~ 12才 ・ 寒椿の咲く頃 ~2








「ふう・・・」

身体を洗い湯船に浸かって、すっかりリラックスした健は大きく息を吐く。
外で冷え切った体も、美味しい御飯を食べて風呂を借りて、四肢の先まで温まった。何より、心がほっこりと温かい。日向の家は家族全員が仲良く、互いを思いやっている。尊も直子も勝も可愛いし、一緒に過ごしていて癒される。自分にもあんな弟や妹がいればいいのにな・・・と健は本気で思った。

     いや、弟は駄目か。あの家じゃ可哀想だもんな。どうせなら妹がいいよな・・・・)

健はそもそも自分が家を飛び出す原因となった出来事を思い出して、不快感に眉を顰めた。せっかく持ち直していた気分がまた落ちていく。「・・・ほんっと、胸クソ悪イな」と、脳裏に浮かんだ人物を相手に、普段使わないような言葉で罵った。

(日向のとこはお父さんがいないけれど、こうして家族で助け合ってやっている。・・・それに比べて、俺の家は)

父親がいないことで小次郎たち一家が苦労していることは、近くで見ているのだから知っている。それでも今の健には、『親なんて、いればいいってもんじゃない』という気持ちが拭いがたくあった。

「・・・クソ親父が何を言ったところで、俺は絶対に東邦に行くけど」

自分がサッカーをやることに父親が反対しているのは、分かっているつもりだった。東邦学園への進学を承諾していないことも。
だが、自分の空手に対する父親の執着は予想以上だった。

(まさか、あんなことまで言いだすなんて・・・・)

自分の親ながら最低だと思った。父親だからこそ許せないと感じた。
彼らにとって都合のよいだけの駒にはなるまい、どれだけ抑えつけられようとも自分の道は自分で選ぶ      健の決意は、反対されればされるほどに、より固くなっている。

それに東邦に進むことは、小次郎に約束してきたことでもあった。『お前と一緒にサッカーをする』と、健はこれまでに何度も小次郎に宣言をして、小次郎もそのことを信じてきてくれた。だからどんな理由があるにせよ、それを翻すことは出来ない。
自分は東邦学園に入学して、小次郎と一緒にサッカーで全国優勝をする       健が見据えているのは、優勝旗を掲げる自分たちの未来だけだ。


だが、その前に。

(・・・あいつの方も、問題か     

健は目を閉じて、この家の長男であり、自分の親友でもある小次郎のことを想った。

あの夜。小次郎が健の家に泊まることになった夜。
あの日のことは、普段はなるべく頭から追い出して、忘れたふりをして過ごしている。それが小次郎のためだと、健自身が思っているからだ。

だが、ふとした拍子に思い出すこともあった。振り払っても振り払っても、悪夢のようにあの夜の深い闇が眼前によみがえる。そんな時間は健にとっても辛く、重たいものだった。

だがそれを言えば、小次郎にとっては尚更だろう。
なのにあの時以来、健は小次郎が泣いているのを見たことが無かった。あの夜だけだった。小次郎が健に涙を見せたのは、圧倒的な恐怖に押し潰されそうになった、あの一夜だけ。

(ほんとあいつ、強いよな・・・。すごく強い。でも、そんなあいつでも)

さきほど日向家の母が『どうせだから、小次郎も若島津くんと一緒にお風呂に入っちゃえば?』と言った時に、明らかに小次郎は動揺した。母親の方は気が付かなかったようだが、健には分かった。

    俺は後でいいよ。勝と直子を入れてやらなくちいけねえし。
    そう?お母さんがあの子たちを入れるから、小次郎は先に一緒に入ってもいいよ?
    いや、いい。・・・お前も一人で大丈夫だよな?若島津。

そう言われたら、否とは言えないだろうが        喉まで出掛かったが、結局は言わなかった。
別に小次郎と一緒に風呂に入りたい訳じゃ無かった。むしろ健だって誰かと一緒に入るよりは、一人の方が良かった。
だが小次郎の『一緒に入りたくない理由』は、また別のものだろう。

(・・・あいつ、これから大丈夫なのかな)

3月の卒業式が終われば、東邦学園の寮に入るのだと聞いている。自分相手にあんな反応を示すくらいなのだから・・・と健は心配する。寮に入れば大勢で風呂に入ることになるだろうし、同室になった人間とは四六時中一緒に過ごすことになる。それが今の小次郎にとって、耐えられることなのか。

「・・・・・」

健は、手のひらにお湯を掬って、バシャリと顔にかけた。
今、東邦学園に受かってもいない自分が心配しても仕方が無い       そう思うことにした。とにかく受験に合格しなければ。
でなければ、東邦に進学させてくれという交渉も出来ない。スポーツ特待生として入学する友人を支えることも出来ない。

「あー・・・。俺、絶対に受からなくちゃな・・・」

温かく湿った湯気が充満する浴室に、健のポソリとした呟きが響いた。










「健ちゃん、お休みなさい」
「健兄ちゃん、お休みなさい」

パジャマを着た直子と尊が、並んでおやすみの挨拶をするのを、健は新鮮な気持ちで眺めた。気恥ずかしさと微笑ましさで、自然と笑顔になる。

「二人とも、おやすみ」
「布団に入ったら、ちゃんとすぐに寝るんだぞ。特に尊。今日は直子と一緒だから、すぐに電気を消してな。本を読むのは無しだぞ」
「うん、分かった。お休み、兄ちゃん」
「おやすみ」

尊はいつもなら小次郎と同じ部屋で就寝するが、今夜は健が泊まるからと、母親や直子と一緒の部屋で寝ることになった。いつもとは違う『お客様』がいる状況に、当然直子も尊も「兄ちゃんたちと一緒の部屋がいい」と主張したが、さすがに健に何かがあって家に来たのだろうと察していた母親が、それを許さなかった。

「今日は尊と直子は母ちゃんと一緒。また次に泊まりに来てくれたとき、一緒の部屋で寝て貰いなさい」
「・・・はあい」

母親や普段は優しいが、一旦彼女が決めたならば、それは日向家においては絶対だった。何故なら、長男である小次郎がそうであるべきとしているからだ。小次郎自身が、滅多なことでは母親に逆らったりしない。

「じゃあ、母ちゃん。俺たちも寝るから」
「うん。お休み」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい。・・・今日はありがとうございました」

健が礼儀正しく頭を下げると、小次郎の母親はにっこりと笑って「ぐっすり眠りなさいね」と言ってくれた。








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