~ Level5の関係性 ~2
日向が雨宮を見かけるようになったのは、春に桜が散り始める頃のことだった。
雨宮はサッカー部が練習しているグラウンドに度々やってきては、観覧用に設けられたベンチに座って練習風景を眺めていた。ただ座っているだけのこともあったけれど、大概は何かを書きつけているように見えた。
最初は日向も雨宮のことを知らなかった。だが東邦学園の制服を着ている以上は外部の人間ではないのだからと、特にそこにいても気にすることはなかった。もしかしたらマネージャ志望の生徒が見学に来ているのか、と思っていたくらいだ。
それが違うと分かったのは、それから2~3週間が経ってからだ。
部活の練習を終えたある日のこと、1年生である日向達が片づけを終えて部室に戻ろうとしたところ、既に着替えて外に出てきていた部長の一条に呼ばれた。
「日向!若島津!ちょっとこっち来い」
何ごとかと駆け足で向かうと、一条の他に、眼鏡をかけた見知らぬ上級生 襟につけた校章の色から三年生と分かった と、最近よく観覧席に座ってサッカー部の練習を眺めていた小柄な少年がいた。それが雨宮だった。
「一条。雨宮は若島津くんにお願いしたいのであって、日向くんは別に・・・」
「悪いけどな。ウチでは若島津に関することは日向の了解無しには通らねえんだよ」
眼鏡の上級生がさも意外なことを聞いたかのように目を大きく瞬きさせ、それから肩をすくめた。その隣でもう一人の訪問者である少年は、クスリと小さく笑う。
日向はその笑う気配に、少年の方を見た。目が合うとにっこりと微笑まれたが、愛想笑いなどできない日向はじっと見つめ返すことしかできない。
「日向、若島津。こっちは美術部の部長の葉山。でこっちは同じ美術部の一年生で・・・」
なんだったっけ、と顎をしゃくって自己紹介を促すサッカー部の部長に、名前を忘れられた少年は気分を害した様子もなく、またクスクスと笑って「雨宮です」と後を継いだ。
「うちの雨宮がね、ここ最近サッカー部の練習を見学させて貰ったり、スケッチさせて貰ったりしていたんだけれど」
葉山が雨宮の肩に手を置いて前置きすると、雨宮はその顔から笑みを消して真面目な表情に変わって口を開く。
「あの、若島津くん。僕たち、これから学祭用の制作を始めるんだけど・・・ぜひ僕に君の絵を描かせて欲しいんだ。別に絵のためにモデルをしてくれって言うんじゃなくて、普段どおりに練習しているところを描かせて貰えればそれでいいんだけど」
日向はその話に、へえ、と興味を引かれた。
新聞部や写真部が取材や撮影に来ることはあるけれど、美術部というのは初めてだった。
静止している訳でもない対象を、どうやって絵にしていくのだろう。それを見極めるために雨宮はしょっちゅうやって来ては、サッカー部の練習を眺めていたのだろうか。
若島津を描いたなら、どういう風になるのだろう 日向は想像する。
超高校級と謳われる気迫溢れるプレイや、年上相手でも檄を飛ばす勇ましさ。時に相手ゴール近くまで攻め込んでいく大胆不適なところ。その気概。
そういったものを、本当に表すことができるのだろうか。あるがままの一瞬を切り取る写真とは違って、そこには描き手の主観がだいぶ入るのだろうから、若島津本人とかけ離れていても不思議ではないけれど。
けれど、それでも日向は見てみたいと思った。他人の目に映る若島津の姿を。それが自分が知っている彼とどう違っているのかを。
「若島津。これまでは練習のためのスケッチで、対象も特定しないというから俺が代表で許可していた。だがこうなると話は別だ。お前が嫌なら断っていい。勿論、日向が駄目だと言うなら、その場合もこの話はナシだ。どうだ?」
一条に問われた若島津は思案するように顎に手を当てている。熟考しているのか、その目は値踏みするかのように雨宮に焦点が当てられていた。若島津にしては珍しく無遠慮なほどの視線をぶつけているので、日向は一体どうしたのかと訝ったほどだ。
「・・・正直言って、俺を絵にしたい、って言われてもピンと来ないんだけど。日向さんはどう思う?」
「俺?俺は別に・・・。そのためにお前の時間を取られるようなら練習にも支障が出るから困るけど。そうじゃないなら、好きにすればいいし・・・ちょっと、見てみたい気もする。お前の絵」
練習の邪魔にさえならないのなら、日向としては反対する理由は無い。だからついでに本音も添えて答えた。
その言葉に雨宮は嬉しそうに目をきらめかせ、日向に微笑みかける。
