~ 日向兄弟 <尊編> ~ 4





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日向家の玄関前までようやく辿りつき、尊は 『やっぱりあいつらには内緒にしておくべきだった』 と思い返した。

今朝になって兄から突然、『今日、家に帰るから』 と連絡があった。夕方までには着くと言っていたから、おそらくは既に家の中にいるはずだ        
そのようなことを尊が明かすと、堀田と三木は 『今から尊の家に行きたい』 と言い出した。行く、行かせてくれ。邪魔だ、来るな。いやせめて顔だけでも        
そんな押し問答をしばし続けた。『日向さんが帰ってきていると分かったからには、一目でいいからその姿を拝みたい!』 というのが二人の主張だった。

「なっ。ちょーっとだけでいいから。見たらすぐに帰るから!お願いっ!」
「日向さん、カッコイイし!俺ファンだし!できればサイン・・」
「ウザい。さっさと帰れ」

最終的には 『家に帰ってきている時は、完全プライベートだから。押しかけてくるのとか、あの人すげぇ怒るから』 と尤もらしいことを告げ、諦めさせた。馬鹿馬鹿しい、実に無駄な時間だったと、堀田と三木が知ったなら憤慨するようなことを尊は思う。
だが、それほどに貴重な時間なのだ。兄が、日向小次郎が明和の家に帰ってきていることなど、めったに無いのだから          

「ただいま」

気持ちを切り替えて、玄関の引き戸をガラリと開ける。いつものように挨拶をして帰宅を知らせると、バッグを置いて靴を脱ぐ。廊下の古い床板がギシリと軋む音を立てて、尊は顔を上げなくても、そこいるのが誰であるのか当たり前のように分かった。昔から小次郎の気配を、他の誰かと間違えたことはなかった。

「おかえり、尊」
「・・・ただいま」

出迎えてくれたのは、やはり兄、小次郎だった。ペールブルーのざっくりしたニットにジーンズというラフな格好でそこに佇んでいるだけなのだが、姿勢がよくて等身が高いせいか、それだけで絵になる。
久しぶりに帰ってきた兄は、少し大人っぽくなったように、そして綺麗になったように尊には見えた。目尻の切れあがった瞳は相変わらず強い光を湛えているものの、以前よりも落ち着いた印象を与えるようになっていたし、鼻筋はスっと通り、ほどよく厚みのある唇は赤く色づいて、笑みの形にゆるやかに弧を描いている。今まで一度も染めたことのない真っ黒で艶やかな髪が秀でた額にかかり、それが小次郎の精悍な顔立ちに陰影を作り出し、シャープさを強調して女性のとは違う、男らしい色気を与えていた。
同じ性をもつ尊ですら、普通に見蕩れてしまう。ましてや女子ならば・・・と感心しつつも、小次郎には少し大きいのか、手の甲まで隠れる袖が可愛らしくもあり、尊の口元も自然と緩む。『アイツらを連れてこなくて良かった』 と、改めて思う。こんな格好よくて可愛らしい生き物を見せるなど、勿体ない。

「遅かったな。もうだいぶ外は暗いだろう。帰り道、危なくないか?」
「女子じゃないんだから・・・。っていうか、こっちが 『お帰り』 だよね。いつ着いたの?」
「1時間くらい前かな。晩飯、お前と一緒に食おうと思って待ってたんだ。早く着替えてこいよ」
「うん、俺もすごく腹減った。・・・待っててくれてありがとう」

そういって尊が顔を上げると、ふいに小次郎の眉が寄せられる。

「・・・お前、なんか疲れた顔してないか?ちょっと痩せた?」
「え、そう?・・・少し風邪気味なのかも。昨日から急に寒くなってきたしね」

でもそんなこと、今日初めて言われたよ?         尊がそう嘯くと、小次郎の右手が伸びてきて、左の頬に手のひらを当てられた。そのままスッと親指で目の下をなぞられて、それで尊は小次郎が無言で目の下の隈のことを指しているのだと分かる。
他人からは豪放磊落な性格をしていると思われがちな小次郎だが、本質はそれとは少し違うと尊は思っている。確かに他人の気持ちの機微には、特に自身に向けられる感情にはやや鈍感で大雑把なところもあるが、家族に対しては昔から心を配り、些細な変化を気にかけ、長男気質を発揮してきっちりと直子や勝の面倒を見ていた兄だった。物理的に離れて暮らすようになってからはたまに電話を掛けてくるが、その時でさえ、出てくる言葉は年の離れた弟たちを気遣うものばかりだった。

ああやっぱり自分はこの人が好きだな         と、小次郎のそんな性質を尊は好ましく思う。その一方で、意外に敏いところがあるから気をつけないと         と、警戒する。

「お前さ、家のこととか部活で忙しいんだろうけど、あんまり頑張りすぎんなよ。休むことも大事だからな」

小次郎はそう告げると、尊の頭の上に軽く手を置く。まるっきり子供に対するような扱いに尊は苦笑した。

「分かってるよ、大丈夫。これでも俺、結構頑丈なんだよ」

頭の上をポンポンと撫でてくる兄の手を掴む。その手は持ち主の人柄そのままに温かくて、尊はすぐには離せなかった。小次郎の声や体温といったものが、鼓膜や皮膚を通して身体の内側に染み込んでくるような心持ちがする。それらが血流に乗って四肢の隅々まで行き渡り、細胞の一つ一つに浸透していくようなイメージが頭に思い浮かんで、突如湧きあがる幸福感に尊は身を震わせた。ただ一人の人を前にして覚えるのは、満たされる、という感覚だ。

