
私の古い時代の写真で未掲載をこの場を借りて貼ろうと
思っています。特別にページを作る必要もなく埋もれて
いる昔の写真を、次回の「団塊世代の思い出写真」再開
までの繫ぎとして 幾つか出してみたいと思っています。
若い方でも十分撮れた写真ですが少し選んでみました。
①小野田線旧型国電

目的は本山支線のクモハ42です。短い盲腸線走る、日中はわずか1本というこの貴重な電車です。朝夕はそれでも2本はありましたが1泊して
撮る気にはなりませんでした。私が九州の蒸機を撮り行くときには、寄り道した時もありますが、当時は警戒色が前頭に塗られていました。

終点の長門本山駅から少し歩くと、緑の藪に囲まれたところもありましたが、とても暗かったので背景に家並みはありますが開け
た場所を選びました。車体も黒いので良い写真にならなかったと思います。この駅では数時間昼寝をするので慌てずに戻れます。

夕方まで数時間が退屈です。無人駅の周りには何もなく、運転士さんも一人雑誌を見ていました。木製の座席も傷みが酷くモケット
も擦り減っているのがわかります。傷だらけの床も木製です。窓がシートピッチにぴったり合った20mの細窓ズラリは壮観でした。

夕刻になると人の気配が漂い始めます。1990年末で、真っ黄色の警戒色は消され、代わりに無造作に旧塗装に戻されましたが、いかにも
塗りたてのベタベタ感丸出しで、前パン側のカッコよさもなくなっていました。バックの建物の向こうは瀬戸内海が広がっていました。

これは1960年末に、九州の蒸機を撮りに行ったときに立ち寄って警戒色を目で確かめてみました。どの車両も原形をとどめていましたが
当時は、安全柵も何もない路線で、なぜこんな意味のない黄色いマスクを全電車に施したのでしょうか。美しいクモハ41が台無しです。
②野上電鉄

1970年代、紀州旅行をしたときに、まだ5窓で流線形の阪神車がいると聞いて、途中紀勢本線「海南駅」で下車、野上電鉄を訪れました。
野上電鉄のホームへは、国鉄からの連絡通路があり、野上電鉄の「日方駅」はあずまや風の古い駅だった記憶があります。もう皆さん沢山
撮っていらっしゃるので、電車の説明よりもこの野上電鉄の当時の印象を書きます。 1970年代は 貨物列車が廃止され それまで赤字で廃線
申請をしていたこともあって、電鉄職員の対応が、極めて異常だったことを思い出します。何を聞いても無愛想、「切符は持っているか」、
「ホームから絶対に降りてはいけない」などなど一つ一つの安全注意ではなく、無礼な警告の様に発していたことだけ強く印象にあります。

そうなると、写真撮影は駅以外に限られます、ここは有名な撮影地の竜光寺前を出発するモハ25とモハ23の2連です。とても心が和みます。

これは、その出発列車の後追いです。上の写真の25形は阪神からの譲渡車、23形は阪急からの改造車です。外観はよく似ています。

これも日方駅を去る前にホームから望遠で撮った1枚です。普通の常識では、赤字廃線の場合も「今までのご乗車ありがとうございました」
という気持ちを乗客に対して持つべきで、確かに職員の不安な気持ち(のちには給料支払いも滞った)は分かるのですが、かつて全国の廃止
路線前に、これほどいやな思いをしたことはありませんでした。それでも1970年後半であっても、どの車両も美しく、とても魅力的でした。
③御殿場線気動車

御殿場線・山北~谷峨間には国道246号線が併走していていますので、上り勾配ではありますが、自転車で近くまで行くことが可能でした。この間、酒匂川を
くねりながら3回渡ります。当時は河原に降りることが出来ました。 これは第一酒匂川を渡る沼津行のキハ51の3連です。 昭和39年 撮影

当時、今と同じように小田急のDCが御殿場まで乗り入れていました。普段は1両なのに、この日は2連でした。5000形と5100形がありましたが、窓配置が
違うので手前が5000形、後部が5100形かと思われます。 5000形登場時は 小田急標準色の濃紺にオレンジ色のツートンでしたが、間もなくクリームと臙脂
の帯に変わりました。この列車は小田急線内は「特別準急」、御殿場線内は国鉄の「準急」扱いになりました。「特別準急」とはどういう運賃系体だったの
でしょうか。松田から御殿場までは無停車だったので、全て御殿場まで行く乗客だけだったのでしょう。よくわかりません。 東山北~山北

ここは文字通り「第三相沢川です。正確には5000系は殆ど撮っていません。

今は春には桜の名所となる山北の切通しですが、このころは、桜の木は殆ど見られませんね。これも5100形です。

ここは第2酒匂川鉄橋です。奥が246号線です。今思えば、このツートンのキハ51も沢山撮っておけば良かったと後悔しています。

これは私の家の近くを走る5102号最終増備車です。ここは間もなく土地買収が始まり、今は地下線路になっています。懐かしい情景です。
④![]()
正式のお召指定の61号機ばかり追っていたので、60号機の写真は少ないです。
それにしても 70年には前窓Hゴム化され、車体も廃車覚悟のベこべこも構わず
ロングランの荷物専用になっていた元お召予備機。偶然に来た時に撮るという
私も粗末な扱いをしていました。昭和37年に東京駅で撮った写真が唯一の原形
写真となってしまいました。 引退時は最後の華を咲かせてあげたかったです。

