第4弾
その3


驚きと懐かしい写真が続きます


最後まで蒸気機関車が牽引した尺別鉄道


現在の根室本線の白糠~浦幌の太平洋岸に沿った地帯は炭田が多く、この尺別炭鉱もそのエリアにあり、明治以前から炭田としての歴史は古く、その後、石炭運搬のため、北日本鉱業が運営会社となり、本格的開抗に着手し、第一次大戦後に石炭運搬用として、762mmの軽便鉄道を建設したのが、尺別鉄道の始まりです。
昭和になり活況を呈す尺別炭鉱は雄別鉱業所の支鉱として運営を続けましたが、運搬線は尺別軽便鉄道であり(これは森林鉄道などと同列の路線でした)、戦前の昭和では、もはや軽便鉄道で追いつく訳がなく、そこで国鉄と同軌の本格的専用線を、既存の軽便鉄道に沿って新たに敷設しました。戦後は雄別鉱業所から独立し、更に鉄道部門は炭鉱事業とも分離され、地方鉄道「尺別鉄道」となりました。これは1970年に役目を終えた尺別鉄道をFT氏は前年の1969年に撮りに行ったときの終焉近い写真です。
なお、撮影者によると、立派に地方鉄道に生まれ変わったのに、時刻表に出ていないので、行くのに大変だったと語っています。



撮影日:1969年9月  東京 FT氏撮影

撮影場所は全て機関区のあった終点の新尺別です
      




起点は国鉄尺別から少し離れた「社尺別」、終点はヤマのある「新尺別」でした。ここは新尺別です。間違えやすいですね。
戦後、土佐電気鉄道が自社発注したC12001です。その後は、雄別鉄道を経て尺別に来ました。最後廃線まで頑張りました。








職員か乗務員かは分かりませんが、出発前に石炭を積んでいます。石炭は高い位置に放り上げないと、国鉄ように自動で石炭が落ちるという仕掛けではありません。








ナハ13です。1940年、日本車両で千歳線の前身、北海道鉄道キハ554として新製、鉄道省買収後キハ40364となり、1950年に雄別鉄道に譲渡、客車化されナハ13になりました。








社尺別に向かってC12牽引の列車が出発を待っています。雄別鉄道はC11が主流で、長距離を雄別から釧路埠頭まで走っていました。








私もあまり撮っていないC12です。北海道では他にどこにいたのでしょうか。ドレーンを吐いて新尺別を出発です。 








結構長い混合列車を牽引して出発しました。氏はC12と混合列車だけのために良く尺別まで行ったと感心します。私は一時親会社となった雄別鉄道には行っていてC11、C56、コッペル等を撮っています。40年代には2万人数えた雄別の人口は、今は誰もいない廃墟と化しています。








これは、一見普通の貨車のように見えますが、ワ11形14号は前と軸の間にスノウプラウを付け雪かき車代用を務めました。








これはもう廃車のように見えますが、真ん中に扉があり、単車の客車です。ストーブ煙突が見えます。狭い車内でストーブを焚いていたのでしょうか。いっとき、珍しく塗装車になった時もありました。








雄別鉄道からの借入車で、前身は1903年の日本鉄道大宮工場製のホハフ2631で、1952年に雄別鉄道に譲渡、客車化され、ナハ13になりました。







アットランダムの思い出写真

ここからは特定の路線ではなく、お寄せいただいた団塊世代の貴重な単発写真を掲載します。中には、まだお見せしていない「ちょっと驚きの写真」を、アットランダムに掲載します。中には、えっ!とびっくりする写真もあるかもしれません。




1970年に有楽町を走ったD51列車 八王子KH氏撮影



首都圏で最後まで残った 高島線のSLが姿を消すことになり、1970年10月に 東京から高島貨物線を経由して横浜港駅まで、記念列車の「さよなら蒸気機関車」が走りました。 これを都心の有楽町のビルから撮ったファンがいます。 列車もギリギリ入れて、日劇、朝日新聞、数寄屋橋首都高速、不二家等が写っている56年前の写真です。






一世を風靡した東武のデラックス特急1720形  東京FT氏撮影



この斬新なスタイルの東武特急が登場したときは驚きました。ただ、良くここで写したものだと感心します。 昭和24年7月に起きた「下山事件」の常磐線とクロスする現場だからです。国鉄線路北千住と綾瀬間のカーブで東武が築堤上を走る交差点であったので視界が悪く、下山国鉄総裁の姿の視認が難しい点にあり「謎の事件」と言われています。東武線は小菅駅を出てすぐのところです。





東海道線鶴見川鉄橋  神奈川TS氏撮影



まだ東海道線にD51が走っていましたが ,高島線電化に伴いこんな編成の貨物も見られました。われわれは「電蒸運転」と呼んでいました。





長い歴史の愛称列車「鳥羽快速」  東京FT氏撮影



これは関東のファンにはなじみのない列車で私も初めて知りました。お伊勢参りの為に設定された列車で、近鉄は1本で伊勢まで行けるのに大阪以外の姫路、神戸、京都、滋賀県からの直通列車はこれだけだったこと。近畿の小学校の修学旅行は伊勢で、大阪以外の学校は、この列車を利用したので思い入れも深く、愛称列車としては長期間続いた列車でした。電化後はEF58 が途中まで牽引したり、あのC51 の活躍の場でもあったようです。写真は昭和39年、紀勢線鈴鹿川鉄橋です。ちょっと古い記事ですが、大先輩の湯口徹氏の写真や記憶をご覧ください。https://drfc-ob.com/wp/archives/74029




1970年に有楽町を走ったD51列車ー2 千葉JH氏撮影



これは別人のファンのもう一人が、別のビルの上から撮ったものです。日劇は写っていますが、数寄屋橋の名所は写っていません。代わりに交通会館ビルの屋上ラウンジが見えます。高層ビルの上のレストランで円形が1時間で1周しました。当時は流行りみたいだった様で、デートの場所としても有名でした。懐かしい!





警戒色が消えたので、走行を撮りました C6244撮影



大好きなクモハ42です。何故か小野田線の電車は前面に警戒色を塗っていましたが、とったというので、昼間1本の走行を撮りに行きました。





思い出の後楽園のジェットコースターと丸ノ内線  naro20氏撮影
  


後楽園、懐かしいですね。 そこのジェットコースターに乗った若き日のnaro 20氏。カメラを持って乗ったので、「あっ、丸ノ内線だ」と瞬間にシャッターを切ったそうです。たぶん500形ではないでしょうか。まだHゴム化されず、ドア窓も髙窓ではなく、白線にステンレス帯も最高のデザインでした。私の好きな車両の一つです。ジェットコースターから撮影というのがいいですね。





昭和39年 阪神電鉄、野田天六線・天六での寸描   東京FT氏撮影



北大阪線は大阪・野田と天六を結んでいた路線でしたが、撮影は昭和39年なのでまだ古典的路面電車1型が走っていました。野田は線路がうるさく、これらの写真は天六で撮影しています。この一帯は戦災を受けなかったので、当時の古い町並みが残っています。







ここは行き止まり駅だったのですね。これも1型です。車両の変遷はあったものの、昭和50年に廃止となりました。だいぶ傷みも来ています。







まだ、追加していきます