☆☆ 雌山歳時記 ☆☆
|
・
・ … 前書き …
「雌山」という俳号を畢生のものと定めて俳句をしきりに詠んだ日々は遠い過去となり、今人生の玄冬を迎えて、改めてそれら旧作を顧みたくなりました。 拙作と雖も読み返すと興趣一入…
そもそも「雌山」という俳号は、「雄山」に対置するものとして用いました。「雄山」とは特に産するもののない、物生り乏しい山の意であり、それに対して「雌山」は物生り豊かな山の意です。すなわち不遜にも自尊の意を込めて付けたという次第…
|
★落葉焚 木々が逍遥として葉を落とす冬の日の風の落ちた夕暮れ、赤い斜陽の中、熊手、竹箒を駆使して掃き集めた落葉を積み上げて火を付ける。燻りつつ細く上がった煙が勢いを増して、やがて炎が高く立ち上る。子らはその周りを燥ぎ廻って棚引く煙を身に纏い、夕闇の降りて来る中に揺らめく炎を瞳に映す。やがて投じてあった芋が焼け、それを頬張り尽くせば子らの興味は失せる。深まった闇の中、熾火を見つめるは残された焚火守一人…
わらわらと落葉駆け来る北颪 厭われて邪険にされて街落葉 天焦がす火焚くを願ひ落葉掃く 汝らに絵心無きや落葉掃 見向かれぬ落葉の土を肥やすあり 温むより燃やすがための焚火かな 落葉焚喜怒哀楽をくべてをり 夕焼けで芋など一つ落葉焚 客人の増えて肘張る焚火守 煙たさに方違へする焚火客 一人去りまた一人去る焚火かな 煙香を纏ひ子等去る落葉焚 言の葉の虚しき憎み落葉焚 白目浴びなほ頑なに焚火守 焚火守うしろを通るものありし 消えるまで火の色見入る焚火守 夜明けまで温みの残る焚火跡
落葉掃きは現在の趣味である8枚玉タクマーなどの蒐集や現役デジタルカメラで使えるベローズ装置の蒐集などの、既にその役割を終えていても尚幾ばくかの役を持ち続けている何かを手にすることを表しているつもりです。人によって「落葉」は異なるのでしょうが、それを掃き集め、炎となす姿や愛をし…
★春用意 亭主が若い頃、そう、1970年代のことですが、職に就いたので学生時代とは違って可処分資金に余裕の出たことを幸い、自転車の趣味に耽っていました。乗る楽しみもさることながら、機材に対する思い入れも嵩じて、次から次へと様々な機種を何台も入手したものです。折から「輪行」なるものも始まっていて、そのための自転車も神田の自転車店から入手しましたし、丸タイヤのロードレーサーも三田慶應大学前の店で手に入れました。 自転車はフレームに部品を組み付けることで成り立っていて、その組み付け部分の寸法は規格化されているので、部品の組み合わせは多様かつ自在なものがあります。当然使用部品のグレードを上げたくなるのが人情というものでしょう。当時高級とされていた部品の収集が興味の中心に座りました。 国産の部品も急速に高性能化、高級化が進んでいた時期ではありましたが、なんといっても欧州のものにはそのブランド力で差がありました。特にフランス製はその性能品質はともかくとして、ブランド力は昔日の輝きを纏っていました。それに目が眩んだのが亭主です。 レースに使われる機材がブランド力を持つのは古今不変のことで、当時はイタリアの製品が最も力を持っていました。「オールカンパ」というのがスポーツ車の最高ステイタスであった時代です。これは「カンパニョロ」の製品をすべての部分に使うという意味の言葉ですが、これ が呪文のように唱えられていました。資金力が上がったといっても薄給の身では、とても「オールカンパ」は実現できません。そこで目が向いたのが前時代の覇者フランス製です。 東上野にある自転車店に外国製部品の品揃えが多いのを知り、そこを頻繁に訪れる時代が続きました。店主に顔を覚えられ、入荷予定情報なども教えてくれるようになりました。
ところで、フランス製部品の場合、注意が必要なのは規格がメートルのものがあるということです。ハンドルバーの太さなどがそうです。日本の自転車規格は世界標準であったイギリスのものを援用して始まったことがあって、「インチ」が基本です。反英思考が常態であることから独自規格としたネィテブなフランス製では組み付けることが出来ません。イギリス規格で作ったものでなくてはならないのです。当時の有力商社(確かパターソン)のおかげで日本に輸入される部品はイギリス規格で作ったものなので問題はありませんが、フランス本国で流通しているものを入手して持ち込むと合わないことがあります。そのころヤマハがプジョーの完成車を直で輸入して販売したことがあるのですが、これがすべてフランス規格だったというのは、笑い話では済まないことでした。ヤマハの担当者が自転車の規格に疎かったのだろうと思われます。
欧州製高級部品を入手していたのは、それを使って自転車を作る「夢」のためでもありました。体力能力分不相応なレース用の尖がったロードレーサーではなく、「スポルティフ」と呼ばれる趣味性の高い高速旅行車です。タイヤやリムなどは耐久ロードレース用の太目で頑丈なものを使い、別にW/Oも 遠出用として700C×32を用意しました。ブレーキの微調整で両者は互換可能なのです。それが可能なクリアランスにも設計しました。 多くの部品をレース用のものとするのですが、泥除けと簡易な荷台は必需品です。それらの部品を可能な限り台座直付けする工作をフレームに施したものを目指したのでした。そのフレームは管素材銘柄はもとより、各部寸法を指定して作らせるというフルオーダーメイドが可能でしたから、そのための図面引きも日々の楽しみの一つでした。当然、各規格にも精通するべく資料をあれこれと収集して研鑽を重ねたものです。リムとスポークとハブで出来ているホイールの組立など、各部品の組付技能も一応マスターしていましたし、そのための特殊工具も入手していました。自分で部品から完成車を完璧な状態に組み上げることは出来ていました。そのまま嵩じて行ったら、退職後はオーダーメイド自転車店を開いていたかもしれません。
