思い出の標津線


廃止路線の中でも特別な思いがあります
 

1985年〜1989年(廃止)撮影

 

道東の厚床から出て、途中中標津で標茶方面とオホーツク海側の根室標津方面に分かれて走っていた、T字型の路線でした。本来は標茶〜根室標津が「標津線本線」で中標津から厚床は支線扱いでした。
ただ私は道東の小さな町の中標津が大好きで、何回も行き、夜の最終まで駅撮りしたものです。また途中の上武佐駅は、映画「遥かなる山の呼び声」のロケ地にもなり、そこで夕方暗くなるまで撮っていたことも、今では遠い思い出です。
春夏秋冬、素晴らしい高原地帯を走る列車の光景を今でも思い出します。たくさん撮ったのですが、あまり良く撮れていないのも多く、ここでは想いの残っている写真を選んでみました。
 
 
  
 

 
もう暗くなった駅から、厚床行の最終列車が発車します。ホームは暗いので、ストロボを焚いています。19時過ぎでもう最終です。 中標津
 
 
 

 
 
 

厚床行最終列車358レの発車です。駅の南側は留置線が何本かあり、真っ暗でした。駅長さんが指さし確認しています。
 

 
 
 
 
 

 
中標津町は道東でもちょっとした町で空港もあります。沿線の町から遊びに来た若者たちはこの最終で家路に就きます。
停まっている列車は根室標津行の最終列車です。 この女性は3番線の厚床行最終に乗るため跨線橋を走っていきました。
 
 
 
 
 
 

 
雪解けの早春の根室標津駅手前に架かるポー川の鉄橋を渡る単行列車です。駅側には大きな標津川がオホーツク海に流れ込んでいますがここは
少し西にカーブしたところで、国道からは離れます。国後島と一緒に写したかったのですが、バックは知床連山のようです。 根室標津〜川北

 
 
  
 
 

 
ここは誰もが撮るアップダウンの直線が眺められる「光進」付近です。望遠で撮るには後追いでないとできません。長閑な道東の早春でした。
 
 
 
 
 
 

 
日常の「西春別駅」です。いつもこの時間帯は列車の交換がありました。左駅舎側に貨物線ホーム跡が見えます。
 
 
 
  
 

 
同じく西春別駅です。1989年4月、廃止1週間前に標津線をアルファコンチネンタルEXが走りました。リゾート列車のタブレット受け渡しです。
 
 
 
 
 
 

 
暑い真夏の標津線です。奥行臼駅から国道243号線を中標津方面に走らせていたら牛が放牧されているのが見え、クルマを止めて、線路方面に向い
 草藪をかき分けて行ったら、ちょっとだけ線路の見える場所に出ました。キハ40は暑さで前面扉を開けっぱなしで走っています。   奥行臼〜別海 
 
 
 
 
 
 

 
これも夏です。標津線は高原地帯の様なところを走っているので、高いところから撮れる場所がありません。線路際は避けたいし駅撮りもせっかく
標津線まで来た甲斐がありません。白樺と高原の様子を出したいところです。ここは春別と協和の間ですが、狭い陸橋がありました。 春別〜協和
 
 
 
 
 
 

 
ここは上の写真と同じ橋の上からです。夏と違って雪解けの早春は、全く違った光景を見せてくれます。中望遠で撮っています。 春別〜協和
 
 
 
 
 
 

   
夕刻に上武佐駅に立ち寄りました。ここが映画のロケ地です。まだ生きている時代の駅舎で、有人駅でした。







上り332Dです。突然雨が降ってきました。よく見ると左手に駅員さん、単行の車掌さんが手を振っています。35年前の風景です。








別海町の街並みを通り過ぎるとすぐこのような、いかにも標津線らしい場所が点在します。私は標津線本線より、こっちの厚床方面の支線の方が良い
撮影地が多かった気がします。別海は綺麗に整備された街並みが続き、支線の中では厚床よりも大きい町だったのではないでしょうか。 別海〜平糸








これは最終日に走ったDD16 48号の牽引する「さよなら列車」です。「まりも」の昼の間合い利用でした。私はここはてっきり奧行臼と別海の間と
思っていましたが、仕業を見ると最初は標茶から入っています。本線で真横から撮れる場所ってどこでしょう?最初に根室標津に向かう列車です。








これが現役時代の奧行臼駅です。この駅は別海町の有形文化財として指定され、今でも残っています。








ここは、間違いなく奧行臼から厚床に向かう道路の上から撮ったものです。この「さよなら標津号」は午前中で厚床に戻って釧路に帰りました。







1980年代の日常の厚床駅です。ここから標津線中標津行が出ていました。珍しく三本の列車が並びました。右端は根室本線下り、左端が上り
でここで列車交換です。真中の単行列車が標津線です。今は駅舎側ホーム1線で寂しい駅になってしまいました。駅前に食堂もあったのです。



以上とても懐かしい思い出の写真ばかりです。今は全て跡形もなく
ここに列車が走っていたことすら知らない人が多いことでしょう。