十三本木峠越えの秘話
三重連のハンドルを握った男たち
東北、北海道への輸送量増大に伴ってそれまでは日本海まわりだった貨物ルートを東北本線に戻したのは昭和33年10月のことでした。 しかしながら盛岡以北には北上山地の山越えがあり長大貨物はスピードが極端に落ち、大動脈である本線の大きなネックとなっていました。1000トンにも及ぶ貨物列車の速度を維持しながら最大の難所であった十三本木峠越えのある沼宮内と一戸間を走破するためこの間に専用補機を使用することになり、ここに大型蒸機の3台運転が登場しました。 この峠越えの機関車の基地となったのが一戸機関区でした。最盛期には200人に及ぶ職員を抱え、配属のD51も13両を数えました。そして一戸は鉄道の町として栄えたのです。 十三本木峠越えのシェルパとして一戸のカマは通常後部補機として連結されましたが、尻内から重連でやってきた列車の前部に前々補機として連結されると見事な3重連となりました。列車密度の極めて高いこの本線の空を昼夜を問わず焦がし続けてきたのが一戸の機関車たちで、一戸の町に汽笛と煙が途絶えたことはありませんでした。 しかしながら私たちが訪れた昭和40年頃からは随所にポールが立ち始め、昭和43年10月(いわゆる有名なヨンサントオ)には東北本線は全線電化され10年に及んだ大型蒸機の3重連はその役目を終えました。そして鉄道の町・一戸からも蒸気機関車は姿を消し、峠越えの要衝だったこの町から3重連のハンドルを握った炎の男たちも去っていったのです。 |
元一戸機関区機関士の回想
一戸町は電化開業による機関区の廃止により、職員の配転流出、さらには高齢化、雇用等の理由により人口も減少の一途を辿り、現在一万五千人弱となりました。国鉄時代は二戸市よりも人口、経済規模も大きく岩手県北では中核都市的な役割を果たしてきましたが、現在は新幹線の駅も二戸市に作られ鉄道の町「一戸」は衰退して今では往時を偲ぶべくもありません。
昭和22年から一戸機関区と国鉄を中心にして栄えた町「一戸」ですが、今では45歳以下の方は機関区のあったことさえ忘れ去ろうとしています。私はあの時代に機関車のハンドルを握っていた元機関士たちが一戸に在住でまだお元気なのを知り、たまたまあることがきっかけでお目にかかることが出来ました。そして地元の有志のお取り計らいにより、貴重な当時のお話を聞く機会が持てたのです。
私は十三本木峠越えの写真のみならず、それら機関車のレギュレータを握っていた機関士の苦労と秘話を後世に伝えていくことも使命だと思い、微力ではありますがこのホームページに掲載して回想録として残し、事実を伝える語り部になりたいと考えました。 これは物語ではなく、ヨンサントオまで機関士が実際に体験した紛れもないノンフィクションです。 |
とき:2009年5月30日
場所:一戸町
聞き手:管理人C6244
元一戸機関区機関士 故小原孝郎氏 元一戸機関区機関士 斉藤重次郎氏
一戸を豪快に出発する上り52列車。三重連の先頭に立つのは一戸のD5187。後の2両
は先頭でハンドルを握る一戸の機関士に十三本木峠越えの全てを託していたという。
━ まず最初にずばりお聞きします。4重連は存在したのですか 4重連はありませんでした。鉄橋の重量制限の関係で出来なかったのです。ただ回送を2両後ろに付けた前3両、後ろ2両という5台運転はありました。 ━ いや、それはすごいですね。私は4台運転は何回か見たことがありますが5台運転とは ところで一戸機関区は多いときで何人くらいの所帯だったのですか 昭和30年代で職員総勢160〜170人はいました。そのうち運転士は半分くらいでした。とにかくあの頃は忙しい毎日で非番の翌日にも乗ったことがあります。夜中でも呼び出しがかかるんです。急遽明日乗ってくれと。だから休みの日は隠れていなくなったことがずいぶんあります。