一関〜仙台

大型機関車の宝庫でした

仙台には常磐線のC62をはじめとするハドソン群、そして一ノ関には我が国最大のバークシャーD62がいました。岩手・宮城の県境越えのために配属されていたのでしょう。
私たちが初めて東北地方に遠出をしたのがこの仙台と一ノ関で、昭和39年のことでした。
今では高校生が簡単に撮影旅行をするのはあたりまえにもなっていますが、当時は新幹線もなく、結構ハードルが高かったのです。仙台には仙山線の交流機関車も顔をだしていましたし、直流の仙石線の旧型国電も魅力的でした。仙台と一関は、区にいる機関車を撮りに行っただけで、走行写真が目的ではありませんでした。ただ県境の有壁峠には、後年「しゅうちゃん」が走行を撮りに行っています。
仙台にはC59が2両いて朝夕の東北本線の旅客列車の仕業に就いていましたがシールドビーム補助灯付き、切り取りデフレクターに火の粉止め装着という典型的東北姿で、とても満足のいくC59ではありませんでした。


 
■巨大な要衝だった仙台機関区


このC62はスノウプロウを付けている以外はオリジナルの姿でした。補助灯もまだ付けていません。   昭和39年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 

これは前照灯がシールドビームで既に補助灯まで付けており、煙室扉にはステップも付けられ、常磐風でした。 昭和39年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 


早朝に到着するオール寝台の急行「新星」。引き上げのためすぐ最後尾にC11が連結されます。       昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 


    何の為にいたのか?たった1両のC58。とにかく止まっているものは何でも撮りました。  昭和40年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 

 
夜行列車で仙台に着くと、東北唯一のC59が入れ替えに励んでいました。初めて見るC59です。  昭和39年

 
 
 
 
 
 

一ノ関方面行のC60牽引の普通列車が発車です。このころは駅撮りが精一杯でした。      昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 

発車を待つ常磐線の上り普通列車。まだ補助灯の付いていないカマも多くすっきり見えました。     昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 
 

試運転のヘッドマークをつけたピカピカの483系がいました。483はこのころ登場したのですね。    昭和40年 仙台
 
 
 
 
 
 
 

 となりの東仙台方面に行ってみました。交流機ED91牽引の仙山線普通列車です。暖房車と1・2等合造車を牽引しています。  昭和39年 仙台付近

 
 
 
 
 
 

東芝製の水銀整流器を搭載したED91形交流電気機関車。この頃はすでにED75が登場していました。  昭和40年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 

 新鋭のED75がやってきました。機関車を付け替えたので、恐らく東北本線福島方面行でしょう。  昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 

ED71も健在でしたが、殆どが1次形の若番号でした。信じられないくらい綺麗な車体でした。  昭和39年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 

仙台機関区の裏手に仙石線のホームがありました。ハイカラなツートンの塗り分けでした。モハ50でしょうか。2両編成です。行き先板もお洒落です   昭和39年 仙石線仙台駅

 
 
 
 
 
 

同じく仙石線仙台駅ホームです。モハ11でしょうか。結構乗客がいたんですね。  昭和40年 仙石線仙台駅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 C59176がなにかの仕業で戻ってきました。本線運用もあったのです。係員がドームに砂を入れています。  昭和39年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ED91-1が仙山線列車を牽いて到着しました。この当時は11、21と、まだ3両が残っていました。  昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 C59は憧れの機関車でしたが、補助灯とデフ孔が...山陽のC59に比べ品格さに欠けていました。  昭和40年 大きな給炭槽でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これはもう1両の90号です。2機が同時に給水出来ます。給水塔は4基くらいあったように記憶しています。  昭和40年 仙台機関区
 
 
 
 
 
 
 
 

10時すぎに上り「はつかり」が到着します。超ロングランのディーゼル特急でした。大勢の職員が総出で点検しています。運転士もここで交替します。食堂車の運び出しや積み込みにも時間がかかっていました。まだ綺麗な81形です。   昭和39年 仙台駅
 
 
 
 
 
 
 
■巨人機D62がいた一ノ関
 
 

庫から顔を出す一ノ関の主D62     昭和39年 一ノ関機関区
 
 
 
 
 
 
 

庫の中で休むD62と大船渡線のC58。1年後にはヘッドライトもシールドビームに替わりました。   昭和40年 一ノ関機関区  
 
 
 
 
 
 
 

 
大船渡線と本線の補機にも使用されていたC58。スノウプラウが変に汚れていますね。    昭和39年 一ノ関機関区

 
 
 
 

 
 
 

巨人バークシャーD62です。火室下によく2軸の従台車を押し込んだものです。確かにマンモス機でした。      昭和40年 一ノ関機関区
 
 
 
 
 
 
 

 
列車頻度の高い幹線で一関から県境の有壁峠を越えるため、巨人機が必要でした。これは重連ですが本務機は隠れて見えません。 昭和40年 鬼死骸
 
 
 
 
 
 
 
 

盛岡電化後もD62は本線で長大貨物を牽引していました。これは単機ですが1両で良く登れたものです。   昭和40年 鬼死骸
  
  
  
  
  
  
  

ED75がまだ少ない頃は重量級の貨物を牽引するにはD62が必要だったのでしょう。下り線と離れています。   昭和40年 鬼死骸
 
 
 
 
 
 
 

これは一関のC58ですが、後補機で有壁峠に挑みます。この有壁峠を越す為の線路位置は数回替えられています。  昭和40年 鬼死骸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一関で発車を待つD62。駅長さんが来て、なにか指令を伝えています。39年はまだ150Wのライトでした。  昭和39年 一関
 
 
 
 
 
 
 

 
巨人機に交じって、入れ替えにハチロクが使われていました。とにかくこの頃は何でも撮りました。  昭和39年 一関構内
 
 
 
 
 
 初めての長旅はこうして終わりました
 
 
 
インデックスに戻るにはブラウザの
「戻る 」を使って下さい