しかし、乗るよりも見せる方に主眼を置いた自転車というのは使い難いものです。亭主が大枚をはたいてオーダーした「スポルティフ」は亭主の固定観念が災いしてかなり乗り難いものになりました。その一例として、低速でペダルを踏んでいると大きく舵を切ったときに泥除けと足先が当たるときがあるのです。高速でそんなに舵を切ることはありえないので障害とはならないのですが、街乗りでゆっくり街角を曲がったりすると気を使います。ペダルを漕がなければいいので、当たって転倒することは無いのですが、気を使うだけ疲れます。 クランク軸を高くして且つ前輪軸と近づけたのは、そうすると踏み出しが軽くできるという情報を真に受けたからです。たしかにその感じはあるのですが、トラックレースじゃないので使い易さの方を取るべきでした。交差点で信号停車時 の足付きに難儀する始末です。頭でっかちは落とし穴に気づかないという典型… 亡き父が「家は三度建てないと気に入ったものにならない」という俚諺をよく口にしていましたが、自転車のオーダーメイドにもこのことがよく当てはまります。昔の人は賢い…
この時代に集めたカンパニョロ、ユーレー、サンプレックス、マハック、ストロングライト、TA、スーパーチャンピオン、マビック、ブルクス、イデアルなど欧州製を中心とした高級部品は、1980年初頭に家を新築して現在地に引っ越すと裏庭に置いた物置で埃を被ることになりました。まだ若くして庭付きの家を、しかも当時の住宅金融公庫融資対象延床面積のリミット超えのそれを持つにはそれ相応の 工夫と出費があり、また次々に子の生まれるのにも追われて趣味どころではなくなったのです。立地が武蔵野台地の端で、どこへ行くにも急坂を下らなければならないということもそれを大いに助長しました。下った坂を上らねば家に帰れないのですから…
裏庭物置の暗がりで永い雌伏の時を過ごした欧州製高級部品たちに陽の光があたったのはネットオークションの台頭です。普及の始まったケーブルテレビを導入したのと共に、常時接続のネット界に亭主も遅まきながら参入して、埃を払って出品を重ねました。結局、それらの入手時に散じたときの平均5倍を超える元手を得て、これらを今に続くカメラ関係機材購入に振り向けることが出来たのです。何という僥倖… 物を集めるという行動は、人類に、特に雄に顕著な本能行動のようです。この本能が人類を数多ある「種」の頂点へと導いたものと言えるのでしょう。亭主にもその傾向は強いと自認しています。資金力だけがその欲望を律する頸木というところです。あと、山の神の眼光も… 亡き母が「鼠年は爪で拾って箕でこぼす」という俚諺をよく言っていましたが、けだし名言…
がらくたを爪繰り寄せて春用意 生きて来た証ぞ孫の千歳飴 これまでと悟るほかなし皮衣 落葉踏む一足毎のしじまかな 鶏鳴の待たるる闇や冬の雨 牙抜かれ爪砥ぎしをり虎落笛 来ば来よと奥歯噛締む北颪 小春野に蹌踉ふ影や蜆蝶
この文を綴っていると、頻りに自転車に乗っていた日々のあれこれが澎湃として甦って来ました。その詳細の多くは零れ落ちているのですが、そんな中により濃く思い出されるものがあるのが不思議です。前頭葉大脳皮質の記憶保存性能の不思議… 亭主が離れていた自転車趣味に復帰したのは、三田の慶応義塾門前の「山王スポーツ」を10年ぶりぐらいに訪れ、ロードレーサーを注文したことに始まります。 それは1972年だったと思います。生噛り国粋主義者だった当時の亭主は、国産の高級部品で組むつもりで行ったのですが、折から急速に自転車ブームが進展していたアメリカへの輸出に取られて、杉野のクランクとチェンホイルは予定していたそれが入手難であり、フランスの良いものが入っているからそれでどうかと店主の高橋長敏氏に言われ、すぐに妥協してしまいました。無い袖は振れぬ… たしか「エミネンザ」というブランド名のフレームで、コンチネンタルラグと剣先がメッキ、塗装はキャンディブルーという派手なものでした。直付カンパエンドに取り付けたデレイラーは前田のサンツアー・セットで、スラントパンタの良さをこれで知りました。 ハンドル・バーは日東マースですが、ブレーキ・レバーはアメゴムバッドのユニバーサルで、これは手の小さな亭主には使い難いだけでした。センタープル・ブレーキもユニバーサル…
後日組み上がった自転車を受け取って帰路についた途中で、チューブラータイヤの後輪がパンクしたのです。路肩に落ちていた切り子を踏んだのだと思います。この時代、旋盤切削屑がよく散らばっていました。本当は空気圧が少なかったのかもしれません。 丸タイヤはこれでもかと入れるのが必須と いうことを知らなかったのです。 店主が予備の丸タイヤを赤いチネリのサコッシュに入れてサービスだと持たせてくれていたので、さっそく修理に取り掛かりました。ところが新品のタイヤがリムに嵌らないのです。一時間近く格闘してようやく嵌めることが出来ましたが、力を入れ続けて指はブラブラになりました。「SOYO」という国産の丸タイヤだったのですが、これは使っているうちに伸びるので少し小さめに作っているらしいのです。新品は嵌める前に肩にかけて足で踏んで思い切り引き延ばすことが必要だとはそのとき悟りました。しかし、その後使ったイタリア製の丸タイヤはどれも新品でもすんなりと嵌り、使っていて伸びる気配も感じなかったので、技術力の差があったのだと思います。継リムもイタリア製(確かミルレモ)だったので、製造誤差があったのかも…ハブはノルマンディ・ラージフランジ36H120mm巾… 丸タイヤのパンク修理はタイヤカバーの内側を縫い合わせてある糸を切ってチューブを引き出し、穴を塞いでから再び糸で縫い合わせるというものなのですが、当時の亭主はそれをするほどのスキルを持ち合わせておらず、それに穴塞ぎのパッチゴムによる膨れを嫌ってイタリア製(確かユッチンソン)の新品を入手しました。それ以来、丸タイヤでのパンクは一度も経験していません。あまり走らなかったからかも… このロードレーサー、出だしのパンクがケチの付き始めで、すぐにクランク付近から異音が出始めたので点検すると、右のハンガー小物が緩んでいました。これはクランク軸のベアリング受け金物のことですが、 逆ネジのそれを何とか締め付けている時にストロングライトの5アームクランクが左右で長さが違っているということを見つけました。右が165mmで左が170mmなのです。 相当に腹を立てて「山王スポーツ」へ持って行くと、店主はばつの悪そうな顔をしながらも左クランクを165mmに付け替えました。それ以来、この自転車店の技術力に対する信頼は地に落ちました。仏の顔も三度… その後、多摩川土手サイクリングコースを走っているときに、群れていた人陰から現れた対向車と衝突してフォークとフレームが歪んでしまい、部品取りの資源と化してしまいました。お釈迦…
