~ 強面天使と悪魔な俺 2~ 3
道場から離れているとは言っても、同じ敷地内である。激しい稽古が行われているのか、時折風に乗って組み合う人間の声や、何かがぶつかったり倒れたりするような音が聞こえてきた。
(あの中に、健も )
小次郎は律に言われたとおり、翌日もその翌日も、同じ時間帯に若島津家を訪れた。健に見つかる訳には行かないので、誰にも知られないようにこっそりと奥庭まで潜り込む。こんな風にこの家に入りこむのは、生まれて初めてのことだ。後ろめたさに胸が痛む。
それでも少しの間だけでも、律と話すのは予想外に小次郎にとって楽しいことだった。夜になれば健が会いに来てくれていたけれど、未だ小次郎自身は若島津家への出入り禁止は解かれていない。
昼間は健に会えないのであれば、小次郎には家族以外に他に話し相手などいなかった。
律は健と小次郎よりも一つ年上で、律の家も他県で若堂流の空手道場を開いているのだと小次郎に教えてくれた。幼い頃はもっとお互いの家に行き来があって、健が律の家に泊まることもあったのだとも。
律は話し上手で、小次郎の知らない健のことを沢山知っていた。赤ん坊の時からいつも一緒で、健のことなら知らないことなど何も無いと思っていたけれど、そうではなかったことに小次郎は素直に驚いた。
「でさ、うちの犬は外じゃなくて家の中で飼っているからさ、犬を閉じ込めない限りは健には逃げ場が無い訳。で犬の方はあいつのことを自分より下だと思ってナメていたから、あいつの物は取るし、服は噛んで引っ張るし、終いにはあいつも半べそかいててさ。でもそれでも『犬に慣れなきゃいけないから』とかって、閉じ込めないでいいって言うんだよ。まだ小学生にもなっていなかったくせに。何をあんなに強情張っていたのか、アレは今でも謎なんだよな」
「健が犬が苦手だなんて、知らなかった・・・。だって、俺の前ではいつも平気な顔をして追っ払っていたんだ。小さな頃から。ちっとも怖そうじゃなかった」
「追っ払う?」
「あ、いや、えーと。こっちに向かってきたら」
小次郎にとって健は何一つ足りないところの無い少年だが、律にとってはそうでもなく、普通の少年らしいところもある従弟であるようだ。律がしてくれる健の話は、小次郎には新鮮だった。もっと話して欲しい、と強請ると、律は嬉しそうに笑って次から次へと話してくれた。
だから二人は気が付かなかった。
二人で仲良く話し込んでいるそのすぐ後ろに、真っ黒な、それこそ闇のような負のオーラをまとった健が立っていたことを 。
「なに、してるの」
ふいに声がして、小次郎はギクリと固まった。
ギギ、と音がしそうなほどにぎこちなく振り向くと、そこには一切の表情をそぎ落とした健がいた。健の視線はまっすぐに小次郎に向けられていて、小次郎は逸らすこともできない。
「おれ、こないでっていったよね?どうして日向さんがここにいるの?」
二人きりや、家族しかいない時に使われる『小次郎ちゃん』ではなく、『日向さん』と呼ばれて、小次郎の身体がビクンと震える。それに気が付いた律は、健を咎めた。
「突然出てきて、小次郎を驚かせるんじゃねえよ。大体、来るなって何だよ。俺はずっと小次郎を紹介しろって言ってきただろ」
「・・・こじろう?」
律が小次郎を名前呼びしていることに反応して、健の怒りの矛先が今度は律に向く。
「誰が小次郎って、呼び捨てにしていいって言った?」
「そんなものにお前の許可がいるのかよ。小次郎がいいって言ったならいいだろ」
「・・・健」
実際には呼び捨てにしていいとも悪いとも小次郎は言っていないし、最初から律は『小次郎』と話しかけてきていたのだけれど。だけど、そのことの何が健を怒らせているか、小次郎には分からない。
「ごめん、健。ごめんね。来ちゃいけないって言われていたけれど、俺、律と友達になったから」
「律って、言わないで!」
「・・・・健!」
「俺以外の奴を、そんな風に呼んだりしないで!」
「健!どうして!?どうして駄目なの!?」
珍しく激昂している健を前に、小次郎はどうしていいか分からない。こんな健は初めてで、健のことを聞きたくて律と会っていただけなのに、それほどに自分は健のことが大好きなのに、こんな風に詰られてこのまま嫌われてしまうのかと思うと涙が浮かぶ。