(笑) ━ 機関区では修繕もやったのですか 一戸には検査掛も技工もいました。ですからある程度のところまではやれたんです。技工もウデが良かったですね。 ━ 乗務はどこまでだったのですか 補機は通常一戸〜沼宮内間でしたが中には盛岡までの通し補機があり、半分くらいは盛岡まで乗りました。これは2往復乗務で、一戸から出て沼宮内で折り返して一戸に戻りもう一度今度は盛岡までいく乗務です。 ━ 昭和40年の時点では一戸に8両のD51が配属されていました それは列車本数が少なくなってからです。それ以前、三沢基地に物資を運ぶ最盛期には13両がいたはずです。とにかくあの頃は忙しかったですね。 ━ 機関車にもいろいろクセがあったのでしょうね 一戸には検査掛もいたので機関区でカマの整備をしていました。87号機は蒸気の上がりもよくいいカマでした。(注:87号機は100番以内でありながらナメクジではない標準機で一戸のカマのなかでも異彩を放っていた)逆に甲府から来た289号機なんかは使いにくいカマでしたね。ナメクジの17号機にも思い出があります。みんなそれぞれ違うんですよ。一番感じたのはリバーの違いですね。同じ絞りでもみんな違う。分かり易かったのは蒸気の上がりの良し悪しですね。 ━ お二方は3重連の前々補機でハンドルを握られたわけですね 先日、長野で機関士をやられていた方にお会いしたのですが、その方が「あの有名な3重連の機関士だったのですか」と驚いていました。当時からここの峠越えは有名だったんですね。 ━ われわれから見ると機関士のゴーグルがカッコ良かったのです ゴーグル(防塵メガネ)は機関区からの貸与だったんです。個人のものではなかった。でもほとんどしてなかったですね。運転していてジャマだったんです。みんなつけていなかったんじゃないかな。 ━ 一戸のカマは重油タンクを積んでいましたね 重油は楽でしたね。発車前は石炭をガンガン焚いて圧力を上げるんですが、発車してから勾配を登るときに重油を使いました。ある程度速度が安定したところで重油を使うんです。楽だからみんな重油を使いました。でも石炭と重油を一緒に使うにはコツがいるんです。火室の石炭の撒き方とか。それと重油は固いので、あれは一度温めてから火室に噴射するんです。固いままだと火床にボタボタと落ちる。それが煙管を通って煙突から抜けることがある。使い具合が難しいんです。それとノズルが焚き口の上に出ているので石炭をくべるときはジャマでしたね。 ━ ストーカを使うことはあったのですか われわれも普段は乗らないC61に盛岡乗り継ぎで乗務することがあるのですが、ストーカの使い方がよく分からない。乗っているうちに段々と分かってくるのですが、前に乗務していた機関士があとに乗るのが一戸だと知るとわざとストーカの調整をバラバラにしてしまうんです。そうするとわれわれは大変です。どうやったらいいのか分からない。そんなイジワルをされたこともあります。(笑) ━ 峠の区間で一番厳しいところはどこでしたか まず下りでは御堂を過ぎて9パーミルからいきなり23パーミルの急勾配になるところから吉谷地まででした。御堂の構内が60km制限でいつもここから思い切り加速して急勾配に入るんですが、そこから吉谷地の手前までが相当苦しい。吉谷地の国道の鉄橋を越えて直線区間に入ると少し楽になりますけど。 上りでは小鳥谷を過ぎてからの築堤の上り坂、小繋を出てから西岳信号場までの長いダラダラ坂はきつかった。中山のトンネルが見えると、ここまでくれば大丈夫だとホッとしたものです。距離で言えば上りの方が勾配は長かったんです。小鳥谷を過ぎてから奥中山の峠まで。ですから上りでは小繋でよく止まっちゃったものです。登りきれないんですよ。本来は通過なんですが本線上で止まってしまう。仕方なくそこで一旦火床から灰を落とすんです。それから新たに石炭をくべて火力を上げる。