定期購読するようになっていた雑誌「ニューサイクリング」が当時の数少ない情報源で、これに導かれて神田の「アルプス」にて「輪行車」を入手しました。まだそれほどのめり込む前で、素朴に「輪行」がしてみたいという動機からですから特に機材に凝るという気もなく、資金の制限もあって標準的なモデルを入手しました。ハイテン鋼のラグレス・フレームの色は暗めのオレンジです。 ブレーキはマハックのカンチレバーで、台座は当然直付けでした。輪行のためにフォークが抜き易い仕掛けがしてあり、これが「アルプス自転車」の売りでした。前輪を付けたままで抜いたフォークと外した後輪でフレームを挟むので外形は小さくなります。それを専用の袋に入れるのです。重さは 〆て15sぐらいでした。少し後になってもっと深くのめり込んだ時、クロモリフレームの上級車種にしなかったことを悔やんだものです。もう少し資金の工夫をすればと…
この車で色々なところに行きましたが、当時は電車や列車に持ち込むのが面倒で、有料手回り品の切符を買わねばならなかったのですが、それがどこの出札窓口でも売っているのではなく、国鉄は貨物窓口に行くことが多かったのを覚えています。 一番の遠出は黒磯駅で降りて衆人環視の中で組み立て、那須高原を走って塩原温泉を目指し、そこから初冬の紅葉ラインを越えて川治へ下り、鬼怒川温泉を走り抜けて亡き父の実家へ一泊するコースです。通勤ラッシュの終わった上野駅から東北本線に乗りました。 黒磯から塩原温泉まではそれほどの登りではなかったのですが、紅葉ラインは完全な山岳道路です。途中何度も休んだり、押して登ったりもしました 。ここは有料道路ですから自転車でも金を払いましたが、受け取った領収書の番号が随分と若いものだったのを覚えています。確か二桁前半…ここを自転車で走る物好きは、そのころは少なかったのです。ようやく高原山の峠に着いたときは達成感でいっぱいになりました。そこから川治までの九十九折は一気に下りました。途中 九十九折れの道を恐る恐る走っている車を何台も追い抜いたものです。峠の休憩でジャンバーの下に新聞紙を詰め込んでいたので、風を切る寒さは凌げました。それをしなかったら凍えていた… 川治温泉から鬼怒川温泉の渓谷沿いを走り抜け、高徳から矢板方面へと走って父の実家に着いたのは午後3時頃でした。まだ走り足りない気がしていたので、探検を兼ねて周辺の農道をかなり遠くまで走り廻っているうちにつるべ落としに陽が落ちて、田んぼの中の畦道は車輪に押し付けて回す フランス製のちやちな発電機の僅かな明かりではえらく心細かったのを覚えています。 それ以後フロントキャリヤを交換して、直付台座に取り付けた単一三本のフラッシュライトは必需となりました。 翌日、目覚めると嵐でした。帰宅を諦めて一日逗留し、その翌日改めて帰宅の途に就きました。冬の嵐の翌日ですから強い季節風が吹いています。良く晴れた温かい日差しを正面に受けて、背後からは冷たい北風が襲ってきます。このときの宇都宮の駅までの疾走は快適そのものでした。ずっと緩く下っている道は踏むペダルに抵抗感がなく、最後のギャを使ってくるくると回して疾走しても前からの風の抵抗を感じません。このときのような長丁場をこんなに楽に疾走したことは以後ありませんでした。
この輪行用自転車も最初からの部品は輪行用の特殊部品だけになったというぐらいに付け替えました。それの調達に各地の自転車店を経巡ったものです。その頃は本当に高級国産部品が枯渇していて、その製造のほとんどを急激に増大したアメリカ輸出に振り向けていたものと思われます。城南地区や川崎、横浜の名の知れた自転車店を虱潰しに回りましたが、求めていたものを在庫している店はまるでありませんでした。そんな中で、品川区のかなり寂れた店で杉野プロダイの5ピンコッタードクランクと28Tの付いた特殊アダプターで構成した3段チェンホイルの店晒しを見つけ、それが元から付いていた杉野フロントエース2段を押し退けて輪行車を飾ることになりました。本来はコッタレスのプロダイ・クランクと3段チェンホイルが希望だったのですが、よりマニアックな品を入手した歓びで充たされていました。 この時にはクランク軸もコッタードの3段用に交換しなくてはならなかったのですが、これを入手するのも大変なことでした。2段用ならありふれていたのですが、ようやく横浜岡野町の店で手に入れました。コッターピンも上等なクロームメッキ製をここで買ったと思います。組立にはコッターピンのテーパをヤスリで削って 直線精度を出したりと結構楽しんだものです。この店には28Tの付いた5ピン用特殊アダプターが入口脇の壁面に掛っており、迷わず入手しました。貴重な予備と思ったからです。 ところで、コッタービンは普通木槌などで頭を打ち込んで組み立て、お尻のネジにナットを締めて外れないようにしますが、外すときにはナットを外してお尻のネジ部を木槌などで叩いて抜き取ります。これはあまりスマートではないと思い、頭の部分にもネジを切ってナットを止めているタイプの外国製(確かTA)が欲しかったのですが、ついに手に入れることは出来ませんでした。このタイプならナットを締めこむことでコッターピンを抜くことが可能なのです。
