70年代後半の飯田線
旧型国電華やかなりしころ
70年の後半になると首都圏では旧型国電は次々に姿を消し、かろうじて鶴見線、南武支線、横浜線、御殿場線に残るだけになりました。そんななかで昔懐かしいスカ色20m車が、一部Hゴム化や3扉化はされていましたが、堂々たるスタイルで走っていたのが飯田線でした。もと流電のクモハ52や、幌つき前パン狭窓ズラリのクモハ42が垂涎の的で、他にも旧国の博物館のように次々に来る電車には、目を見張ったものです。 私は関西生まれの流電には、あまり思いは強くありませんでしたが、スカ線で颯爽と先頭で走っていた、モハ42系には特別な思い入れがありました。従って、撮影はどうしてもそれらの車両が中心となり、飯田線沿線の絶景を入れて撮った風景写真は少なく、今思えばちょっと残念な気もします。 (写真は77年〜78年の撮影です) |
懐かしのクモハ42との対面です。たまりませんね、この姿! スカ線時代は正面の塗り分けが直線でしたが、飯田線では貫通扉脇が丸みを帯びて下に流れています。クモハ42は両運転台のため、どのようにも連結することができ、そのため第1エンド、第2エンドの両方に貫通幌が取り付けられていました。 クモハ43は運転台側は基本的に中に入らないので正面に幌は取り付けられておらず、余り重厚感がありませんでした。この飯田線乗り場は、ホーム入り口が手前にあるので、どこ行きかすぐ分かるよう最後尾車両に発車まで看板が架けられていました。 豊橋 |
駅の反対側(湯谷側)に、異様な岩肌を露出している岩山がありました。 ここも有名な景観なのでバックにして1枚撮りましたが、なんとクモハ53の「合の子」がお尻に連結されていました。これは流電の代用編成だったクモハ43改造車です。ちょうど稲刈りの真っ最中でした。 三河槙原 |
下り辰野行のクモハ43(クモハ53かもしれません)です。伊那松島機関区で運用を教えてもらった車種の一つはクモハ43だったので、たぶんこれはクモハ43です。朝方、辰野に向かう高校生の姿も見えます。このクモハ43のヘッドライトは右に寄っていて奇異な感じがしました。 羽場 |
さて、ここからは撮影地が全く特定出来ません。 これも辰野寄りであること以外は覚えていません。機関区でクモハ43などの運用を見て、手持ちのダイヤとあわせながら場所を決めて待ち受ける、という撮り方でした。 機関区にはその日の列車番号、車両番号、運用が貼り出されていて、それを見せてくれたのです。 それによってその日の行動が決まり、運用によって随時撮影下車駅が変わりました。 |
これも、上記の方法でクモハ43を捕まえたのですが、場所は不明です。おそらく機関区で見た運用をダイヤで追いかけながら撮れる場所(駅)で飛び降りたのでしょう。 |
流電の並びです。右が1次車、左が2次車です。両方とも登場時は張り上げ屋根でしたが、1次車はのちに普通屋根に変えられました。分かりやすい違いは1次車は狭窓、2次車は広窓です。また1次車は砲弾型ライトで、2次車は埋め込みライトでしたが、全て通常ライトに変えられました。 |
古豪の並びです。こんなシーンが日常で見られたなんて信じられませんね。 いつも最後には豊橋のホームで、暗くなるまで撮ってから新幹線で 帰りました。当時は新横浜から豊橋までほぼ2時間で行けたので、日帰りで何回も訪れました。関東近郊の撮影よりもむしろ早く行けたのです。 |
最後に夜のクモハ43です。19時頃に辰野を出れば急行で、その日のうちに東京に戻ることが出来ました。完全週休2日制でなかったころはこのスケジュールの日帰りしかなかったのです。今こうやって見てみると、たいした写真は撮っていませんね。あまりに飯田線の全線が長すぎたため的が絞れなかったことや、目的の車両を思うように捕まえられなかったことが心残りです。 そうこうしてる間に飯田線から旧型国電は姿を消してしまいました。またひとつ、私の心から思い出が消え去りました。このときが最後だったかも知れないクモハ43です。 辰野 |