~ 日向兄弟 <尊編> ~ 3
尊は結局4時間目を保健室で過ごし、睡眠を取った。昼休みになって教室に戻れば、同じバスケ部の堀田が昼練に誘いにやってくる。
「尊、弁当食い終わったなら、体育館行こうぜ」
「あー、悪い。俺、これから弁当食べるとこ」
尊は今まさに箸を手にしたところだった。1時間近く眠ったお陰で、頭痛も気分の悪さも治まっている。これなら放課後の部活も出られるだろうと算段していた。
「どうしたんだよ。今日は随分と遅いじゃん」
「さっきまで保健室で寝てたから」
「え、大丈夫!?部活は?出れんの?」
「出るよ。単に眠かっただけだし。だから保健室で寝させて貰っただけ」
悪びれもなく尊が言うと、「何だよ、サボりかよ。優等生は得だよなぁ。俺が行ったら、絶対教室戻れって言われる」と堀田が頬を膨らませる。
尊がどうこうよりも、調子がよくて明るい堀田が教師からも生徒からもいじられ易いだけなのだが、本人が本気でむくれている訳でもないので放っておく。
実際のところ、尊は頻繁に保健室に行っている訳では無かった。あまり回数が嵩んで保険医に目をつけられても、得することは何もない。下手をすると母親に連絡され、バイトを続けられなくなる可能性もある。だから余程辛いときにしか足を向けないようにしていた。
ベッドで休ませて貰えば確かに体は楽になるが、尊には十分に気をつける必要があった。
「今日は昼練は止めとく?」
「・・・行く。先に行って待ってろ。後で追いかける」
尊は弁当を勢いよく食べ始めた。これぞ育ち盛りの男子中学生というスピードで、あっという間に弁当箱を空にした。
*******
「尊。バッシュ買い換えた方がいいんじゃね?そろそろ替えないと、危ねえよ」
放課後の部活を終えた明和東中学校のバスケ部員たちは、日が暮れてすっかり暗くなった道を、それぞれの家に向かって歩いていた。
途中まで方向が一緒なので、尊は堀田ともう一人の同学年、三木と連れ立っている。
「もうすぐバイト代入るから、そしたら買いに行くよ」
「尊って、またバイトしてんの?」
「たまーに。オヤジさんが来ていい、って言った日だけ。テスト期間は絶対に駄目だって言われるし」
「テスト期間なんて、そんなのバレるもん?」
「学校の年間予定表を渡してあるから」
というより、学校の予定表を提出しないと雇っては貰えない、と言った方が正しい。
尊のバイト先は、小次郎が小学生時代に働いていたおでん屋だった。小次郎が東邦学園に進学した後、尊は日向家を守るという役目とともに、バイト先も引き継いだのだ。
とはいえ、すんなりと支障なく引き継げた訳ではなかった。小学3年生になったばかりの尊が行ったところで、さすがに雇う方も無理だと言った。
その時、尊はすごくがっかりしたことを覚えている。
自分ではやはり代わりにはなれないのかと、『後は頼む』と自分を信じて託してくれた人に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ただ、今となってはそれも当然のことだったと思う。小学3年生といえば、現在の勝と同じ年だ。あの甘ったれと同じ年齢かと思うと、確かに無理があっただろうと、今の尊なら分かる。
そもそも小学生を働かせること自体に問題があるのだ。小次郎には目をつぶった大人たちも、まだ手足も細くて、身長も大人の胸ほどにしか届かない当時の尊には 『大人しく帰りな』 というしか無かった。
それから2年が過ぎて5年生に進級してから、尊は改めて雇って貰えないかと店に出向いて交渉した。店で働き始めた頃の小次郎と同じ年になったことを告げて、同じくらいの、否それ以上の働きができる、と主張した。
おでん屋の主人は口の端に煙草を咥えたまま、『学校の無い日だけ、裏で働け。表に出るときは、お前は俺の親戚の子供で、中学生だ。いいな』 と言って、尊に昔小次郎が使っていたエプロンを投げて寄越した。