リヤ・デレイラーもサンプレックス・プレステージから同・クリテリウムに付け替えました。主要部がデルリン製の両者はほとんど同じなのですが、各部に使われている金具のメッキが後者は上等なのです。サンプレックスがこの輪行車に使われたのは、そのダブル・テンションという構造がワイドなギヤ比や輪行袋に入れる時のチェーンの処理に向いていたからだと思います。フロント・デレイラーはサンプレックスのスライドシャフトから前田サンツアーのスラントパンタに変更しました。この良さに惚れ込んでいたからです。 ブレーキ ・レバーはマハックのギドネットに替えました。ランドナー・バーにはこれが一番と信じたからです。650Bの車輪もスーパーチャンピオンの中空リムに替えました。タイヤもユッチンソンの42Bにしました。ハブは三信のラージフランジ、フリーはサンツアーにして、替刃を色々と取り揃えてギヤ比を工夫したものです。 ちなみに、当時のデレイラーの最高峰カンパ・レコルドはシングル・テンションで狭いギヤ比しか使えなかったのです。レース用ですからワイド・ギャ比は不要という割り切り方でした。サンツアーもシングル・テンションです。パンタグラフ部を横に寝かせて、しかも斜めに作動するように工夫した優れものでした。多段フリーの段差に沿って動くイメージです。造形はカンパ・レコルドの方が確かに美しいと思うのですが、機能は明らかにサンツアーの方が上でした。 後に後発メーカーであるシマノが「クレーン」という高級モデルで採用したのがレース界の世界標準となっていた「カンパエンド」に付けられるダブル・テンションでパンタグラフが斜めになった機種で、サンプレックスとサンツアーの良いとこ取りの機構です。結局これが後に 「デュラエース」というブランドの統一コンポーネントとしてロードレースの世界を制するものになりました。その代わり、先発高級部品メーカーのほとんどが消え去ることに…
それら自転車店彷徨の中で知った東上野の横尾双輪館で様々な高級部品を入手し、店主の人柄を良しとしてロードレーサーのフレームやフルオーダーのスポルティフを買いました。その時の完成車などは今も裏の物置で埃を被っていて、山の神の顰蹙を買っています。早く処分して場所を空けろと…
★柿 秋は何といっても果物。種々ある中でも子規も詠める「柿」はその姿、色、味に惹かれるものあり…
木守(きまもり)を望めど羨(とも)し柿簾(かきすだれ) 木守柿(こもりがき)群(むれ)鵯(ひよどり)の陽よ陽よと 非よ否よの鵯に問ふ吾(われ)愚か 天の時未だ熟さず柿落つる 柿色に柿麗しき入日かな 柔らかき柿好ましと媼(おうな)笑み 顔背け俺は違うと柿齧る 渋柿や同じ顔した人の群 柿たわわ隣の人は燻(ふすべ)顔 熟柿(じゅくしがき)輩(ともがら)数多地に落ちて 毬(いが)爆ぜて思ひの種の顕るる 繰言の多くなる身で栗食みぬ 目交(まなかひ)に消(け)ぬを噛締め栗御強(くりをこわ) 憶良へのオマージュ 子のねだり横目に聞きつ栗食みぬ 香の立ちて気の引き締まる青蜜柑 かき… 秘つ事柘榴(ざくろ)の熟れて顕れぬ 山姫の設(ま)けたる宴(うたげ)山葡萄 野に木通(あけび)摘み食らひて口拭ふ マルメロを花梨(かりん)と言へり諏訪の人 唐黍はハモニカよりも音の多し
柿は生食以外にも加工して食する果物です。甘柿と渋柿があるため、生食は甘柿ということになりそうなのですが、渋柿でも渋抜きの手間を加えれば生食することが出来ます。近年の南関東の店先に出回る生食用柿は、この渋抜きの「ひらたねなし」がほとんどです。特に佐渡産の「おけさがき」がよく店に並びます。和歌山産も近頃多い… これは種がほとんど入っていないので食べ易く、甘みも強いので普及したのでしょう。一時は勢力を伸ばしていた甘柿の「富有柿」は勢いが衰えている感じです。 渋柿の食べ方では干柿が代表的でした。皮を剥いて紐で括り並べ、軒先などに吊るして乾燥するのです。その乾燥の仕方や程度などで出来上がりが様々で、枯露柿や市田柿など地方によって様々な名称で呼ばれています。その干柿の作り方の一つにすだれ状にして掛干すものがあり、それは柿簾(かきすだれ)という季語になっています。 この干柿は飢饉のときの救荒作物でもあり、冷害に備える北日本の農家の西庭には数本渋柿の大木が植わっているのが常でした。その高い梢近くの実は取り残されて、冬支度の鳥が啄ばむに任せました。これは「木守柿」という季語になっています。 この干柿を餅に搗き込んだ「柿餅」というものがあり、その美味は懐かしいものです。亡父の実家が江戸期以来の農家で、この柿餅を作ったのです。それを年末に送ってもらったのを正月に火鉢の炭火で焼いて食べたのは忘れられない味です。
胡坐してゐろりの灰に事訳(ことわけ)ぬ
雌山亭西庭に「次郎柿」という品種の甘柿の木があります。1980年4月に家を新築してすぐに植えたのでもう三十五年を越えました。しかし、この柿の木、実成りがすこぶる悪く、あまり収穫することが出来ません。山の神は邪魔だから切り倒してしまえと宣いますが、毎年よじ登って剪定を重ねてきた身としてはいささかしのびません。
三人でつい四つ割に次郎柿
次郎柿というのは四角い実で、十文字に浅い溝が入っています。その溝に沿って包丁を入れたくなるのは人情で、ついそうしてしまいます。この句はその機微を詠んでいますが、三と四と次 、すなわち二と、数字を上中下に配したところが談林俳諧的と手前味噌…
毎年庭木の剪定は亭主の役割で、切り屑がトラック1台分ほども出ます。素人庭師の仕事ですから見てくれは三の次以下ですが、これをしないと徒長枝で日当たりが悪くなるので欠かせません。素人の仕事のせいか、翌年の徒長枝は半端ではなく、悪循環ではないかと疑うこと頻り…
★涼あらた 亭主が「PC」に手を染めたのは40歳台に入ってからで、本格的に使うようになったのは「Windows3.1」が発売されてからのことです。その発売日1993年5月12日に秋葉原でNEC版を調達して当時の職場の 「PC98」にインストールしたのが始まりです。同時に導入した「Excel4」とのめぐり逢いがその後の亭主を作りました。 表計算ソフトの存在は知っていましたし、DOS版の「Lotus123」をいじってはみるものの、その使い勝手の悪さに挫折していたのです。しかし、Windows上で動くExcelは全く別物の使い易さでした。職場のPCに発売されたばかりのWindowsを購入して勝手にインストールするなどというのは、亭主がそのときその独立小組織の実質的な運営者であったからで、予算制度上からも他の部局ではありえない事でした。それからの亭主は、他の者のまだ使えないExcelを仕事に駆使して大いに楽をしたものです。
