
第3弾 その3
驚きと懐かしい写真が続きます

| 兵庫県にあった明延鉱山は、スズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈を有し、特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。 その明延鉱山で産出した鉱石を 神子畑選鉱所に運搬するために、1912年(大正元年)には5.75 kmの鉱山列車である明神軌道が運行を開始しました。戦後まもなく旅客輸送も開始し、1円という乗車賃で乗客を運んだことから一円電車という愛称が付いて、今日に至っています。有名な一円電車は多くのファンが訪れ、ネットでもこの鉱石運搬軌道の写真は出てきますが1960年代の活況を呈していたころには、明延の人口は4000人以上だったといいます。ただ地理的に、とても不便な乗り継ぎをしなければ明延に行くことが出来ず、むしろ閉山後の観光写真が多く、実際に稼働していた時代の写真は少ないのに驚きます。この写真の撮影者のFT氏の訪れた1969年は、どの写真を見ても車両はボロぼろで、よく人間が乗れて搬送できたものだと驚くくらいです。実際それだけ、レストアもされず、使い古された車両ばかりだったのでしょう。当時の監督官庁はどこだったのでしょうね。所有者は三菱財閥でした。今は、車両も見事に奇麗になり、路線はもとより各設備やインクラインも復元され、ガイド付きツアーも催行される有名地になっています。 ただ1960年代には、こんなに酷い車両と設備だったことが実証される貴重な写真ばかりです。客車の写真はもちろん実物通りで、よくこんな車両が許可されたものだと驚くばかりです。 |
| ★折角撮影者は、不便で、とても危険なところまで行ったのですから、もっとコンストラクチャーや、インフラおよび街並みや働く人々も撮っていたら、貴重な資料となったと思っています。 |
| ご覧いただいている方も是非、ネットで調べていただいて、一体この鉱山と鉄道はどこにあったのか、ご自身で調べていただくと写真のイメージが増すこと請け合いですし、今日の復元され観光地化された当時との比較が、明快に分かると思います。 |


| ここはインクラインから恐らくホッパーで、右側に並んでいる貨物車に落とし込み、それを神子畑選鉱所に運んでいたのでしょう。選鉱所とは何かを調べるのも勉強になります。貨車群と左の電気機関車は主役なので、しっかりした造りに見えますが、真ん中の電車(一応電車)は酷いですね。 |

| これは、関係者も、また所用で神子畑に出る人も守らなければならない、注意書きです。警告板もあったようです。 |





| それにしても、人を乗せて走る客車とは思えないほどベコベコで、原形が分からないほどです。しかしながら「くろがね」という愛称板までつけていて、昔はご自慢の車両だったのでしょう。大きく見えますが、とても小さな車両です。窓の鉄格子は、車両限界ギリギリの岩が丸出しの坑道内を走るので、窓から手など出さないように張り巡らせてあります。それにしても汚い。オリジナルは、このURL先に保存されていて、見ることが出来ます。 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/sangyokankyo/shoko/1_1/2703.html |




| どなたか知りませんが(^^) これは「あかがね」に使われた車両のようで、人と比較するとその小ささが分かります。更に、いかにハゲハゲ、ベコベコかも視認できます。手を誤って挙げると、架線に触れて感電しそうですね。600Vでしょうか。こんな汚くなっても、塗装などの手入れはしない様です。(70年過ぎの写真では少しは奇麗になっています) |

| 石炭専用線は、国鉄根室本線芦別駅から南下し、終点頼城まで走っていました。この付近には炭鉱が多く点在していました。この三井芦別炭鉱は1992年に閉山となりましたが、専用線も、後述の坑外ナローも、その後1989年3月には廃線となっています。終焉間近なので、慌てて行った石炭積み出し専用線でした。この時はDD13
タイプのDLが牽引していましたが、私が行ったときはDD503 (1986年に増備された新潟鉄工所製の最新のDL)が使われており、この時点では富士重工製のDD502もいたはずですが、広い構内には見当たりませんでした。 撮影のメインは、むしろ小型ナローで、これは土場で主として木材を搬出するとばかり思っていましたが、見ていると木曽森林鉄道のような木材搬送用の貨車ではありませんでした。一体何を写真の2軸の貨車は運んでいたのでしょうか。晩年のナローは私にとっていまだに謎です。カラの貨車を牽いて、坑内を往来していただけしか記憶がありません。場所は走行写真を除いて全て頼成です。 |




| 上の写真の場所に貨車を一旦押し込むと、今度は分岐線の右側の線路に入り、待機していた貨車を引き出します。この日は新車で入線間もない6号機がずっと働いていました。私は少し飽きてきたのでこの辺で引き返しました。作業員に比べると実に背の低い機関車です。入線間もないので、塗装も汚れておらず、黄色の警戒色で、鉱場内の雰囲気が伝わってきます。 |

| カラの貨車のようで、、これを網の目のように敷かれた間の線路に入り、本格的貯木場に入っていきました。どうやって載せるんだろう? この時は、朝早かったので、土場専用の木材搬送がメインではなかった列車なのかもしれません。 以上、場所は頼城です。 |

| ここが、三井芦別炭鉱専用線で、国鉄芦別駅まで石炭を運び出します。インクラインで運んできた石炭を、これこそ長大なセキに落とし込んで行きます。大きなホッパーですね。DD503 はスノウプラウを取り付け、ライトは雪用に4灯となっています。 (これのみ同年3月の撮影です) |



| 昭和41年夏、私は北海道私鉄蒸機の旅を決行しましたが、ここにいたC58 もどきの機関車には全く関心がなく、予定にも入れなかったので行っていません。一方芦別線では、この美しい気動車が(1958年客貨分離のため)新潟鉄工所製のキハ100形が3両が登場しました。従って私はこの100形には会っていません。送っていただいた写真は101号ですが、とても美しく見えます。前窓にデフロスターらしきものは見えていますが、短距離なのに国鉄気動車よりハイクラスに見えます。この3両は1972年、関東鉄道鉾田線(のちの鹿島鉄道)に譲渡されました。芦別では湘南塗分けだったのですが、鉾田線では、前面は直線のツートンとなり趣が変わってしまいました。私は関東鉄道時代に撮っているのですが、すぐ出てきません(^^)。 西芦別機関区にて |
