
自分で触れても、昇り詰めることが出来ない。早く吐き出して終わりにしたい。楽になりたい。イヤだ、苦しい、誰か、もう無理、我慢できない、我慢したくない、誰か、誰でも、誰でもいいから !
今すぐこの恰好のまま外に飛び出してしまおうか 無意識にそうしてしまってもおかしくはないくらいに、俺は追い詰められていた。
だが結果としてはそうはならないで済んだ。
その時、まるで見張っていたんじゃないかというようなタイミングで電話がかかってきたからだ。
「う・・ん」
震える手でスマホを取り上げて画面を覗き込むと、反町の名前が表示されていた。
「・・は、あっ」
αの男の名を見ただけで、体の奥からドロリと熱いものが流れだした。自分のフェロモンの匂いなんか分からない筈なのに、不思議とまとわりつく空気が甘く薫って、粘度を増したような気がした。
(今出たら、駄目だ)
最初に思ったのはそれだった。
今電話が繋がったなら、きっとあいつは俺がどういう状況にあるか気づいてしまう。あいつがいない夜、俺が一人でいる時にどうやってやり過ごしているかなんてこと、知られたくなかった。ヒートも終わりかけだというのにα無しで過ごすことが辛くて、自分で自分を慰めているだなんてこと。しかもそれじゃ満たされなくて、余計に苦しくて、αなら誰でもいいと街に漁りに行きかねないほど昂っているなんてこと。
そんなことを知られる恥に比べたら、このまま朝まで一人で悶えて苦しむ方がまだマシだと思えた。
なのに。
そう思っている筈なのに。
いつまで経っても俺を呼び出す音は止まず、微かな振動が続いている。気が付けば俺は、震える指先で画面をタップしていた。
「日向さん!?大丈夫?全然出てくれないから、心配するよ!」
「・・・ごめん」
「俺さ、こっちに来たはいいけど、やっぱ日向さんのことが心配で・・・だって、まだ完全にヒートが終わったわけじゃないじゃない?ね、俺、今から日向さんちに行っていい?日向さんが大丈夫なのを確認したら、そのまま自分の部屋に帰るから。邪魔しないから。ね?いいでしょ?いいよね?」
仮の番、αの男の発する声。
純粋に俺を心配しているような、焦りの感じられる声だった。なのに耳元でその声を聴いただけで、身体の内奥が更にドロドロに溶けていく。指の先まで伝わるような、じんじんとした疼きがずっと続いている。
一向に萎えようとしない欲望に苦しい息を吐きながら、俺は苛立ちを覚え始めていた。この男は一体何を言っているのだろう。誰に何の許可を求めているというのだろうか。
馬鹿だな、ほんとにお前は 。
αのくせに。Ωの俺の許しなど、αであるお前には必要ない筈だ。
反町は俺の知る限り、他人に対して面倒見もよく誠実でもあるが、決してお人よしではなかった。要領よく立ちまわるタイプで、自ら貧乏くじを引くような奴じゃない。
なのに、気が付いたら俺みたいな出来そこないのΩを掴まされて、好きに遊びに行くことも出来ないで、そのうえΩの心配をするのにそのΩの許可を得ようとするだなんて。ほんとに馬鹿だと思う。
多分、世の中にいるほとんどのΩの方が、俺よりもよっぽど自分を弁えている。αに愛される術を持ち、αに守られながらもΩとしての役割をちゃんと果たしている。αに囲われ、αを癒し、いずれはαの子を成すという役割を。
だけど俺はαとして生きてきた。αとしてあるべき教育を受けてきたんだ。Ωがどう生きるべきかだなんて、αから愛されるにはどうすればいいかなんて、そんなことは習ってこなかった。
18の時に自分の運命が変わったことを知ったけれど、それでもαに愛される術など自分には必要のない知識だと、母親にも教わらなかった。それでいいと思っていた。
俺はどうすればいいんだろう。この先、どう生きていけばいい。
経済的に恵まれた環境で育てられはしたが、それでもプロのフットボーラーという職業に向かっては、誰がレールを敷いてくれる訳ではなかった。だから子供ながらに、自分の人生は自分で切り拓くのだと思っていた。弛まぬ努力でひたすらに上を目指していけば、いつか夢は叶うのだと信じていた。
だが実際にはどうだ。道なき道を行ったところで、何が待っている。誰にも明かせない秘密を抱え、誰にも頼らず、誰をも守ることのない、一人で生きていく人生があるだけだ。
怖くない訳がなかった。Ωであることを知られたくないという望みと同じくらいに、もう降りてしまいたい、楽になりたいのだという気持ちもある。
頭の中がグチャグチャだ。どうすればいいのか分からなかった。
こうなってまでサッカーにしがみついている俺は、この先どうしようというのだろう。どこに向かっているんだろう。