兄の手で自分の冷えた手を温めてもらいながら、尊はゆったりと微笑んだ。そんな表情をすると、父親似の優し気で柔らかな印象の顔立ちが更に甘くなる。

「じゃあ、着替えてくるね。・・・ああ、そうだ」

しばらく自由に弄んでいた小次郎の手をようやく離した尊は、その横を通り過ぎ様にトン、と兄の胸を人差し指で突いた。

「このセーターさ、よく似合っているけど首周りが緩すぎ。ちょっと下向くと見えちゃうよ。ここ・・・」

今度は小次郎の胸より少し上、右の鎖骨の下の辺りを軽く突く。

「ここの黒子は見せちゃ、駄目。これが隠れるようなインナーを着てよね」
「ホクロ? そんなのあったっけ? ・・・あれ、ほんとだ。お前、よく知ってんな」

ニットの襟ぐり部分を引っ張って中を覗き込んだ小次郎がへえ、と感心したように言うと、尊は一瞬虚をつかれたような顔をしたが 「・・・子供んときからあったし。俺、物覚えいいんだよ」 と返事をして、そのまま奥の部屋へと向かった。














部屋の電気をつけると、尊は制服を脱いで楽な服装に着替える。


           おかしい、と思われたかな。


できるだけ自然に。挙動不審にならないように。今までと何も変わらず、ただの弟として接すれば大丈夫。何も問題はない。

そんなことばかりを朝から繰り返し、自分に言い聞かせてきた。
普段の自分とそんなに、変わりはなかったと思う。頭に触れてきたときだって驚きはしたが、至って普通に接していたと思う。
だが、それも途中までだった。
思い出せば急速に頬が熱を持ち始めるのを感じて、尊は口元を手の甲で隠すように押さえる。赤くなっているだろう顔は、部屋を出るまでに何とか落ち着かせなければならない。

「・・・・やっぱあの人、エロいし。」

自分に無頓着な人だとは常々思っていたけど・・・と、苦々しく思う部分もある。

           大体が自覚がなさ過ぎなんだよ。露出するなっつーの・・・!

ゆったりとした形の綺麗な色のセーターは確かに小次郎に似合ってはいたが、襟ぐりが大きく開いていて、少しでも前かがみになれば首から下が覗けてしまっていた。その下に着ていたインナーも首周りが緩かったため、滑らかな肌と、その上に刻印された小さな黒い点が目に入った。
その黒子が子供の時からあった、というのは本当だ。その頃は、単なるメラニン色素が沈着したもの、という以外の意味は無いそれだった。
だが、今は違うのだ。目に飛び込んできた小さな黒い飾りは、今の尊にとっては可愛らしいアクセント以外の何物でもなく、色香すら感じさせるものだ。自分がおかしい、異常なのだということは分かっている。疾しい気持ちがあるから、なんでもない黒子がそんな風にいやらしく見えるのだと、ともすれば気分は奈落の底に落ちそうにもなる。
それでも自分のようにあの黒子を色っぽいと見る男が他にもいるかもしれないと思うと、尊は一言釘を刺さずにはいられなかった。だから小次郎には「見せちゃ駄目」とだけ告げた。何も言わずにやり過ごすことも出来ただろうが、不安があるなら芽は摘んでおくに限る。

「・・・もう、ほんっと・・・。勘弁して」

ぽつりと漏らした独り言は、誰に聞かれることもなく静かな部屋の中に落ちる。尊は深く溜息をついた。

欲しい、と自覚しているのだ。夢の中ではとうに抗うのも諦めて屈服している。だが現実の世界ではそうはいかない。今時、同性を好きになるだけならマイノリティだとしても罪ではないだろう。少なくとも、尊自身は石もて追われるほどのことだと思わない。だが兄弟は違う。血が繋がっている兄弟では、この先どれだけ時間が経つのを待ったとしても、自分たちが存在するこの世界では許されることなどあり得ない。


兄は自分のことを弟としか見ていない           そんなことは尊も重々承知している。情の深い人だから、人並み以上に大事にしてくれているのも、想ってくれているのも分かる。だがそれは兄として弟に寄せる愛情だ。それでいい、と尊も思う。尊の想いは、小次郎には秘密のまま抱えて生きていくことになるのだろう。到底小次郎には受け入れられないだろうし、これから陽の当たる道を華々しく歩んでいく筈の小次郎に背負わせるものではない、と思うからだ。

けれど、頭では納得しているつもりでも、気持ちがついていかない。彼の人を想えば、心が弾んだり、苦しくなったり、乱される。先が見えない訳ではない。そもそも先など無いのだ。結果は分かり過ぎるほどに分かっている。だから無駄な恋情など捨ててしまえればいいのに、それが出来ない。コントロールが効かない。そんな自制の効かない状態がまた自分らしくなく、気に入らない。考えれば考えるほど、色々な感情がグチャグチャに絡まっていく。

「・・・どうすればいいのかなんて、俺、もう分かんねーの」

だから、このままでいいと思う。辛くても、暫くはこのままでいい。
時間さえ経てば、もしかしたら、いつかは軌道修正できるのかもしれない。そうなれば、自分はあの人が兄弟として誇りに思ってくれるような人間になるために、その先の人生を努力していけばいい          


尊からすれば、出口のない迷路を辿っているようなものだった。迷宮から出られるなら、そこがどんな先でも構わない。光が欲しい。
着替えを終えて部屋を出る前に、洋服箪笥の扉の内側にある鏡を覗いた。今にも泣き出しそうな顔をした情けない中学生をそこに認め、不甲斐なさを心の内で嗤った。







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