昭和の首都圏を走った列車①

1960年代の東海道線を主に

 

東海道新幹線の開通前に、父から借りていた蛇腹カメラから、ようやく35mm版のカメラを買ってもらい、大改正前の東海道線を撮ることが出来ました。ただ中学生でロクに技術も持っておらず、且つ露出計は内蔵されていなかったので、これまた当初はいい加減な露出の写真が多く、更に写真店の現像も適当で、なかなかすっきりした写真は撮れませんでした.
 
  
 
 

 
あこがれの151形ビジネス特急「つばめ」です。これは昔からの名列車の愛称で、「こだま」より親しみがありました。パーラーカーが先頭です。



 
 
 
 

 
登場当初の姿です。頭のライトの両サイドにタイフォンをつける前で、連結器もありません。
 

 
 
 
 
 

 
「おおとり」は東海道新幹線が開通する前に、151系の合間運転で東京-名古屋間に設定されていました。これは私たちが中学生の時、4人で
田町電車区を訪問し、自由に撮らせてくれたときの、懐かしい思い出の写真です。しかし中学生をよく入れてくれましたね。  昭和37年
★ここで結構珍しい写真や、名古屋地区専用の修学旅行電車「こまどり」などがいましたが、それは後ほどアップいたします。
 
 

 
 
 

 
これは大阪急行「いこま」の先頭の窓から撮った、上り「こだま」です。1959年、狭軌世界最高記録を達成し、正面にチャンピオンマーク
が取り付けられ
ました。 クハ151-3だったと思います。 ここがどこか調べてくれたファンの高橋様から、当時の時刻表や右背景の山の稜線
 をGアースで調査した結果、ここは 沼津-原(現片浜駅=沼津駅西3km付近)と判明しました。
ご教示いただきありがとうございました。

参考にこの資料をご覧ください。高橋様作成です。凄いですね。急行いこまと特急第一こだまのすれ違い.pdf 
 



 
 

 
下り「つばめ」が根府川鉄橋を渡ります。大型カメラで鮮明に撮りたかったのですが、中学生では到底無理でした。当時は「お金持ちファン」が羨ましかったです。
 
 
 

 
 
 

 
クハ181-3がチャンピオンマークを付けて、根府川駅を通過します。「富士」は39.10でなくなる列車のせいか、アクリルマークがかなり汚れていました。
 

 

 
 

 
上り「こだま」が熱海で上り準急「東海」を追い抜くと言うので、行って見ましたが、それほど良い写真にはなりませんでした。場所と周囲がすっきりしません。
 

 
 
 
 

 
六郷大橋の手前で、下り「こだま」の正面を撮りましたが、全く冴えない写真になりました。
 

 

 
 

 
唯一撮れた、東京駅の品川区回送用特急塗装の「さくら」です。
 
 

 
 
 



 
大阪側にはパンタ付のカニ22が両パンを上げていました。透視式ファインダーの為、いつも頭が切れました。とても見にくいファインダーでした。
 
 
 

 
 
 

 
「さくら」の最後尾はナハフ20でした。寝台列車に唯一の座席車が後部に連結されていました。何時からオール寝台になったのでしょうか。


 


 
 

 
私はもうすでにEF65 P形に替わっていると思っていたら、ファンの方から「これはEF60」と教えられました。よく見ると12号だし通風孔があります。
 
 




 

 
これがはっきりEF60とわかる写真です。独特のカバーを付けた一つ目のヘッドライトが特徴で、遠くからでも初期型だと判別出来ました。 






 

 
素晴らしい157形電車が登場しました。準急仕様で製造されたと言うから驚きです。これは冬季の臨時「いでゆ」です。これで準急とは!!
 

 






これも昭和39年まで走った不定期特急大阪行きの「ひびき」です。定期で157形「ひびき」が走ったのは、わずか1年半足らずです。




 
 
 

 
1964年10月の新幹線開通で「ひびき」は消え、157形は急行「伊豆」に13両編成で充当されることになりました。素晴らしい急行電車でした。

 
 
 

 
 

 
第1(第2)伊豆は、朝は下り、夕方は上りで、順光で撮れるのは、後追いしかありませんでした。両写真とも後追いです。仕方ないですね。 
 
 







「さくら号」のカニ22が64年にはまだパンタを上げていたので、わざわざそれだけのために山に登ったら、下り「六甲」とモロに被ってしまいました。喜ぶべきでしょうか?







根府川トンネルからEH10が顔を出しました。この頃はまだ珍しい存在ではありませんでした。








これも大阪急行だった一つの地味な「いこま」です。走行年数5年の短い生涯でした。「なにわ」がメジャーならこれは実にマイナーな列車でした。





 
 

 
このEF61は高速でEF58の後継であり暖房設備も備えていました。ただ、関西・山陽専用の機関車でこのころ東京地区では電車列車が台頭し、関東地区で
EF61が見られた期間も短く、間もなくEF58に牽引機は変わりました。関東で見られたEF61は急行「霧島」の牽引のみでした。  昭和40年 蒲田~川崎
★ '0年10月8日、上記高橋様から、ここは右の白い「OTIS」建物から推察するに 蒲田-川崎」間(蒲田駅西約1km)とのご指摘をいただきました。厚く御礼申し上げます。




 
 

 
これも画期的な修学旅行専用車で、ヘッドマークまで掲出されています。「ひので」は東京地区限定の京都行で、出発は品川駅でした。  昭和37年
 








中央線や身延線にも入ったのでしょうか?グローブ式ベンチレーターの低屋根でした。形式としては155形です。




 
 
 

 
この159形は155形と類似していますが、一般列車用にも利用できるためのマイナーチェンジをしています。低屋根ではありながらベンチレーター
 は東海形と同じ「押込形」で、さらに両側2名づつのシートに変えられています。臨時列車でありながら1枚の立派なマークが装着されていました。
 


 




東海道線の153形の代表格だった「東海」です。しかもまだ準急時代。高窓が残念ですが。




 
 
 

上り急行「さぬき」です。旧型寝台も数両入っていて、食堂車もあり、豪華優等列車でした。106号機は東京機関区の異色でヒサシ付きでした。
 
 
 





上の地点から保土ヶ谷~戸塚のカーブまで行く間に、特急「さくら」が来てしまいました。貨物線側から反逆光ながら撮りました。



 

 


この列車を特定できません。当時の時刻表を見ても該当する編成は見当たりません。ただ宮原所属なので銀河かな、何だろう。  六郷大橋
 
 
 





デフロスターも付けていない153形の美しい姿です。隣は新幹線ホームの工事中ですが、「宮島」は東海道新幹線開通後は大阪発となって、東京
地区では見られなくなった急行です。「なにわ」のように開通後も大阪行として残った153形の急行もありました。最後なので看板が汚いです。








EF65P形の登場で本格的ブルートレイン時代が始まりました。  東京駅








急行に格上げになった「東海」です。2等車を2両連結して堂々の12両編成。私にとっては大阪急行より、思い出に残る153形名列車です。 昭和40年





最後に




伊豆急行が開通して、伊東から熱海まで名車100形が乗り入れました。当時は行き止まりホームで、今のホームではありませんでした。




 
以上が我々の撮れた、新幹線開通前の東海道線と直後の列車たちです。
続きの「昭和の列車②」は、北方方面を撮った60年代の写真を掲載する予定です。



 
 
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