~ 日向兄弟 <勝編> ~ 3
土曜日の朝、母ちゃんは俺と姉ちゃんが小学校に行くのと同じ時間に家を出て行った。いつもと同じ、工場の制服を入れてパンパンに膨らんだカバンを持って。
「じゃあね。今日は本当にごめんね、直子。勝。・・・この次はちゃんと見に行くからね」
母ちゃんは俺と姉ちゃんに手を合わせて、「ゴメン」のポーズをしてから学校とは反対方向に走っていった。
姉ちゃんは俺に 『いつまでもむくれてないでよ』 みたいな目を向けてきたので、俺も 『分かってるよ』 と何も言わずに返した。
教室に入ると、まだ誰の親も来ていなかった。朝の会が終わって、1時間目が始まるころにパラパラと来て、2時間目が始まる頃には後ろにズラ~っと並ぶ。
土曜参観は4時間目までやっているから、親たちは好きな時間に来て、一つ二つを見て帰る。
ドアの外には出席簿が置いてあって、参観した授業のところに○をつけるようになっている。これを見れば、誰の親がどの時間に参観に来ていたのか、一目で分かるようになっている。
なんのために、この出席簿が必要なんだろう、とも思う。
先生が必要だっていうなら、先生だけが後で見れるようにすればいいじゃん。
だって、必ずいるんだ。
そういうのをチェックして、「お前の親、まだ来てないぞー」とかわざわざ言いに来る奴。
特にクラスで一番騒がしくて先生に怒られてばかりの佐藤なんか、何かっていうと俺にちょっかいだしてくるんだ。小馬鹿にしたように。しかも先生のいないところで。
そうこうしているうちに誰かの親が一人、二人とやってきて、先生も授業を始めた。
1時間目は国語の時間だ。
教科書を開いて、ちゃんと先生の言うことも聞いていたけれど、先生が何かを質問しても、手を上げて発言する気にはなれなかった。
だって、どうせなら親が見に来ているヤツが答えた方がいいに決まっているし。
俺ってば、やる気ないオーラが思いっきり出ていたかもしれない。はあ・・って溜息をついた。
そんな時、前の方に座っているのに、さっきから教室の後ろをチラチラと振り返っては先生に注意されている佐藤が、「アレ、誰の親?」って隣の席の花音ちゃんに聞いた。
花音ちゃんもコッソリと振り返って、さあ?というように首を傾げた。花音ちゃんは、すごく明るくて可愛い女の子で、なんていうか・・・・男子にも女子にもモテモテだ。
花音ちゃんは前を向いたけれど、後ろが気になるらしくて、またチラっと振り返った。気のせいか、花音ちゃんの目がキラキラしているように見えた。
何だろう、と思って、俺もつられて振り向く。
その時、冗談じゃなくて体がビクン、って飛び跳ねた。
だって。
だって、いる筈のない人がいるんだから!
教室の奥、窓際に立っていたのは、小次郎兄ちゃんだった。
佐藤は「誰の親」って言ったけれど、他の誰の親よりも全然若いのは、見てすぐに分かる。
背が高くてスラっとしていて、頭なんかちっちゃくて、そして、誰よりもかっこよかった。
普段着じゃなくて、兄ちゃんはきちんとスーツを着て、ネクタイまでしてきてくれていた。すごく似合っていて、無茶苦茶かっこよかった。
教室の後ろに並んだ、誰のお父さんたちよりも、目立っていた。
小次郎兄ちゃんは俺と目が合うと、にっこりと笑いかけてくる。
どうして?どうして?どうして???
俺の頭の中は?マークがグルグルグルグルしているのに、兄ちゃんはといえば、兄ちゃんの前を横切った誰かのお母さんに会釈なんかして、涼しげに立っている。
俺は声を出さずに、「どうして、ここに、いるの?」と兄ちゃんに聞く。
すると兄ちゃんは少し顔をしかめて、何か口パクでしゃべってくる。
・・・『あえおうえ』?
分からなくて、「なに?なあに?」って聞き返すと、また『あえおうえ』。
また「なに?なんて言っているの?」って声を出さずに聞いて、また『あえおうえ』の繰り返し。
小次郎兄ちゃんが『前を向け』って言っていたんだって分かった時には、
「日向くーん。前、向きましょうね!」
と、先生に注意されてしまった。
慌てて黒板の方を向いたけれど、どうして小次郎兄ちゃんがここにいるのかやっぱり分からなくて、まだドキドキしている。
きっと、顔も赤くなっているに違いない。なんだか、恥ずかしいような嬉しいような。
後ろを向きたいような、でも目が合うと困っちゃうような。
めったに会えない兄ちゃんが、来てくれた。
俺のために。授業参観のために。
先生が「じゃあ、この漢字。書き順分かる人ー。昨日、習ったよね?」って、質問する。
俺はクラスの中の誰よりも、真っ先に手を上げた。
腕が耳につくくらい、まっすぐにピンと上げて。
「はい!」って、誰よりも大きな声で返事をして。
「兄ちゃん!」
1時間目が終わって、廊下に出た小次郎兄ちゃんを俺はすぐに追いかけた。
「小次郎兄ちゃんっっ」
「勝。ちゃんと発言してたな。えらかったぞ」
「あのねっ、あの・・・来てくれて、ありがとうっ」
どうして?とか、ビックリしたよ、とか。言いたいことは山ほどあったけれど、やっぱり一番言いたいのは、 『ありがとう』 だった。
兄ちゃんはしゃがんで俺の顔に目線を合わせると、いつもの優しい笑顔で、ふんわりと笑った。
「ごめんな。勝。兄ちゃん、昼までには戻らないといけねえんだ。だから、次の授業は見れない。直子の方にも行きたいしな」
「・・・うん。いいよ。1時間目だけでいいよ。嬉しいよ」
「本当にえらかったぞ。いっぱい手を上げて、ちゃんと答えて。・・・ちょっと、後ろを向きすぎたけどな」
兄ちゃんは俺の頭を撫でて、クスリと笑う。
みんながいるところで子供扱いされるのはちょっと恥ずかしかったけれど、でも、俺は黙って撫でられていた。
だって、嬉しかったんだ。本当に。
「おっと。もう行かなくちゃな。直子の教室はどこだ?」
俺は兄ちゃんに、姉ちゃんの教室の場所を教えてあげた。姉ちゃんもきっと、小次郎兄ちゃんが来るなんて知らない筈だ。きっとすごく驚くんだろう。
姉ちゃんのビックリ顔を想像すると、少しおかしかった。
「じゃあな、勝。次の授業も頑張れよ」
「うん。ありがとー!」
階段を上っていく兄ちゃんを見えなくなるまで見送って、俺も教室に入った。
花音ちゃんが俺のところに来て、「今の人、日向くんのお兄ちゃんなの?」と聞いてくる。
「うん。・・・すごく、ハンサムでかっこいいでしょ?サッカー選手なんだ」
「そうだね、すごくカッコイイね。・・・でも、ハンサムっていうより・・・」
花音ちゃんは、どこか遠くをみつめるような目をして、ウットリと言った。
「美人って言うのよ。ああいう人・・・」
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