パソコンと折合付けて涼あらた ITを一丁と読み稍々寒し パソコンの病癒して梅雨晴れ間
職場でPCを使うのに合わせて自宅でも使い始めました。職場のPCは当時の絶対的日本標準NECの98なので、自宅用も最初は同じく98なもののハードデイスク非搭載の入門機種でしたが、すぐに当時旭日の勢いを示していたDOS-V機を導入しました。CPUやメモリーの能力が上がって日本語変換をソフト的に行えるようになったためです。98の強みはそれをシステム内に内蔵していることにあったのですが、その強みは相対的に薄れたのです。Windows時代になるとそれは決定的なものになりました。 亭主が導入したのはフルタワーケースの「Gatewey2000」でした。スペックの割に低価格だったので手を出したのです。これは汎用規格のケースが頑丈だったので、CPUの能力が上がるのに合わせてそれを使う ための最新のマザーボードや補機類を秋葉原で購入して何度も換装したものです。しかし、当時は互換性があるはずの部品間の相性なるものがあって、まともに動かないリスクもあった恐ろしい時代でした。 DOS時代のワープロは「一太郎」が定番でした。Windowsになってからも暫くはそれを使い続けましたが、ある日突如として「Gatewey2000」が日本から撤退してメンテナンス体制も崩壊したことと、電源規格がATからATXへと変わってAT電源用の最新版マザーボードが入手難となったことを契機としてコンパクトな国産他機種に変更し、そのときから「Word」を使っています。「かな漢」が「ATOK」より優れていると感じたからです。 この腹立たしい出来事以来、アメリカの会社は信用していません。いつ居なくなるか分かったものではありません。保険会社も同じですぞ… 「Gatewey2000」はその後またいけしゃあしゃあとやって来ていますが、二度と使わんぞという決意なり… 当初はインターネットに接続するには電話代など高額な費用が必要だったのですが、ケーブルテレビの契約の中にインターネットの定額高速常時接続サービスがあったので、それで導入しました。その後、光通信など他の高速接続も現れましたが、亭主は頑固にケーブルテレビ接続を続けています。
話が少しずれますが、亭主は元来文を作るのが苦手で、白い紙を前にして筆記具を手にしても、何も浮かばないことが多いのです。これは今も変わりません。それが「ワープロ」を操るようになると、つまりキーボードの前に座ると、自動書記のように文章が出て来るのです。仕事で規則や要綱を新たに作る場合もあり、その草稿作りは皆が苦痛の種でもあったのですが、キーボードの前に座った亭主は何の痛痒も感じなかったものです。 亭主は「かな入力」です。「ローマ字入力」は何の利点もないと確信しています。「かな入力」であるからこそ自動書記のように文章が紡ぎ出されるのだと思います。吃音入力などに悩む「ローマ字入力」は思考の流れを阻害します。単なる清書機械として使うならともかく、思考機械としてなら絶対に「かな入力」です。ブラインドタッチは難しいのですが、すぐに日本語が出て来る快適さには代えられません。 もし入試にキーボード(ワープロ)が使えるのなら、論文試験なんか何の問題もありません。構成は起承転結、あるいは序破急、内容は出題テーマの持つ問題点の三つ抽出とその解決策の比較で決まりです。その起承転結のどこから始めても並べ替え自由ですから思考を邪魔しません。これを手書きでやったら大変なこと…
話は更にずれますが、亭主は覚えなければならないものを覚えるのが苦手です。つまり暗記は超苦手、4桁の数字を覚えるのも無理です。その代わり、意味のあるものが目や耳から入ったものが脳内に留まる率が高いと思っています。この才は年齢によって大きく差が出ますが… それだけでは意味のない単語の暗記が必須の語学はまるで駄目です。同じく公式の暗記が必要な数学や、元素周期表などの決まりごとの多い化学も駄目です。漢字の書取も苦手です。得意だったのは社会系、本などの記述がイメージを持つ地理や歴史は教科書を数回読むだけで相当に良い成績を取れました。国語も漢字の読みは相当に自信があります。表意文字でその形に意味があるからでしょう。 覚えるという行為は努力を要します。その努力の才が不足しているのを自覚しています。易きにつくということ…
人事異動で職場が変わると、PC環境は前近代的なものに戻りました。自由に日常的に使える状況ではなくなったのです。そこで自前のノートPCを持ち込んで仕事に使いました。この時代は、志ある職員はみなそうしていました。ネットに繋がっていないのですから、ウィルス拡散のリスクはほとんど無かったのです。結局、各職員にイントラネットに繋がったノートPCを配給するようになるまで、2台の えらく高価な自前ノートPCを損耗させました。その調達にはいつも月収の倍以上を要したと思います。しかし、その間、仕事の能率の差で随分と楽をしたと思っています。
1993年にWindowsになる前、DOSの時代はコマンドという「呪文」を入力することでPCを動かしました。PCが行う仕事ごとに「呪文」は決まっていて、それを覚えるのが前提でした。よく使う手順はバッチファイルという 「呪文集」を作ってハードデイスクに書き込んでおくことで多少は楽が出来ましたが、今思えば大変な時代でした。Windowsではそれらがすべて不要となったのですから、革命どころではありません。楽すぎて拍子抜けといった気分でした。 しかし、それまでに覚えたDOSとPCの規格やメモリーの制約などその仕組みについての知識はWindowsになっても大いに役に立ったと思います。それを知らないよりトラブルに対する対処が可能で、そのトラブルはよく発生したものです。 Excelが一般的になっても、それを単に集計表以外に使う職員は極めて稀でした。亭主は関数や参照式などを駆使して様々な仕事をこれにやらせて、仕事でほとんど使うことのないグラフ機能以外はマスターしたと思っています。煩雑膨大な定型文書も必要事項を入力するだけで瞬時に処理して様式用紙に出力印刷してしまうので、それを始めから一々手書きで作成するしかない他職員との余裕時間差は膨大だったと思います。
