~ 日向兄弟 <尊編> ~ 2
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『たける』
ああ、またいつもの夢だな・・・と尊は思う。
夢だって分かっているなら、いっそ楽しんでしまえ・・・という自分がいる。現実の自分はグズグズと悩んでいるのに、夢の中では随分と即物的だ。
甘く尊の名を呼んで色に濡れた瞳で誘ってくるのは、小次郎であって、小次郎でない。本当の兄はこんな風に自分を呼ぶはずが無い。そもそも、最後に彼に会ったのは何ヶ月前だったか。一年に数えるほどしか言葉を交わすことの無い兄は、こんなにも朱い唇をしていたか。首に絡み付いてくる腕は、指は、こんなにも細くはないだろう。
違うと分かっているから、抗わない。流されてしまえば、イイ気持ちになれる。
『たける。こっち来て』
舌足らずでトロリと蜜を垂らしたような声は、尊の頭を痺れさせ、身体を熱くさせる。小次郎は妖しく微笑みながら、尊の首を引き寄せて口付ける。触れ合う唇は温かくて柔らかい。尊はついばむようなキスを何度も繰り返す。嫌悪も無ければ、罪悪感も無い。
ずっと、こうしたかった。
尊が小次郎の身体をかき抱くと、それは頼りないほどにあっさりと腕の中に納まった。頭の後ろに指を差し入れ、もっと深く、と舌を入れて小次郎のそれと絡めあう。
交えた体液は酷く甘く、尊はいくらでも欲しくなる。
ようやく離れると、小次郎の薄く開いた唇がぬめるように光り、その間から燃えるように赤い色をした舌がチロリと覗く。
何も考えられなくなる。尊は兄にしがみつくようにして、柔らかな体を押し倒す。首筋に顔を埋めて匂いを嗅げば、熟れた果実のような甘ったるい香りがする。咽るようなその香りに息苦しさすら覚えながら、尊は夢の中の行為に没頭していった 。
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目覚めは最悪だった。
「・・・面倒くさ」
時計を見ればまだ朝の5時半だ。だがこのまま寝直す訳にもいかない。尊は汚れた下着を替えるために布団から出て、白い息を吐いた。部屋は冷え切っていた。
もうすぐ母親が起きてくるだろう。その前に洗って洗濯機に放り込んでおかないと、さすがに体裁が悪い。こういったことを教えてくれる人も尊にはいなかったので、自分で考えて自分で対処をしている。
あの人、寮で生活してて、どうしているんだろう。
なるべく物音を立てないようにして片付けてしまうと、自室に戻って尊は数学の問題集を取り出した。寝直すほどの時間は無いのだから、ならば勉強でもしていた方が気が紛れる。どうせ部活の朝練に出るまでの時間なのだから、そのまま起きていることにした。
「お前、だいじょーぶ?目の下に、隈できてんぞ」
「・・・別に。単に、夢見が悪かっただけ」
ここのところ寝不足だったから、昨夜はいつもよりは早く寝たのだ。そうしたらそうしたで、夢のせいで朝まで熟睡できない。いつものように話しかけてくる市川に、尊は眉間を押さえながら無愛想に返答した。
ああいった夢を見るのは初めてではなかった。実の兄を貪り尽くす夢。初めて自分の願望を目の前に引きずり出された時は、さすがに落ち込んだし、これからどんな顔をして兄に会えばいいのかと泣きたくなった。
今だって同じようなものだ。生々しい妄想の記憶は尊を責め続ける。だけどもう、無かったことには出来ない。
夢など見ないで済むには、どうしたらいいのか。これ以上睡眠時間を減らすといっても、部活やアルバイトをしている尊にとっては体力的に厳しいものがあった。
「いやいや、顔色悪いって。保健室行って休んでれば?」
珍しく真面目な顔をして覗き込んでくる市川に、今の自分はそんなに酷い顔をしているのだろうかと思う。
確かに今朝から頭痛もしている。放課後の部活までもつだろうか、どこかで睡眠を取った方がいいのかもしれない。授業は受けなくても尊としては問題ないが、部活は出たい。
「どうせ1時間目は学活だしさ。別にいなくてもいいじゃん」
「んー。・・・まだ大丈夫。もしかしたら後で行くかもしれないけど」
「そう?・・・で、どんな夢だったんだよ。それ」
市川は何気なく聞いてくるが、当然、他人に話して聞かせることなどできる内容ではない。
「起きたら細かいことは忘れた。なんか、子供の頃の夢」
そう誤魔化せば、尊が幼い頃に父親を亡くしていることや、日向家が経済的な面で苦労していることを知っている市川は疑うこともなく、それ以上詮索はしなかった。
「あんま無理すんなよ。お前が病気になったら、大変じゃん。お前んちの場合は」
軽い口調ながら、その声音に心配そうな色を感じて尊は素直にありがたいと思う。
今頃、あの人も同じように、教室で友人に囲まれているのだろうか。
ふとした時に思うのは、彼のことばかり 馬鹿みたいだな、と尊は自嘲めいた笑みを浮かべる。
本当に馬鹿げていると、思う。こんな風に思いを募らせて、どうなるというのか。いつか打ち明けるつもりなのか。どうしたって成就することは無いだろう。
それに尊は決して、女の子に興味が無い訳ではなかった。このクラスを見回したって、それなりに可愛いな、と思える女子はいるのだ。
それが何だって、4つも年上の男で、しかも血の繋がった兄弟なのかと、何度も何度も繰り返してきた問いをまた繰り返す。答えなどありはしない。ただ、好きなのだ。
尊敬すべき、強くて大きな兄。父親が亡くなってからは、持てる力の全てで、必死になって家族を守ってくれた。
小次郎は尊にとって手本であり、指針のようなものだった。子供というのは残酷なもので、家が貧しいことを理由に、尊もからかわれたり苛められたことがある。
だが小次郎が顔を上げて前を見ている限り、尊も俯いたりはしなかった。周り中が敵に感じられた時でも、家族がいれば、兄がいてくれれば平気だった。
一人で立ち向かうことを恐れない小次郎の強靭さと、真っ直ぐで狡さの欠片もない清廉さが、尊は好きだ。こうなりたいと憧れる。彼に相応しい人間になりたいと思う。
その一方で、彼を好きにしたいという欲望が尊を苦しめる。
もう、どうやっても自分を誤魔化せない。どうしたって、兄が、日向小次郎が欲しい 。
傍にいたい。
声を聴きたい。
温もりを感じて、その肌に触れたい。
夢に見るまでもなく、自覚している。
弟じゃなくていい。特別になりたい。
兄の全部を、それこそ爪先から髪の毛一筋まで、すべてを自分のものにしたいのだ。
気がつけばいつの間にか1時間目の授業が始まり、教師が『職場体験学習について』と板書をしていた。尊はますます酷くなってきた頭痛に、こめかみを揉んで目を閉じた。
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