~ 日向兄弟 <尊編> ~




「日向、眠そうだな」

登校して早々に大きなあくびを漏らして机に突っ伏す尊に、クラスメイトの市川が声をかける。尊が億劫そうに顔を上げて黒板の上の時計に視線をやると、始業の鐘が鳴るまでにはあと5分ほどの時間があった。

「・・・昨日あんま眠ってない。・・・ダルイ」

尊がそう答えれば、「何?夜中までゲームでもしてた?俺も今月マズくてさぁ。金、だいぶ使っちゃった」とうっすら笑って市川が尊の顔を覗き込む。

明和東中学校は三学期制をとっている。その最終学期が始まって半月ほどが経っていた。古い校舎の2階、2年4組の教室の窓際一番後ろの席で、尊は机に頬杖をつく。

「お前と一緒にすんな。オレにはそんな暇も金もねーの。バイトだったのよ」
「おー、日向君ちは大変だね。もうすぐとんでもなく稼いでくれそうな兄ちゃんがいんのにね」

人の兄弟を金蔓か何かのように揶揄する悪友に、尊は無言で拳をその脇腹に一発見舞う。イテェ、と言いながらもクスクスと笑う市川を呆れた顔で一瞥したあと、尊もようやく笑みを浮かべた。

「お前はほんと、兄ちゃんが好きだねぇ?」
「かっこよくて優しくて強くて美人だ。これ以上何がある」
「何、それ。小学生かっつーの」
「・・・意地っ張りで負けず嫌いでプライド高いのがさ、ガツンとやられた時の泣いた顔とか、すげぇ可愛いし」

あと困ったときの顔とかも好きだね、と尊が付け加えると、「ブラコンどころの騒ぎじゃねぇな。もはやアレだな。お前の兄弟愛はエロ入ってんな」と市川はまたからかうように笑った。

尊がそれには答えず、視線だけで席に戻るように市川に促すと、丁度担任が教室に入ってくるところだった。いつの間にか鐘が鳴っていたらしい。市川も大人しく尊の3つ前の自分の席につく。細身だが背の高い友人の後姿に向かって、エロくて何が悪い、と尊は内心で呟く。

         俺がエロいとしても、そうさせてんのはあっちだし。

あっち          とは、兄、小次郎のことだ。

日向小次郎は、東邦学園高等部で特待生として部活動に勤しんでいる。毎日がサッカー漬けの忙しい高校生だ。
中等部から東邦学園に入学しており、自宅から離れている学校に通うのは難しく、寮に入るしかなかった。尊が小学3年生に上がるときの話だ。
父親が早くに亡くなった日向家において、アルバイトをして家計を助けつつ、妹と弟の面倒をみて家事も手伝う長兄は、ある意味完璧な存在だった。
尊は小次郎に感謝しているし、尊敬もしている。兄と自分との年齢差は4つだが、今となってはたったそれだけと思える差も幼い頃には大きく、絶対的な隔たりだった。

だから小次郎と尊は、普通の兄弟がするような、くだらない喧嘩をしたことがない。尊が反発するような隙も、小次郎は与えたことが無かった。
そのまま尊は8才まで育ち、その状況は何ら変わることなく、別れの春を迎えた。

もし、兄が          日向小次郎があの頃、手の届かないところに行ってしまうのでなく、あのまま狭い家で一緒に過ごすことができていたのなら        と尊は時々思う。
自分が兄に対して特別な感情を抱くことなど、もしかしたら無かったのではないか、と。

伸びすぎた前髪をかき上げて、尊は窓の外に首を巡らせた。教室に入り込む陽射しが眩しくて、寝不足でしょぼつく目を眇める。
中学校の校舎は高台にあり、いつまで経っても変わり映えしない明和の町が一望できた。日の光を反射して鈍く光る灰色の家々の屋根。木々は、葉を落として細い骨のような枝を晒している。色彩に乏しいこの景色が、尊はあまり好きではなかった。

         兄貴がいた頃は、そんなことなかったのに、ね。

新興住宅地が幾つかできたものの、町並み自体はあの頃と大して変わっていない。景観を遮るような高い建物もなく、昔ながらの公園や緑地が残されている、田舎の町だ。それでも、あの頃の景色とは決定的に違うのだ。たった一人がいないだけで、世界は変わる。変わってしまう。

         あの頃は、さ。 楽しかったよね。

あの頃         幼い頃の、宝物のような思い出。彼といれば、目に入るもの全てが、ひたすら美しかった日々。

あの日も、尊はいつものように兄の大きな背中を追って走っていた。走って走って、ようやく兄が立ち止まって追いついた時には、息が上がって苦しかったのを覚えている。

『尊!ホラ、見てみろ!』

興奮した声に促されて見上げれば、子供が二人手をつないでも一周できないほどに太い幹をした、巨木の真下にいた。四方に伸びた枝が鮮やかな緑の若葉を芽吹かせている。木漏れ日がキラキラと輝いて二人に降り注ぐ。兄は光のシャワーを浴びながら、その下でクルクルと回る。子供特有の甲高い声で笑いながら、目が回ってふらふらになるまで回り続ける。尊も真似をして回る。楽しくてケラケラと笑う。光とともに、初夏の新緑の匂いも降りてくる。先に倒れこんだ小次郎の上に重なるように崩れると、草や土の匂いに混じって汗が香る。尊は小次郎の首筋に鼻先を埋めて匂いを嗅ぐ。小次郎はくすぐったがって、また笑う        

尊はそんな世界が続くのだと思っていた。母の手伝いをし、妹と弟の面倒を見て、兄に可愛がって貰い、いずれは自分も家族のために外で働くのだと想像していた。
守られて庇われるだけでなく、ずっと兄の傍にいられるように、横に並び立つことができるように、精一杯頑張るのだと心に決めていた。

だがその機会はあっさりと、兄をスカウトした学園の存在によって失われたのだ。
兄弟として共に過ごすはずだった時間は奪われ、二度と戻っては来ない。

そのことを考えると、尊はやり切れなさを感じる。離れることなど、望む筈が無かった。
それでも、『行かないで欲しい』とは一度も言葉にしなかった。尊は8才だったが、何を言うべきか、何を言ってはいけないのかを、子供ながらに理解していた。
小次郎自身が寂しくて、それでいて強がっていることも分かっていた。笑って送り出す以外に、何が出来ただろう。

兄弟としてやるべきことを、ちゃんとやって来なかった。幾つか大事な工程をすっ飛ばしてしまったような気がする。だから、自分は弟としては不出来なのだと、尊は思う。
ブラコンを通り越すほどの執着があっても、仕方がないじゃないか、と。だって自分は出来損ないの弟なのだから。


小次郎に関しても、どうせなら不出来な兄であってくれればいいと、そう願う。


少なくとも自分にとっては、普通の兄弟になんて、今更なれる筈もないのだから         。






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