切羽詰ったような年下の少年二人を見て、律はため息をついた。
「健。お前おかしいだろ。小次郎がいいって言ってんだから自由にしてやれよ。この家にだって好きな時に来ていいだろ。何がいけないんだよ。俺がいるからか」
「・・・律には関係ない。日向さんに関わることは、今までもこれからも、一切合切お前には関係ない」
「・・・あー。腹立つわ、お前のその態度。・・・やるか。久しぶりに道場以外で」
「じゃあ俺に負けたら、二度とその人に近づくな」
「え?や、止めろよ。健?律!?」
慌てたのは小次郎だった。従兄弟同士の二人がいきなり構えて、組み始めるというのだ。しかも道場ではなく、屋外のこんな場所で。
「健!律!止めろって!」
小次郎が必死に二人を止めようとするが、健も律も聞く耳は持たない。
先に仕掛けたのは健の方だった。
体全体でリズムを取りながら間合いとタイミングを図り、律の上段へ突きを入れる。それを律は上手く受けながら今度は攻撃へと転じる。試合ではないから突きや蹴りが決まったとしても、誰かが止める訳ではない。どちらかが降りない限りは、闘いは終わらないのだ。
「止めろってば!!健ッ!」
小次郎は半ば泣きながら健に止めてくれと訴える。だけどもう、二人には小次郎の声なんか聞こえていないのかもしれなかった。
(どうしよう!どうしよう・・・!誰か、誰か呼んでこなくちゃ !)
こんなのはただの喧嘩だ。道場にいる誰かに知らせれば、健も律も叱られるのかもしれなかった。だけど小次郎には、このまま放っておくこともできない。そもそも小次郎は格闘技を見るのもするのも苦手なのだ。
隣に空手道場があるのだし、空手を習えば小次郎の性格も変わるのではないか そう考えて小次郎の母が通わせようとしたことがある。だが体験期間を過ぎても、小次郎にはどうしても馴染めなかった。健に相談したら、「小次郎ちゃんには向いてないよ。小次郎ちゃんのことは俺が守るんだから、好きなことをやらせてあげて」と健が家族の前で言ってくれて、そのおかげで小次郎はその時分に興味のあったサッカークラブに入ることができたという経緯がある。
「・・・ッ!」
ガツッと肉に覆われた骨と骨のぶつかる音がした。その瞬間、小次郎は目を瞑って身体を固くした。
誰かを呼んでこなくちゃ、でも誰を !?と逡巡しているうちも、攻防は続いている。実力が拮抗しているのだ。どちらが勝っても不思議ではないが、どちらが勝つにせよ怪我はして欲しくない。
いや、正直なところを言えば、やはり小次郎は健に負けて欲しくはなかった。
「健っ、あぶな・・・!」
動いたのは考えてのことではなかった。咄嗟に身体が反応してしまった。しまったと思っても、小次郎にももうどうしようもない。
律の繰り出した回し蹴りは、標的にした筈の健ではなく、その間に突如として割りこんできた小次郎に向かっていた。
「・・・小次郎ちゃんッ!」
「馬鹿・・・ッ!!」
小次郎が飛び込んできた瞬間、健には何が起きたのか理解できなかった。ただ目の前に自分を庇うように小次郎の身体があって、その向こうに既に見切っていた筈の律の蹴りが迫っている。
回し蹴りは威力があるが、その分動作が大きく察しやすい。律の技も健は読めていたから、当然防御できるつもりでいた。
上背も体重も律の方があるが、実力的には大差ないのだ。寧ろ身体のしなやかさやスピードは健の方が上だ。この一戦にしたって、律から一発でも深く貰えばダメージが大きいのは確かだが、勝算が無い訳ではなかった。
だが、何を思ったか小次郎が健を庇うように間に入ってきた。そのことに気付いたとしても、律が健に向けて振り上げた足は止められない。このままだと小次郎に当たる・・・と律が目を瞠った瞬間、健が小次郎を抱え込んで反転した。
受け身も取れない体勢で小次郎に被さる健の背に、律の渾身の蹴りが入る。一瞬呼吸が止まるほどの衝撃に声も出せずに倒れこみながらも、小次郎だけは守らなくてはと、健はただ一人の大事な人を腕の中に閉じ込めて離さなかった。
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