
第3弾 その1
驚きと懐かしい写真が続きます
| この団塊世代企画は早めに終わるのではないかと懸念していましたが、第2弾までは成功裏に終わり、皆さんの知らない鉄道と写真をたくさん出すことが出来ました。お知らせの通り第3弾を今日から開始しいたします。そして、より多くの団塊世代の思い出を皆さんにお伝えしたいと思い、早めの再開に至りました。いつまで続けられるか分かりませんが皆さんの協力を頂ける限り頑張る予定でいます。沢山の方のご来訪をお待ちしています。とりあえずは、第3弾の冒頭だけを制作しました。 |

| 旧下河原線は1910年に東京砂利鉄道として中央本線の国分寺を起点に下河原との間に開業しました。その後1934年に、国分寺~東京競馬場前間で旅客輸送が開始されたことから、
国分寺~東京競馬場前間の5.6kmは単線電化の自動閉塞で、途中駅の北府中~下河原間3.8kmは単線電化、通票閉塞(?どこにも資料がありませんが)の貨物支線となっていました。ところが、その分岐点が、調べると多くは北府中、そのほかは正式な分岐地点が書いてありません。しかし、次のURLの記述で旧東京競馬場線と旧下河原貨物線との分岐が北府中でないことが明らかになり、むしろ競馬場前駅に近い地点である事が分かりました。ただ、ダイヤグラムや、営業上は、便宜的に北府中での分岐となっていました。そして、その分岐場所は正式な「駅」や「信号場」という名称ではありませんでしたが、下河原線の「旅客線」と「貨物線」が分かれる運用の要所であり「信号扱所=信号テコや転轍機を操作する建物」が存在し、ポイントも見える様子が写されている写真をTS氏は撮っています。国鉄は非常に紛らわしい表示をしていたことになります。 まだ生きていた、この幻の分岐点のテコ小屋をご覧ください。 |
| まずは、出発駅である国分寺駅のクモハ40をご覧ください。1両で、東京競馬場との間を往復運転していました。 1973年3月 撮影HJ氏 |

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これは、1973年時の中央線国分寺駅の風景で、最端のホームから下河原線は単線で出ていました。改札口にはホーム先の階段を上って跨線橋を渡り北口側に出なければならない、とても不便な駅だったようです。 HJ氏撮影 |
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| 右は貨物専用で下河原貨物駅に向かう線路になります。要はここで分岐していたのです。しかし何もないローカル地だったんですね。 |

| よく見ると、この信号扱い所の簡易ホームに、タブレットキャリア受け器があります。ということは、当時はここから下河原貨物駅までは、通票閉塞区間だったのでしょうか?
位置的に推測すると、分岐した国電競馬場線側からの撮影と思われます。参考に下のURLを開いて、その中の写真5~7を見てください。何年の撮影か分かりませんが、この分岐点の写真と比べると、戸建てが密集しているようで隔世の感があります。 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/guide/event/uploads/shimogawara_tate_2.pdf |

| 本来は木材輸送を目的として(昭和4年)に 一部区間が、1932年(昭和7年)に全線 愛知県 現・新城市本長篠駅と 北設楽郡設楽町の三河田口駅が開業し、 生い立ちなどから「森林鉄道」とも呼ばれましたが、1968年に全線が廃止されました。この鉄道の歴史も宮内省まで巻き込む紆余曲折があり、これも一口には語れませんので、下のURLを開いて参考にしてください。戦中にもこの田口鉄道は国有化されず、逆に、国鉄飯田線に乗り入れて豊橋まで直通運転された経緯もあり、車両も飯田線から買い取ってもいました。しかしながら、宮内省の撤退や森林鉄道としての役割を終え、どの廃止路線でも廃止の理由となった、自動車の発達と道路整備などにより乗客の減少が続いて赤字経営となり、台風被害による不通を契機に1968年8月末日で廃止となりました。戦後の鉄道廃止のケースはほとんどが同様の理由であったのです。 全区間22.6km、狭軌で、1500Vの本格的鉄道であったのに、この地域で、その必要はなく「軽便鉄道規格路線」でも十分だった、という声もあったといいます。この時の撮影紀行と歴史と車両については https://drfc-ob.com/wp/archives/4146 をご覧下さい。昭和の時代、戦争を挟んでわずか36年間しか走らなかった路線でした。 |


| 開業時には貨物輸送用電機のデキ53と電3形 (101、102) を新造したようですが、その写真はネットで探しても出てきません。FT氏は昭和41年に訪れていますが、この時は貨物は走っておらず、本格鉄道に相応しい電車がまだ残っていて、その堂々たる車体には驚かされます。これは製作年次は逆になりますが、1929年生まれの両運転台モハ1形です。1938年にモハ10形に改称、更に1938年にはモハ30形に改称され、当日は37号が走っていました。本長篠で田口線の37号に乗り込む前です。(撮影者の行動順です) |

| これも37号です。この日は37号と後述のモハ10形が運用に入っていたようです。これは清崎~本長篠簡電車のようです。この時は清崎と終点の三河田口間は前年の水害以降不通となっていたとのことでした。しかし、本長篠ー鳳来寺ー清崎にこんな素晴らしい電車が走っていただけでもラッキーと言わねばなりません。今なら、全面運休? 清崎駅 |

| 37号で清崎に行くまでの間に、三河海老駅で本長篠行2連と交換しました。この電車は1925年に製作され、田口線では14+15号が走っていました。訪問の翌年の1967年末にはシールドビーム2灯化され、本来の美しい姿は台無しになりました。 三河海老駅 |

| 清瀬までの間に、名刹「鳳来寺」の参詣駅、鳳来寺駅があります。今は飯田線本長篠からバスとなりますが、当時は田口線が接続していたので、電車で乗り継げました。写真は上記三河海老で交換した10形が、本長篠に向かう折り返し運用で停泊していたので、じっくり撮影ができたようです。これもラッキーでしたね。鳳来寺麓駅の立派な駅が不釣り合いに見えますが、鉄道記念物として残したいくらいの駅で、私だったら、あちこち撮りまくっていたでしょう。現在はバス停が残るのみで、車両の解体と同じく駅の取り壊しも残念です。そういう意味ではこれは最高のショットです。 |






| これは中部天竜機関区時代で伊那松島機関区とどう車両の種分けをしていたのかは分かりません。また、ED17 と18の経緯も複雑で、簡単には述べられないので、wikiででもお調べください。 |

| 私の大好きなクモハ42です。本長篠で田口線と並んでいます。この撮影は1966年ですが塗装が貫通口で青色が両側ともRしておらず、貫通扉上部も青で塗装された、スカ線のオリジナル塗装であったこと、さらに幌が垂れ下がらないように、幌を支える本体前面に接続して出ていた鉄製の幌枠が重厚さを醸し出していました。私の一番好きな電車でした。 |

| これは昭和37年、修学旅行電車「ひので」から撮った豊橋機関区です。まず、飯田線の電車の塗装が、このときは塗分けも色も独特です。そもそも関西生まれのクモハ52は、ベージュに茶色という画期的な塗装で驚かされましたが、その後、飯田線に来ても数回、色も塗分けも変えられています。調べてみると、どうもこの頃は「湘南色」だったらしいのですが、私の記憶からいうと、もっと地味な(湘南電車は派手でした)カラーだった様に思います。ただ調べてもその塗装は出てきません。 流電のみならず、他の2扉車も同様の塗装でした。 どなたかご存じの方はご教示ください。なお、左の茶色の3扉車は、ひょっとすると屋根上の水切りほか、外観的には田口線の30形に酷似していますが、どうだったんでしょう。 |