Excelというのは手軽で多くの仕事を楽々とこなしてくれる優れものだと思っています。その気になれば出来ない仕事はありません。1993年亭主は30を超す銀行等を相手にする債務管理にあてることで使い始めましたが、それに関して日々多発する定型稟議起案や予算管理など数字を使うものはもとより、文字列操作 などによって定型文書の創作もお手の物でした。割り当てられていた仕事を常人が旧来のやり方でやる時間より大幅に速く済ませてしまうので、余った時間はさらに楽をするための準備にあてるという好循環でした。終いには、翌年度末までに必要な仕事の準備をその前年度末までに済ませていたほどです。時間が余ってしょうがないという状況でした。事務作業の道具として強力至極というのがまさに実感…
話がここでも少し逸れますが、この銀行等を相手にした仕事の中で、それまで金融機関に抱いていた先入観が覆りました。午後3時に店を閉めても1円まで帳尻が合うまで帰れない職場だという伝説を信じていたのです。ところがその数字に対する杜撰さを何度も経験して、これは単なる都市伝説に過ぎないと悟りました。 一例では、亭主が計算した利払い金額と請求された金額が異なったことがありました。制度上1円でも違うのは困ります。何度も検算して亭主の額が正しいと確信したので電話で相手にそう言うと、コンピューターで計算しているから間違いはないという返事でした。亭主は食い下がり、とにかく一度電卓を叩いてみてくれるように言って電話を切りました。 その日暫くたって電話があり、請求が間違っていましたということになりました。その理由は営業日の設定入力が間違っていたというものでした。コンピューターは間違いをしないのかもしれませんが、それを扱う人間は過ちをするものだということです。これは日本一の信用金庫… 覚えているもう一例は、残債の額が百万円単位で違っていたのです。残っているはずのない額が返済用の預金口座にあるのです。決まった返済額を期日に入れているのですから当然その期日に引き落とされていなければならないはずで、そのことは何度も相手に言ったのですが、亭主が在職中はそのままになっていました。ちなみに、この銀行はその後消滅しています。旅行用小切手で知られた銀行…
亭主がそんなふうに気ままにPCを使って仕事をしていたときの与えられていた業務は、実質的な運営を一人で担っていた小組織が上部組織のために土地を先行取得する仕事で、上部組織から購入を指示された土地について売り手と交渉し、契約を纏めてその土地代金支払いに必要な資金を銀行団から借りるというものでした。当然財務会計事務も業務のうちです。土地の評価と登記関係の事務 手続きはさすがに他の資格ある部下の職員が行いましたが、売買交渉はすべて亭主一人です。当時はバブルがはじけていたものの、まだ組織内の誰もそれに気づいていない時期で、事業用地をどんどん先行取得していたので、亭主は毎週数人の売主と交渉を行い、現地確認などで多くの時間を取られ、膨大な事務作業に要する時間を捻出するのが大変で、PCを導入するまでの1年間は残業続きで目まぐるしいものでした。
この小組織は財団なものの、亭主がその運営を担う前は上部組織の職員が二足の草鞋で運営していたのですが、その年から独立した運営とすることになり、亭主は専従として派遣されたのでした。仕事の引継ぎはそれまでの二足の草鞋の職員から引き継いだのですが、その相手の職員たちもすべてが異動で他の組織や部局に転出して、十分な引継ぎは受けられない状況でした。 実際にそれに着手すると、財務会計が問題でした。その財団を設立した上部組織は単年度単式簿記の会計であり、それに属していた亭主は当然それしか知りません。 商学とは無縁の学部を出ているので財団に必要な会計、複式簿記などは見たこともありません。当然その仕組みも全く知りません。この状態の亭主が、それをするのが亭主しかいないのに、ろくな引継ぎも受けられずにそれを執行するのですから、その理不尽を何と言うべきか… とにかく初歩的な参考書を一日で斜め読みし、貸方、借方の原理を理解して、二か月後の5月末までに済ませなければならない決算業務に手をつけることになりました。 ところが、数日後にあった引継ぎの中で、その異動した担当職員が会計帳簿を一年分ほとんど記載していないことが分かりました。総勘定元帳、仕訳帳など全てです。決算までに記帳するつもりだったが異動になってしまったと言うのです。二足の草鞋ですから片手間のお座なり仕事をしていたということです。開いた口が塞がりませんでした。 幸い残されていた会計伝票の貸方、借方の丁半は駒が揃っていました。それでなかったらちゃぶ台返しをしていたと思います。これで必要な財務諸表を作って行ったのですが、これが合いません。貸借対照表がバランスしないのです。資産と負債+資本(今は純資産と言うらしい)が同じにならないのです。 何度突合しても伝票に漏れはありません。困り果てたのは言うまでもありません。その時の亭主は複式簿記についての知識が皆無に近い状態ですから、知らない何かがあるのかと疑いました。しかし、伝票からは何も出てきません。 結論を言うと、決算は無事乗り切りました。財務諸表は正しいものになりました。正しくなかったのは前年と前前年の財務諸表だったのです。二年度に渡ってバランスしていない貸借貸借表が罷り通っていたのです。その事実に気づいたのは夢のお告げです。夢の中で前年の決算を洗い直せと命じられたのです。神のお告げかもしれません。
