日本の消えた路面電車


60年代に日本で走っていた路面電車


私は東京都電をはじめ、各地の路面電車が大好きでした。都電は6000形が主流に
なる前までは、高校生のころから時間があれば、1000形、1100形、1500形、
 また昔の王子電気鉄道の100形などが被写体の対象でした。            
さらに興味があったのは3000番、4000番でしたが6000形ばかりの晩年は殆ど
出かけていません。また地方に出かけたときには時間さえあれば、大・中都市には
市電が走っていたので可能な限り撮ったものでした。             



東京都電の好きだった電車と風景



 
当時はまさしく日本の中心部だった、東京の銀座5丁目です。4系統の1100形が偶然並びました。偶然と言うより奇跡的な瞬間でした。
 
 
 
 
 
 

 
銀座1丁目の渡り線を折り返しで戻る1000形です。4系統は銀座と五反田までの往復でした。
 
 
 
 
 
 


この頃から急激に1000形は廃車が続き、6000形の天下になりつつありました。しかしもう銀座通りは車の行列で、都電の時代ではありませんでした。
交差点でも昭和通りに向かう車が途切れず、これなどタクシーのお尻が 1050号にかかってしまいました。後ろが続く瞬間でバックミラーが見えます。





  
 
銀座通りはデパートが立ち並び、お洒落なお店もたくさんありました。美人も多く、思わずシャッターを切ってしまいました。
 






夜の有楽町・数寄屋橋を行く晴海通りの11系統。日劇や天賞堂、そして若者のファッションの店だった「モトキ」の看板がみえます。







都電・銀座線の最終日1日前です。この路線は1967年12月10日で廃止になりました。学校帰りにカメラをを持って撮りに行きました。
                                三愛や服部時計店が懐かしい。この通りも大きく変わりました。







 
撮りまくっていたら夕方になりました。バックは京橋の第一生命の荘厳なビルです。








日比谷通りを行く37系統の6000形。左は戦後GHQだった第一生命ビルです。皇居のお堀端で、静かで美しい町並みと通りでした。



 
 
 


1100形は前面雨樋が湾曲している独特の車両でしたが、使用系統が決まっていました。魚籃坂下から清正公前を見上げると東京タワーが望めます。

 
 

 
 



清正公前に向って坂を登る5系統の目黒行。この頃は急ピッチで古色蒼然の家並みからビルに転換していた高度成長期だったようです。




 
 

 
私はこの旧王子電気鉄道のいかついリベットの角型スタイルが好きでよく撮りに行きました。王子駅は狭いところで撮りにくく、ここは赤羽ですが
   広い通りで、ご覧のように車はほとんど通っていませんでした。もっとたくさん撮っておけばよかったと、今になって悔やんでいます。        
 
 
 
 
 
 

 
改造に改造を加えて6000形と見分けがつかなくなり、一時は3000形が一番多い時期があったようです。万世橋のバス停が見えます。
 
 






これは4000形です。どこが違うのか外観だけでは分かりません。  湯島天神前








当時の青山車庫です。渋谷からの6系統には7000形、7500形がすでに入っていて主流になりつつありました。




 
 
 

 
 私が初めて渋谷・青山車庫に行った時には、それでも6000形の天下で、廃車の1000形が庫から外のヤードの奥まで留置されていました。







 
錦糸町駅前の交差点には歩道橋があって、ここは特等席でした。古い制服の交通整理の警官がいました。大きな交差点にはいたようです。 
 






1000形のなきあとは、錦糸堀の1500形を追いかけました。国鉄・錦糸町駅前に行けば必ず見ることが出来ました。いきなり線路を
                          女子高生(中学生?)が走ってきました。昭和のセーラー服もいいですね。







1500形に乗り込み、大島方面に出発です。このころから運転席かぶりつきでした。








南砂町の界隈は専用軌道を走っていました。バックは第4砂町小学校です。








ここは大島のゼロメートル地帯です。川より低い土地から山のように堅川を渡ります。








終点の葛西橋電停です。折り返しで錦糸町に戻ります。荒川の土手の近くです。








38系統は葛西橋から錦糸町経由で日本橋まで行きます。古い写真でネガが相当傷んでいます。これまた昭和の下町光景ですね。



 
 
その他の好きだった路面電車
(別途、玉電ほか特集しているのもありますのでインデックスをご覧ください)

 
 

 
 これも路面電車です。国道246号線を池尻から大橋方面を望みます。広い通りだったんですね。
 
 





これもこの間だけは路面併用でした。大井町線は路面電車ではありませんでしたが、二子橋上は単線で自動車と並走する貴重な区間でした。







ここは東京都と神奈川県の境です。二子橋の路面併用区間(国道旧246号)を出て二子新地前駅に進入するこの部分が県境で、右端に
神奈川県と書いた看板が見えます。昔は二子新地ではなく「二子新地前」駅でした。246号は直角に多摩川沿いに曲がっていました。


 




ここは反対側の併用区間の出口で、電車は二子玉川園前駅に向かいます。バックは新しく出来た、当時としては画期的な「富士会館」です。
横切る広い道路は今の多摩堤通りではないかと思います。電車はゆっくりと、ゴロゴロ音を立てながら走って来ました。  いずれも1964年







60年代の横浜にはまだ市電が走っていました。これは4軸ボギーではなく、2軸台車のいわゆる単車です。川崎にも市電は走っていました。







これは600形です。500形とどう違うのかも分かりません。2枚窓車も1枚は撮っておきたかったですね。横浜、川崎に関心のなかった証拠です。







毎日ビルから撮った名古屋駅前の光景です。市電が3両見えます。 1962年


 




京都に飛びます。これは京都市電の大型車500形です。凄い車両がいたものです。広い通りで線形も良かったので大型車が走れたのでしょう。 1962年







京都の代表的な路面電車をアップします。広隆寺のある太秦です。嵐電がポールの時代です。女性は和服に草履姿。旅館もあったのですね。







同じ京都の京阪電鉄・石坂線です。ダブルルーフ、アンチクライマー、ポール集電など凄い車両でした。路面並走は僅かな区間でした。







これまた西に飛んで、西鉄・戸畑線の70形で、まだ改造前のいかつい時代です。見る限り100形が多く、70形(80番台まで70形に属した)
は、たまたま運よく来てくれました。ここは戸畑駅で、背後は高い位置にすでに巨大な若戸大橋が懸っていました。        1965年







大分交通別大線です。大分交通になって最も古い車両の100型です。行先は「別府市内」となっていますが、1962年の東別府駅付近です。






長崎電気軌道の170形だと思われますが、この頃の車両は
経緯が複雑すぎて説明できません。   1964年    




おまけ




北海道です。函館は今でも魅力的な市電が沢山走っています。北海道全てに活気のある時代でした。港町には保険会社が沢山あります。







 いずれも70年以降ですが、函館を出したので「札幌市電」も1枚出します。70年代の大都会なのでクルマがずいぶん新しくなっています。
 


都電も各所で撮っています。 いずれも6000形で
遅くまで残っていたので、多くのファンと同じの
平凡写真も多く、希少的な車両だけにしました。
路線によっては別掲で詳細写真をご覧出来ます。





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