~ 溶けて消えて、このカラダごと。 ~ 16







大学の長い夏休みが終わると、まだまだ残暑はあるものの、少しずつ吹く風に秋めいた爽やかさを感じるようになった。

東邦大のサッカー部は今のところ関東大学リーグで首位を走っていて、気は抜けないものの、このまま順当にいけばインカレの出場権を獲得できそうだった。天皇杯も2回戦を突破することが出来ているし、もうじきトレーニングキャンプも始まる。夏を終えても、結局はサッカーばかりの忙しい日々だった。
そんな中、最近の俺は身体の調子もよくキレもいい。ボールも身体も自分の思うとおりにコントロールが出来て、練習でも試合でも監督にいいアピールが出来ていた。

「日向、調子いいな。その調子を後期も維持しろよ」
「梅雨時はどうなるかと思うくらい、調子悪そうだったからな」

ある日の練習後、先輩たちに頭をクシャリと撫でられた俺は、「うす」と返事をして曖昧に笑った。

前回のヒートは梅雨の時期だった。次のヒートはそれから3か月後、つまりはちょうど夏休みが終わった今頃ということになる。残念なことに、ヒートの時期は黙っていても、どんなに嫌がっていても確実にやってくるのだ。しかも前触れなく。

今夜かもしれないし、明日かもしれない。極端なことをいえば、練習を終えて引き上げたロッカールームで突然に始まるのかもしれなかった。
弱い薬なら今は毎日飲んでいるし、新しく貰った薬も常に持ち歩くようにしているから、すぐにそれを飲むことができれば何とかなるだろうと思う。とにかく家までもたせればいいのだ。家に帰れば、今は助けて貰える。助けてくれる人がいる。


おかしな話だが、たとえ仮であるとしても番というものがいると思うだけで、随分と気が楽になった。あの飢餓にも似た苦しさは、経験したΩでなければ分からないだろう。あの苦痛に一人で耐える必要が無いのだと思うと、単純に安堵できた。
助けてくれるのが昔からの友人であるということ、その友人を利用するのだという罪悪感はどうしたって消えようがなかったけれど、それは「なるべく早くこの関係を終わらせる」と思うことで押し殺すことにした。


ただ、「なるべく早く終わらせる」ために自分が何をしたらいいのか、どうしたらそうなるのかは相変わらず分からなかった。
どちらかが本当の番を見つけるか、それともこの関係に飽きるか、嫌気がさすか。この関係を解消するとしたら、そんな理由からだろう。だけど、俺は誰かにΩであることをばらすことはできない。相手を必要としているのは俺の方で、だから俺から嫌になるとか飽きるとかも考えられない。
そうなると、どういう状況で終わるにしても、それを切り出すのは反町の方から、ということになる。それは至って現実的な話だ。

そのうち、そう遠くない将来に、あいつは周りにいる可愛らしいΩの子の中から、ただ一人の番を選ぶ。その子はきっと穏やかで優しくて、あいつのことを癒してくれるんだろう。少しくらいトロい子だとしても、一所懸命にあいつのことを考えて、あいつを幸せにしてくれるに違いない。

そうなれば俺はまた一人だ。そうなる約束なのだから、どうってことはない。覚悟はできている。
そもそも俺は自分からΩとして生きていくことを拒否しているのだから、それは俺が受け入れなければならない未来だ。父親にも言われた筈だった。αとして生きていくということは、誰にも頼らずに一人で生きていくことだと。そして、それはとても辛くて苦しいことなんだよ          とも。


あの頃、俺はまだそれがどれほどに大変なことなのか、どれほど厳しいことなのか、ちゃんと分かってはいなかった。
ただ自分の夢が潰えてしまうことを恐れて、Ωとして生きていく可能性を頭から否定した。

じゃあ、今だったらどうなのだろう。

仮の番は、俺を甘やかしたいと言っては、実際にそうしようと行動する。別に細々と世話を焼いてくる訳ではないし、ベタベタとひっついてくる訳でもないけれど。
でも傍にいてくれて、美味しい珈琲を淹れてくれて、隣に座ってくれて、どんなに疲れている時でも機嫌が悪いなんてこともなく、振り向けばにこやかに笑いかけてくる。

たったそれだけのことで安心できるのだと、俺はもう知ってしまった。αがくれる穏やかな時間を一度でも手にしてしまった今なら、俺は違う選択をするのだろうか。



改めて考えてみても、やはり俺にはαとして生きていく以外の未来なんて見当がつかなかった。

サッカーがしたい。プロのフットボーラーになりたい。全国にいるライバルたちと闘いたい          今この時だって、俺の夢はそれに尽きた。だからαとして生きていくしかない。


ただ出来うるなら、願いが一つ。

受け取るだけでなく、俺も何かを返したい。あいつを解放するまでの短い間だとしても、与えられるだけの人間ではありたくない。
何故なら、この関係を解消した後でもあいつとはいい友人でいたいから。

そうなるには、一方的に甘えさせて貰うのではなくて、俺もあいつの役に立たなければいけないんじゃないかと思う。だって対等、というのはそういう関係の筈だ。


そうはなれないだろうか。今の俺では。
Ωの俺では。













「日向さん、そろそろヒート始まるね」

朝、一緒に大学に行こうと誘いに来た反町を部屋に入れると突然にそう言われ、驚いた。自分にも期間を測ることでしか分からないのに、どうして反町に分かるのか。

「どうして、って・・・。だってフェロモンが強くなってきてるし。いつもの薬、飲んだ?今日はもう、ちゃんと飲んだ方がいいと思う」

どうして分かるんだ、と問う俺に、反町はそう答えた。全く理不尽だし、不便なものだと思う。
俺自身は発情がいつ始まるのかと戦々恐々としているというのに。いつの回も突然に始まってしまい、それでようやく自分がヒートに入ったことを知るというのに。
なのに、αには俺たちΩがヒートの準備を進めていることが丸わかりだなんて、これじゃαを警戒するといっても難しい。

「ほんと、日向さんってあんまりΩの身体のこと、知らないよね。αだった頃、興味なかった? 俺はΩの身体ってどうなってるんだろうって、子供の頃から興味深々だったけど」
「俺はお前みたいにイヤラしくなかったから」

俺がそう言うと、反町は軽く唇を尖らせた。

「ヤラシイとかヤラシくない、とかの問題じゃないでしょ。特に今は自分の体のことなんだし。俺、日向さんってよく今まで無事だったと思うよ。突然に性転換したことで、まだ身体が変化しきっていなかったんだろうね」
「そうだっていうなら、ずっと中途半端でも良かったな。完全なΩになりたいなんて、今でも思わない。ヒートさえなければ、こんなに楽なことはないのに」

俺は本気でそう思ったから言葉にしただけなのだが、いつもなら間髪入れずにリアクションをしてくる反町が珍しく黙っている。少し困ったようなその表情を見て、俺はこの友人に今更どうしようもない、甘えたことを口走ったのだと気が付いた。馬鹿なことを言ったと恥ずかしくなり、気まずくなる。

「・・えーと、」
「行こ、日向さん。遅刻しちゃう」

すると俺が何を言わなくても済むように、「早く早く、遅れちゃうよ」と腕を引っ張って家から出させてくれる。

なるほど。こいつがΩの子にモテる秘訣はこういうところか、と俺は納得して、反町と一緒に玄関を出た。









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