手探りの闇夜の耳に蟲の声
朝出勤すると真っ先に前年決算書を広げました。なんとバランスしていません。その原因を見つけようと奮闘して負債の記載漏れを見つけました。それでもバランスしません。そこでその前年も疑って取り出すと、これもバランスしていませんでした。それらの誤りを修正すると決算に供する貸借対照表はきれいにバランスしました。この事実から、それまでの決算に関与した連中は誰一人財務諸表の見方を知ってはいなかったということが分かりました。 その年に上部組織を退職した上級管理職が財団の専務理事兼事務長になっていて、亭主の上司はそれだけです。この事務長を脅しつけてアポを取らせ、上部組織の最高幹部の一人で、決算の監査役にこの事実を伝えました。よって決算までに会計帳簿を整備することは不可能だと… 伝票だけを使って決算書を作ることに話は纏まりました。監査役は決算後に会計帳簿を整備するようにと言いましたが、亭主は微塵もそれをする気がありませんでした。相当に腹を立てていたのです。 決算が終わるまで成り行きを息をひそめて見守っていた上部組織の担当者から本来の仕事である土地の購入依頼が最初に来たのは6月に入ってからです。老朽化した橋の架け替えに必要な橋詰の土地でしたが、赴任の顔合わせをした中で土地の購入交渉は事務長も一緒にやると饒舌に言っていたのですが、これが反故同然で、まったく関与して来ないのです。すべて亭主の肩にのしかかりました。それまでの 職務の経歴で土地を買ったことなど当然ありません。すべて手探りです。よく発狂しなかったものだと思います。案外神経が図太いと後で思いました。
姦しき蟲の只中夢手繰る
財団の会計制度に誰一人通じていないことを悟った亭主は、上部機関の予算部局が支配していた財団予算についてからくりを仕掛け、その結果、二年度目の1993年4月に専横かつ強引にPCを導入して5月からWindows生活が始められると、それを活用することで事務量は日増しに激減して行きました。そのまま行けば三年度目にあたるはずのその年度分の事務仕事を年度末決算の準備を含めて二年度目末には終えていたというありさまだったので、相変わらず多かった土地の購入交渉と現地確認だけが仕事の日々となったのです。 その当時の土地の購入価格の決め方は前例を基準とするもので、発注先の上部組織が指示してきた土地について、不動産取引主任の資格を持っている部下が近隣の過去の取引例を調べ、その上限額を算出するというものでした。土地が上昇傾向の時はその価格では交渉が纏まることは困難なのでしょうが、既に実質的にはバブルがはじけていた時期ですから、その上限額を提示すれば二つ返事で買えました。その仕事を始めてから数件そんな交渉を経て、亭主は考えました。これはおかしいと… それからは算出した上限額の6掛けを初回提示額とし、それでも面白いように購入が出来たものです。相手が渋っても、それで嫌ならよしやがれという気分で交渉したものです。もっと下でも良かったのかも、というのが少し苦い反省です。 土地の購入件数が増えれば銀行団からの借り入れ件数も同じだけ増えます。その債務管理も増えることとなりました。しかし、Excel導入後は借入日、借入金額と金利、返済時期を入力するだけで借入申込書など必要書類の出力が出来る状態になるのはすぐでした。会計伝票の出力も同時です。自動的に決算に必要な財務諸表の数字も動きます。毎日事務に要した時間は1時間以内でした。 ここでの他の出色の作品としては、地積測量図の座標値から面積を算出するソフトです。Excelのシートですが、座標値を入力すれば土地の面積が出ます。業者が作成する地積測量図の検算の道具として使えました。
虫けらの血と汗覆ひ祷りあり
その外部の小組織への人事異動については話が違う、騙された感が強かったので、その年から異動希望を出し続けていたのですが、上層部に裏の意向が有ろうとそれを無視して矢鱈と安値で交渉する亭主の専横的な仕事ぶりが気に入らなかった上部組織の恣意が働いたらしくて、2年で適当に羅列しておいた希望先の一つに異動となりました。言われたことに唯々諾々としない態度が煙たがられて追い出されたと思っています。それでなければ猫撫で声で希望通りの異動先にしたなどと言うはずがないし、それ以前もそれ以降もそんなことは無かったのでした。 自分では希望というほどのところではなかったその異動先は部下が大勢いる「館長」という職で、必須の仕事は職員管理だけ、事務決済だけというところでしたが、初めて経験するその館の本来的、中心的業務も率先して分担介入したものです。それでなければ暇で暇で… ここでの思い出は、なんといってもExcelを使った「万年カレンダー」の作成です。毎年変わる祝日も自動表示する優れもので、毎月の定型業務に役立ち、時間潰しにもなりました。これはその後種々の改編を加えて、今も愛用しています。亭主がその後の異動のたびにその職場に残してきたそれらが今も活用されているのかは少し気になることです。おそらくその後の「祝日法」の改正に対応できなかったと思っています。人の作ったソフトは使い難い… しかし、館の本来業務に毎朝率先勤しんだせいか、四十肩を左右交互に発症して、それぞれ半年ほど辛い思いをしました。
つひつひと四十雀(しじゅうから)泣く峠かな
仕事に習熟した良く出来た部下の何人もいたおかげで居心地が良かったそこにはもう少し居たかったのが本音ですが、異動希望も出さないのに規定年期の3年が明けて別の部署に異動となりました。ここでも唯々諾々と上意下達しない態度が上司に煙たがられたと自覚しています。損な性分…
田を染めて次の田染めて赤とんぼ