Ωのくせに。αやβを相手にして、いつまでも対等に戦える筈もないのに。俺がサッカー選手として成功できる可能性なんて、もう無いも等しいのに。
「・・・ふ・・っ、う・・」
「日向さん!?どうしたの!?泣いてるの!?」
堪えようとしても駄目だった。目の前の景色が歪み、涙が後から後から溢れてくる。
涙腺が壊れたかのようだった。ボロボロと泣きながら、俺は俺のことを一番よく知っているであろうαを罵った。
「・・・ど、して、放っておいてくれないんだよ・・・っ!お前のせいで、おれ・・・っ!本物のΩになんて、成りたくなかったのに・・っ!お前が、俺を放っておかないから・・・!お前のせいで、俺、どんどんおかしくなっていくっ・・・」
回線の向こうで息を呑む気配がした。
俺が泣くのがそんなにおかしいのだろうか。
それはそうだろう。俺は長いこと、反町の前ではαだった。お互いにαとして知り合い、αの友人同士として付き合ってきた。
俺たちはαとしての資質、プライド、矜持といったものをよく理解している。人前で子供みたいにみっともなく泣き喚くαなど、どこにもいない。
だけどもう、どうしようもなかった。こんなのは八つ当たりでしかないと分かっているのに、感情が高ぶって酷い言葉をぶつけずにはいられなかった。
「まだ、駄目、なんだ・・っ。ヒート、完全には終わってなくて、苦しいんだ・・!だけど、俺は一人で何とかできてた筈で・・・・、前は出来たんだ、ちゃんと・・・。なのに、今はできない・・・!お前のせいだ。・・・お前のせいで、俺・・・おかしくなった。・・・ほんとに、Ωになった・・・っ!」
「・・・・日向、さん」
勿論、俺がΩになったのは反町のせいなんかじゃない。そんなのは分かっている。知っている。
だけど、誰かのせいにせずにはいられなかった。俺は狡い。狡くて酷くて、醜いΩだ。
なのにそんな俺に対して、反町は何も言い返そうとしてこなかった。
「お、前が放っておいてくれれば、何も変わらなかったんだ。前みたいに、ちゃんと一人で、αとして生きていけた筈なんだ・・・っ!なんで、俺っ、本当のΩになんて・・・っ」
「日向さん」
「なんで・・・っ」
「日向さん、落ち着いて。・・・俺、ちゃんと話聞いてる。聞いてるから。だから、お願い。一回、深呼吸して?」
「・・・もう、嫌なんだ・・ッ!」
「お願いだから、深呼吸して。ね?」
反町に何度も繰り返し諭されて、ようやく俺は深く息を吸う。だが途端にしゃくり上げてしまい、咳き込むことになった。息ができない。苦しさにまた涙が滲んだ。
「・・・日向さんはさ。・・・そう言うけど」
俺の荒い呼吸しか聞こえない時間がしばらく続いた後、やがて反町がポツリと呟いた。
「放っておける筈がないよ。・・・だって、そうでしょ?俺がいなかったら、じゃあ日向さんは誰を頼るの?・・・その辺を歩いているαを頼るんじゃないの?」
ドキリとした。
それはつい先ほどまで、自分でも有りうると考えていたことだった。見透かされている、と感じた。
「そんなの嫌だよ。俺、絶対に嫌。日向さんが他の誰か・・・しかも、その辺の知らない奴のものになるなんて、想像するのも嫌。・・・ねえ、だったら俺でいいじゃん。俺の方が日向さんのことをよく知っているし、特殊な事情があることも分かっているし、そもそも同じ大学の同じ部で、同じマンションに住んでいて、すごく都合もいい。・・・何が、駄目なの?そんなに俺が嫌?俺じゃ、仮の番にするにも物足りない?」
「・・・なに、言って」
さっきといい今といい、反町の言うことは誰が聞いてもおかしい。αとして正しく文句のつけようがない男。それがこいつだ。仮の関係だとしても、むしろ俺みたいなのが番であることに、お前の方こそ不服があるんじゃないのか。
「・・・お前の言ってること、よく分かんねえよ・・・」
「分からない?ほんとに?」
電話越しの声は、少し笑いを含んでいるようだった。
『仮でもいいから、番になろう』と提案してきた男。要領がよくて面倒を避けるのも上手なのに、迷惑ばかり掛ける俺を見捨てない友人。
どうしてお前は傍にいてくれるんだろう?どうしてさっさと、可愛らしいΩの女の子を見つけて本当の番としてくれないんだろう。
俺が苦しいと言えば、離れたいと言えば、解放してくれるのだろうか。
「日向さんのことが好きだって。だから他のαに渡したくないって。そう言っているんだけど」
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