圧力が完全に上がったところで再び小繋から発車するんです。灰を落とすとときどき枕木が燃えることがある。そうすると、あのカマは枕木を燃やして行った、とあとで言われて。(笑) ━ 登り勾配ではずっと加減弁は満開で そうです。加減弁は満開。上りで小鳥谷から急勾配に入ったところでリバーはだいたい45〜50%。それでも空転を起こします。ここは重連で720トンが限界でした。 ━ 速度はどの位でしたか。私の記憶ではけっこう早かったように記憶していますが いや、割と快調に登れた吉谷地のカーブから奥中山への直線でも35〜40km/hくらいだったですね。 ━ 3重連のときは前々補機(先頭のカマ)が主導権をとるのですか そうです。いずれにしても先頭のカマが引張るのです。ですからみんな3重連の先頭にはなりたがらない。後部補機の方が楽なんです。ときどき尻内のカマが先頭になることがあるのですが、尻内はそれを嫌がった。運転の前に指令に、前は嫌だから後ろにしてくれ、とか言う人もいたようです。尻内はいつも後ろに付きたかったんですよ。前は嫌だと言ってね。それなら尻内を少しいぶしてやれ、とばかりにわれわれは前で煙をガンガン吐くわけです。(笑) とにかく先頭が全て取り仕切るんです。先頭だと遅れの時間にも気を配らなければなりません。少しでも早く走りたい。で、もっともっと焚くように助士をあおる。すると助士は大変。あんまりやるとこの機関士とは乗りたくないと言うし。でもガンガン蒸気圧を上げれば良いというものでもない。今度は安全弁が抜ける。そうすると機関士は「なんだー!」と言って怒る。それだけ蒸気をムダにするわけですから。それと時間を気にする機関士が先頭に立つとまた違ったものです。 ━ 3台協調運転と言いますが いや、3台だと必ずサボるカマがあるんです。こっちは必死に先頭を動かしているのに後ろがサボることがありましてね。そういうときはキャブの窓から後ろに向かって「もっとあおれ!」と手マネで伝えるわけです。ですからこっちが加減弁を満開にして、リバーも50%でガンガン行こうと思っても、3台が必ずしもそうではない。リバーの絞り方も違うし、なかなかうまく合わない。でも3重連のときはやっぱり先頭が一番力を出しました。重くて苦労しているときに後ろの機関士が見えると「もっと走れ」とジェスチャーするわけです。でも先頭が全部責任を持つかというとそうではないんですよね。だけど後ろのカマは「ああ今日は前は一戸だ」と言って安心するんです。そうすると必ずサボる。途中で駅に停車したときはケンカになる。(笑) 明るいときには後ろの排気が見えるんですよ。頑張っているかどうかが分かる。ところが暗くなると見えないから後ろはよくサボるんです。遅れようが関係ない。前がやるんだ、と思っているんです。 ━ 私の印象では吉谷地あたりはわりと軽快に走っていたように見えましたが 1000トンはきついですよ。なんにも引き継ぎをしないで、列車が到着していきなり運転でしょ。この列車はどのくらいの重さなのか分からない。引っ張り出してみてようやく分かるんです。 ━ それはハンドルを握ってみて初めて分かるということですか そう、引っ張ってみて今日はどのくらいか、体で感じるんです。これはもう、長年の勘で探るわけです。駅では列車の車両換算を出すんだけれども、それと実際とでは全然違うんですよね。乗ってみると意外に重かったり。ですから全て発車してから勘で探るわけです。そういう体で覚えた感覚が一番モノを言ったんではないでしょうか。 ━ 私の記憶では一戸は凄い煙を吐いて豪快に出発していきました そうです。あの出発線の脇の家は大変な煙を浴びたでしょうね。当時は公害なんていう言葉はありませんでしたから。今やったら大変なことになりますが、あの頃は許されたんですね。まあ、蒸気機関車が通るときは天下御免でしたから。 ━ 3台運転では操作の一挙一動を汽笛でしっかり合図していましたね それはちゃんと規定にありますから。3台のときには特に連携が必要でした。スイッチバックして側線に入るときは何度も合図して。それでこそ協調運転なんです。 ━ この峠には滝見と西岳の二つの信号場がありました。私は行ったことがありますが、もう形状を 忘れてしまっています 滝見は上りの引き込み線の先にトンネルがあったんです。短いトンネルでしたが先頭の機関車はそのトンネルを抜けて止まるわけです。長い列車だと後ろが引き込み線に入ったかどうか分からない。お尻が本線にかかっていたりしたら大変です。ですから引き込み線の先の方にランプが確か何メートルおきかに3箇所くらいついていました。完全に引き込み線に列車がおさまると、その位置のランプが点くようになっていました。出発のときには今度はバックで本線をまたいで出発の引込み線に入ります。そこがちょうど山スソの崖の下で先の方は崖に沿ってカーブしていました。(この話は非常に貴重な証言で当時の滝見信号場の形状がわかる) 西岳信号場には何もないところに国鉄職員の官舎が何軒かありましてね。朝は列車が信号場に停まって、そこの子供たちが学校に行くのを乗せたんです。(そういえば西岳は旅客扱いはしていなかったのに短いホームがあった−その理由が初めて分かった) ━ 登るのも大変だったと思いますが、連続下り勾配も大変だったのでは。補給制動は使ったので しょうか 補給制動は禁止されていたんですよ。危険なブレーキ扱いということで。空気圧の補給位置を誤るとブレーキが緩んで暴走することがあるので一戸では禁止されていました。でもベテランはやるんですよね。楽だから。奥中山を登り切って今度は一戸まで下るわけですが、トンネルを越えて下りに入るとスピードが出るのでここで1回ブレーキをかけます。それでそのブレーキがずっと効いてそのままの速度が保たれるかというと、だんだんエアが漏れてブレーキが強くかかるようになる。そのままだと列車は止まってしまうので今度は緩める。そしてまた込め直す。すっかり込められたら次はまた緩める。だから速度が速くなったり遅くなったりするわけです。本当はこれが普通なのに、それを何度もやりたくないために、1回ブレーキを使って補給位置を探ってブレーキ位置を決める。ただこれはいっぺんにブレーキが緩んでしまう事故にもつながりかねない。ベテランはメーターを見ながらエアが漏れる分を補給する位置を探るんです。今日はコンマ4とかコンマ5とかで。 特に下り列車では峠から小鳥谷までの長い下り勾配(およそ)15kmをうまく操作していかなければなりません。途中小繋では構内が平坦になるので、いつもここで込め直しをするんです。重い列車はスピードを20km/hくらいまで落としてそれから込め直しをするわけです。時間もかかりましたね。登りもきつかったけど下りのブレーキ扱いも難しかったですね。 ━ 制動で何か事故は起きなかったですか 事故ではないけれど、一度奥中山から御堂に下ったとき列車は御堂停車だったので側線に入ったのですが、ここで単弁の操作を誤ったのか機関車の動輪がロックされてしまった。で、うしろから押されるのでいわゆる滑走をしてしまったんです。そうしたらタイヤが削れてしまって。そのときは変な音がするな、とは思ったんですが。そして御堂を出発したらガタンガタンと凄い振動が起きて。顔が真っ青になりました。やっちゃったと。 それで今度は沼宮内から折り返し一戸に戻るのですが、一応一戸に電話をいれました。そうしたら「走れるか?」と聞くので「なんとか走れる」と答えると、「じゃあ戻ってこい」というわけです。帰りはずっとガタンガタンでした。そのあとそのカマは工場入りです。 ━ 一番苦労した思い出を聞かせてください これは今でも忘れられないことですが、絶対に遅らせてはいけない列車というのがあって、それが当時の蒸気機関車牽引の特急「はつかり」だったんです。