そして、『お前はきっと、小次郎よりも強情だな』 と笑った。 『あいつも大概だったけどなぁ』 と付け足すと強面の顔が懐かしそうに緩んだから、尊は店主の言葉に自分と同い年の小次郎を垣間見たような気がして、くすぐったい気持ちになったものだった 。
「店に行ったら、お前もいるの?」
「基本は厨房とか、倉庫とか裏だけ。馴染みの客は兄貴のことも知ってるから話すこともあるけど、それ以外には一応はオヤジさんの甥っ子ってことになってる。・・・くれぐれも学校でバラしたりするなよ」
幸い、今のところ学校関係者が来店した事は無い。尊が恐れているのは、バイト先が無くなるということよりも、店主を始め、周りの大人たちに迷惑がかかることだった。
「しねえよ、そんなこと。でもいいな。俺も高校入ったらすぐにバイト始めようっと」
「その前に受験だな」
「だよなぁ。・・・尊はいいよな。頭いいし。塾に行かないで、しかもバイトしてて、何で勉強できるんだよ」
部活を引退した3年生が、ちょうど高校受験を控えている時期だった。学校で顔を合わせることは滅多になくなったが、堀田や三木は塾で見かけることがある。追い込みの時期となって話しかけるのも躊躇われるような彼らの姿は、丁度一年後の自分たちを思わせた。
「学校のテストなんか、授業を聞いてれば出来るし。基礎が分かってれば、応用も効くだろ」
「いや、できねーし。塾通ったって成績上がんねえのに、これ以上どうしろっつーの。元々の頭の出来が違うんだよ、お前の場合はさ」
溜息をついて愚痴を零す堀田に、尊は「そんなの、俺の知ったことじゃねえし」と一顧だにしない。
「でも俺でよければ教えてやるから、分からなきゃ聞きに来れば?」
「・・・尊!なんて男前!俺が女だったら絶対惚れる!」
「あー・・それキモイわ。やっぱり来んな」
キラキラした瞳で尊を見上げる堀田と、その頭をグイと向こうに押しやる尊のコントめいた遣り取りに三木が笑いながら、「そういえばさ」と切り出した。
「尊。日向さんって、卒業したらどうすんの?やっぱ大学行かないでプロになるんだろ?どこに行くか、決まってんの?」
三木が話題にしたのは、今年で高校を卒業する尊の兄、日向小次郎の進路についてだった。
三木だけでなく、既に色々な人間からこの類の質問を尊は受けている。学校関係、隣近所、バイトで会う大人たち。サッカーに興味があるか、または何らかの形で日向家と関わりのある人間は皆、小次郎の今後が気になるようだった。
小次郎率いる東邦学園高等部のサッカー部がこの三年間に打ち立てた記録の数々に、非の打ち所は無い。インターハイは2回優勝、準優勝が1回。冬の選手権では三連覇だ。それらの輝かしい結果に加えて、小次郎はチームメイトの若島津や反町とともに、見目のよい容姿ゆえにテレビや雑誌で取り上げられることも多く、こと地元の明和では老若男女問わず人気があった。
堀田や三木も同様だった。日向小次郎がどのチームに入って、これから先、どんな活躍を見せてくれるのかと楽しみにしていたのだ。
だが現時点に至るまで、東邦学園サッカー部のエースストライカーがいずれかのチームと契約したというニュースは、どこからも聞こえてこなかった。
「幾つかスカウトの人が家にも来てたけどな。何しろこっちに本人いないから。どうなってんのか俺も知らない。聞いてないし」
「マジで?相談されたりしないの?」
「今のところ、無いな。・・・もしかしたら今夜あたりあるかもしれないけど」
「は?」
尊が何気ない素振りで答えると、二人はきょとん、と間の抜けた表情で振り向いた。日向家の次男坊は、長男とはまた違う整った顔に悪戯めいた笑みを浮かべて、ニッと口角を挙げた。
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