酷い外板になっています。ブルトレの間に上京して来ました。 湯河原

ここはなんと南武支線の八丁畷のホームから400ミリで撮ったものです。
パレット車を数両牽引していた、わびしい時代です。 昭和46年

これは広島駅で早朝撮った、下り下関まで牽引の荷物列車です。これだけ長距離を走らせれば傷みも早いでしょう。

再掲になりますが、60号機の名誉のために、美しい時代の姿を貼ります。ただこれも荷物列車でした。 昭和36年 東京駅
ついでに

このHPには載せていませんが、20系「銀河」牽引の宮原の華だった53号機です。フィルムが変色しているのとピント合わせが間に合わず
手前すぎたので割愛しています。どういうわけか53号機の銀河は、3枚しか撮ってないのに、いずれも出すに恥ずかしい写真ばかりです。
⑤昭和36年の田町電車区

昭和36年、 仲間と田町電車区を訪問しました。151形はいたのですが、愛称のアクリル看板が外されていて、格好がつかない姿
だったので、ここは名古屋特急の「おおとり」を出します。これも大収穫でした。 出発前に手作業で洗浄しているところです。

これもいました。電車区訪問は11月なのに、中京地区からの「こまどり」修学旅行電車は走っていたのでしょうか。 これは155形
とは大きく違い座席は一般用にも使えるように153形同様に2-2座席となり、車内空間が広がりました。外観ではベンチレーター
がグローブ型から押込型に変わっています。 関東地区の団塊世代は2-3座席で、とても窮屈な車内でした。 形式も159形です。

電車区のちょうど真ん中辺りにデポットがあり、その前に木造車の終焉を飾ったクモエ4300号が停まっていました。
パンタは下げていましたが、まだ走れそうな状態でした。今なら隅々まで撮ったのですが、場所も狭く肝心のサイド
が撮れず今にして思うと、もっとディテールを撮っておくべきでした。1960年初頭まで現役のようだったそうです。

登場したばかりの画期的電車157形もいました。これは当時(36年11月)臨時特急「ひびき」と準急「日光」に使用されていて
閑散期のため数編成がいました。そのためか鉄製のヘッドマーク枠は取り付けられていましたが、マークはありませんでした。
「ひびき」が特急で「日光」が準急というのも格差がありすぎのように思いました。マーク入れの枠上には蛍光灯がありました。
これもついでに

ほとんど関心のなかった「おおとり」でしたが 新幹線開通(昭和39年)に伴い
なくなるというので 根府川まで撮りに行きました。次の職場の関門トンネルを
渡るためのホース・ジャンパ栓で前面のスカートに孔があけられていました。
⑥20系ブルトレとEF58の急行
未掲載の東海道線列車補遺

朝に続々上京するブルトレで、EF65P牽引の20形寝台「富士」の時代です。普通に撮っていましたが、やはりへたくそですね。
とにかく新幹線は開通したものの、朝の上り東海道線は通勤電車も含めラッシュ状態でした。 保土ヶ谷~戸塚

今では信じられない光景の、多摩川の六郷鉄橋です。何回か行きましたが、いつも天候が優れず、綺麗な写真が撮れませんでした。

夕刻、西下する「はやぶさ」です。ただこれは一体どこで撮ったのか全く記憶がなく、このHPにも載せていません。手前は貨物線です。並行していて
且つ、まだ日没前ですから、おそらく大船の手前です。新幹線開通後は、逆に足しげく東海道線の優等列車を撮りに行きました。昭和40年頃です。

これは、素晴らしい編成の優等夜行列車の一群であるひとつの急行「出雲」です。牽引は大窓原形の25号機です。宮原か、浜松の頃だと思い
ますが25号機の履歴が分からないのが残念です。昭和40年はどこにいたんでしょうか。あっ、これ再掲でした。ま、いいか。保土ヶ谷~戸塚

これは昭和39年新幹線開通前に撮りに行った根府川でのEF58 牽引の熱海行きです。
近郊列車なのに東京機関区のEF58の牽引列車です。 電車が足りなかったんですね。
⑦
1970年代 私のお気に入り写真です
(本ホームページには未掲載)

485系、絵入り前の幕式ヘッドマークの「やまばと」です。 岡本~宝積寺

583形の「みちのく」時代です。薄いクリーム色が太陽光に反射して見た目は美しいのですが、モノクロ時代は写真にするとカチッとは出ませんでした。 土浦駅通過

これも同様に空のほうが黒く出ていて、車体がはっきり出ません。ここで奇跡的に、上り下り同形式同一列車がすれ違い、瞬間にシャッターを切りました。 大宮~蓮田

長野からのL特急「あさま6号」が上野駅13番線ホームに到着しました。ここだけ真正面の高い位置から撮れました。車内の売り子さんも引き上げます。
⑧深い山間を行くDC 2題

御殿場線はいつも河原からの写真が多かったので、一度、手前のトンネルの上から撮ってみました。旧東海道線の複線の後が
左側のトンネル跡によってよくわかります。C51や主役だったD50の力闘が想像できます。往年の大幹線でした。 山北~谷峨
これは少し前の写真ですが、色が見えないと意味がない写真ですので、これのみカラーで貼ります

いつのまにか廃線となった岩泉線。茂市を午後に出る貴重な列車は、約1時間かけて押角駅
に到着します。楽勝で順光で撮れると思っていたら、周囲の山影がどんどん線路に押し寄せ
結局ここの部分しか陽が当たらくなりました。戦中に鉱石利用のため敷設された路線ですが
廃止に至るまで赤字の路線でした。この1枚が撮れただけ良し、としなければなりません。
有名な撮影地ですが、 こんなに陰影のはっきりした写真になるとは思っていませんでした。