至上命令でこれだけは遅らせてはならないんです。私がその「はつかり」の1本前を走る下り貨物列車に乗っていたときのことです。まだ私が助士のころ、冬で雪が降っていました。しかも夜の8時か9時頃のことでした。一番苦労する御堂から吉谷地に向かう途中で機関車が空転を起こして、ついに吉谷地の手前で止まってしまった。私は機関士に「御堂に戻ろう」と言ったのですが、機関士は「何とか登ろう」と言って戻らない。そうこうしている間に今度は砂が湿ってしまって出なくなっちゃった。仕方なくボイラに上がって乾いている砂を手ですくって暗い中を数メートル線路に砂を撒きました。そして再び発車すると砂のあるところはなんとか走るんですが、砂がなくなると凄い勢いで空転して止まってしまう。で、また同じように砂を撒く。これを何回か繰り返したのですが、空転を起こすと今度はカマの中がとんでもないことになっているんです。いやいや、大変でした。結局1時間半遅れでなんとか奥中山に辿り着いた。駅ではすでにポイントが切り替えられていて、すぐ待避線に入れられました。「はつかり」はもう御堂まで来ていて、すぐわれわれの列車を追い抜いていきましたが結局「はつかり」も1時間以上遅らせてしまった。あのときは到着点呼のときもやられて、後で皆からいろいろ言われました。本当は事故になるところだったのですが、なぜかあのときは事故にならなかった。どう処理したんでしょうかね。 ━ 当時の面白いエピソードを聞かせてください 私ではないんですが私と同期の機関助士が下り列車の後部補機に乗っていて例の吉谷地を登っているとき、機関士が「こんなスピードだったら走っても間に合うな」と助士をけしかけたんです。するとその助士が「こんなに遅いんだったら走っても十分だ」とまともに受けて機関車から飛び降りてしまった。そして一緒になって走ったんですよ。そしたら機関士がわざとスピードを上げてね。そうなると助士は追いつくわけがない。そのまま置いてけぼりを喰らって、あとから奥中山まで歩いてきたそうです。駅員が「どうしたんだ」と尋ねると「気分が悪くなって途中で降りたんだ」とその助士は言ったそうです。そのあと1時間後くらいに客車列車に乗って一戸に帰ってきたんです。点呼をとった機関士は一人で、「あれ(助士)は具合が悪くなって途中で降りました。見ていてください、もうすぐ帰ってきます」と報告したんですね。そういうイタズラをした機関士もいたんです。 ━ でも機関士たちは仲が良かったとか そう、ケンカしたり、イジワルされたりしても最後には「機関士魂」という共通の意識があったんです。サボったり怒ったり、いろいろありましたが基本的に仲は良かった。ガッチリとした仲間意識があった。そういう絆があったから3重連を運転出来たんです。 ━ 最後にお尋ねします。蒸気機関車とは何だったんでしょうか みんながよく言うことですが、蒸気機関車は生き物なんですね。機嫌の良いときにはちゃんと走ってくれる。そのためにはしっかり食べさせる。石炭をいっぱいくべて火力を上げる。腹が一杯になれば機関車は走るんです。機嫌の悪いときには騙し騙し使う。本当に生き物だというのを感じましたね。 ━ 今日は貴重なお話をありがとうございました。 |
★この対談を実現させるためにご尽力いただいたNPO法人カシオペア連邦・地域づくりサポーターズの皆様
そしてお取り計らいをいただいた関係者の方にこの場をもって厚く御礼申しあげます。
なお、NPO法人カシオペア連邦・地域づくりサポーターズは岩手県北の地域づくり活動を支援しているNPO法人で、
IGRいわて銀河鉄道一戸駅(前JR一戸駅/旧国鉄一戸駅)の駅業務も受託しています。さらに一戸の町の歴史を
学ぶ事業も行なっており、目下鉄道の町一戸を再現させるべくさまざまな企画を計画・進行させています。