「サッカーの練習を邪魔したりしないよ!協力して貰えると嬉しい。・・・本当に、絵のためにわざわざ何かして貰うことは無いんだ。止まってポーズを取っている若島津君じゃなくて、動いている君を描きたいんだから。練習を見させて貰っていて、君の動きがすごく・・・その、特別に綺麗だと思ったんだ。動作の一つ一つが途切れることなく、流れるように移っていくでしょう?他の人の動きと全く違う。無駄が無くて効率的で、そして美しい。サッカーを見て、美しいと感じたのは初めてなんだよ。だから、どうしても描いてみたくなったんだ。・・・迷惑をかけるようなことは絶対にしないよ!」
思いの丈をぶつけて興奮したのか、雨宮は頬を紅潮させて若島津のことを見上げている。その表情は若島津に心酔しているということを隠そうともしていなかったし、実際に今の雨宮には他の誰のことも目に入っていないようだった。
その熱の入れようには多少驚いたが、それだけ若島津の絵が描きたいのだろう、と日向は理解した。それに、雨宮の言っていることも分かるような気がする。
若島津の動きは空手で培ったものだ。空手の突きや蹴りは、相手よりも先に到達しなければ意味が無い。だから直線的で効率のよい動きになる。構えは違うけれど、ボクシングのストレートと同じだ。だけど受け身や次の攻撃に移る時の動きは滑らかで流れがあり、しかも素早い。
明和に居た頃、日向は幾度か若島津の空手の練習を見学させて貰ったことがある。確かに若島津の空手は美しかった。型で見せる力強く流麗な動きもそうだし、組手での体さばきといい、攻撃に移るときの速さと間合いの詰め方といい、道場にいる他の同年代と比べても格段に優れていた。
素人の日向ですらそう感じるくらいに特別ではあったけれど、そうは言っても雨宮は空手をしている若島津を見たことはないのだ。それにも関わらず、この短い期間でそういった特性を見てとった雨宮の観察眼には素直に感心していい筈だ。日向はやはり若島津の絵を見てみたいと思った。
「・・・あの、どう・・・かな。駄目、かな」
日向には後押しされたけれど、肝心の本人から未だ色よい返事が無いことに、雨宮の声が自然と小さなものになる。
「・・・いや。・・うん、そうだな。部長や日向さんがいいなら、俺も別にいいよ。どうせならカッコよく描いてくれれば嬉しいし」
逡巡ののちに若島津が了承すると、雨宮の表情がパっと華やいで明るくなった。
「ありがとう!実はもう他のモチーフなんて考えてなかったから、すごく助かる。僕史上、いい絵にするから期待してて!」
「ああ。よろしく」
雨宮から握手を求められ、若島津もその手を握り返した。おざなりの握手ではなく、しっかりと力を籠めてギュ、と握りこむ。
日向は違和感を感じた。
(・・・あれ?)
普段の若島津なら有り得ないことだった。初対面の人間と握手をしているだなんて。
いわゆる潔癖症をもつ若島津は、サッカー部の仲間ですら不用意に近づかせないほどで、握手だってよほど立場的に断れない相手じゃ無ければ、やんわりと誤魔化すなり、逃げるなりしている筈だった。これまでのところは。
だが今、若島津は日向の目の前でしっかりと雨宮と握手を交わしている。雨宮など両手を重ねているくらいだ。これまでに何度も見た、指先だけ触れさせるようなものとは全く違う。
日向は首を傾げた。どうして平気なんだろう。
もしかして、度を超した潔癖症が緩和されてきたのだろうか。そうだとすれば、一年以上にわたる日向との『練習』の成果が出てきたということかもしれない。
日向には想像することしかできないが、他人に触れることも触れられることもできないというのは、とても苦しいことだろう。それが少しでも良くなるなら・・・と日向も思ったから、若島津の好きなようにさせてきたし、とても他人には言えないような行為であっても甘んじて受けてきた。
そうまでして行ってきた『練習』が役に立っているのなら、喜ばしいことだ。自分にとっても、若島津にとっても。
(そっか・・・。ちゃんと効果あったんだ)
そう思えば、ある意味達成感を感じていい筈だった。もっと喜んでもいい筈だった。
なのに不可解なことに、日向にはあまり嬉しいとか、これで良かったというような感慨が無い。
(ああ、まだ・・・治ったって訳じゃねえもんな)
日向は自分の気分が浮かないのを、そう結論づけた。まだ若島津の症状が無くなった訳ではないのだから、と。
だが一人思い煩う日向を他所に、若島津と雨宮はこれからの予定や作品の構想を楽しそうに話している。知り合ったばかりだというのに二人は気が合うようで、その距離は近かった。日向は昔、若島津が説明してくれた『パーソナルスペース』の話を思い出す。
どう見ても目の前のそれは、通常、若島津が初対面の人間に許す距離感では無い。そう思うと、日向の胸がチクリと痛んだ。
(・・・?)
それはほんの少しの微かな痛みだったので、日向は気が付かないフリをして流してしまったけれど。
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