その異動先はまた部下が少ない専門的な分野で、未経験の新たな知識を詰め込む必要がありました。その上、異動後1ヶ月半でその部署の新任職員に対する専門業務研修講師をしなくてはならないというとんでもない羽目になりました。新任職員と言っても自分の組織だけでなく、束ねる上部組織全体に属する多くの下部組織のそれ全部という無茶ぶりです。自分の方こそが受けたい新人研修なのに、その講師をするなどという地獄を見ました。 しかし、その時の焼け糞一夜漬け猛勉強のおかげで最小限必要な法令や業務の肝に精通し、誰に聞かれても分かったように答えられる度胸が付きました。研修では講義内容に対する結構高度な質問も出たのですが、煙に巻くことが出来たと思います。 お陰でその後の上部組織の中での立場も、こいつはどうせ下部組織の一員だという顔はさせず、一目置かせていたと思います。 ここでもし、もっと野望を持って仕事をしていれば、業務の裏の裏まで悉皆精通して、今頃はどこぞの議員などの影の実力選対本部長とかに納まっていられたのかもしれませんが、性格が災いして、三年後の次の異動先で三か月を経過したら、それまでは違反捜査の担当警部補から法解釈の教えを請われるほど完璧無比にこなしていたはずの専門業務知識のあらかたを忘却の川に流し去っていたのでした。
短日(たんじつ)を嘆(たん)じつ何も手につかず 問ふ前に答出しをり都鳥 篠懸の想ひ残れり凍青葉 蒟蒻(こんにやく)や煮え切らぬ声玩(もてあそ)ぶ 葱刻む百に一つも言へざりき
次の異動先は、学校の施設を維持管理するというものでした。ここで初めて国の補助金事務の不条理を経験し、その抜け穴にも精通しました。折から盛んだった校舎の耐震補強以外にも、新規建替えなども数校経験しましたが、このときに行った周辺住民説明で人の我の醜さを味わいました。自分はそうはなるまいと認識した反面教師的経験です。 ここでの様々な出来事、知識も、意味の分からない組織改正もあって押し出された二年後の異動三か月後には当然忘却の彼方です。しかし、記憶に鮮明に残っているのは校舎建替えの現場で発生した人骨発見事件です。ある日現場から電気工事のトレンチ掘削中に空洞が見つかり、中に人骨らしきものが見えるという一報が入りました。当然飛んで行きます。ぽっかりと開いた空洞の奥に人骨らしき重なりが見えます。これは近くの盛り場に地獄谷という通称の終戦時闇市以来の呑み屋街があり、戦後の混乱期にそこで殺したのを埋めたのではないかと勘繰り、地域の警察に通報しました。それくらいしっかりした人骨だったのです。警察が回収して検定した結果、以外にも平安時代か奈良時代のものだということになりました。それからは文化財調査の出番です。関東ローム層の洞窟内に置かれてあったことて腐食が進んでいなかったために健全な人骨であったようです。 これが直接土の中に埋まっているのだと酸性土では残らないことが多いのです。捜査員が洞窟から骨を取り出すのを見ていましたが、とくに不気味とも思いませんでした。結局、この時代のこの地方に多く見られる横穴式墳墓というものでした。副葬品もごく僅かですが発掘されました。 洞窟でもう一つ覚えているのは、やはり別の現場の校舎建替えで、その敷地とするためにプールを撤去中のことです。建物の基礎のために更に掘り下げると空洞があるのが発見されました。そこにあったプールは戦後作られたものです。縄文や弥生の遺跡発掘が常態の地域でしたが、そんな深くに発見される例はありません。覗き込んでみると防空壕でした。それも戦争という歴史遺産なのでしょうが、義務的文化財調査の対象ではなかったし、 そこで下手に騒いで校舎建設日程の遅れをきたしては厄介なのですぐに埋め戻させてしまいました。落盤などの危険防止のために防空壕跡を埋めるのは日常茶飯事だった時代です。武蔵野台地の 東端で、関東ロームの地山には戦争末期に住民によって掘られた 素掘りの防空壕がたくさんありました。
醜きも清きも見据ゑ蜻蛉かな
この校舎建設で腹立たしいことがありました。遺跡多発地域に属しているので土地を掘り返すときには遺跡調査が法で義務付けられているのですが、その結果、弥生期の竪穴式住居跡が発掘されました。その上に校舎を建てなければならないので専門部局が詳細な記録を取って建設は進みます。その中で、校長側から遺跡の姿を何らかの形で残せないかと要望がありました。そこで現場工事責任者と相談して校舎の屋上の表層タイルの色を遺跡の形状に変える案を出し、学校側の賛同を得てそれで施工しました。 その後、完成を待たず亭主は別の部所へと押し出されるように異動となったのですが、ある日、上司に呼び出されました。自分に相談なく遺跡の形を屋上に表現した行為がけしからんと首長が言っているというのです。これで口頭注意処分を受けました。 何のことかよく分からなかった亭主ですが、同時に当時の部下だった担当職員も同じ処分を受けたため、その将来を慮って亭主は処分理不尽との声を上げるのを辛うじて我慢しました。後に伝聞ながらその経緯を辿ると、新校舎完成式典において首長が校長やPTA役員などから耐震のための校舎の新築とそれへの遺跡の形状表示について礼を言われたらしいのです。そのときにどのような礼の言われ方をしたのかは分からないのですが、見つかった遺跡をそのまま保存できなかったのが残念とか言われたのかもしれません。予算内でより良いものをと工夫して執行する上で、一々首長にまで相談や報告するなどいうことはありえないことです。校舎の配置とか構造の変更ならともかく、デザインの些細なデテールに関することですから当然のことなのです。それをしなかったというのが表向きの理由なのでしょうが、それを法定外の「処分」という形式ですることに腹を立てました。何か気分を害したことがあったのなら、直接当事者を呼び出して事情を聴取してから、そこに叱る点があれば直接自分の口でそれをすればいいのに、何も直接聞かずにいきなり「処分」というその態度が気に入りません。何と狭量なやつと思いました。部下を持つ資格がありません。 たとえ嫌味交じりだったとしても礼を言われたのですから、その場ではそれは工夫した部下職員の手柄と応じればいいのです。礼を言っている方も首長が配慮したことだなどとは思ってもいないはずです。口頭処分を言い渡した上司は気の毒そうに慰めの口調で付け加えました。これで不利益を受けることは無いと… このとき一緒に処分を受けた元部下の職員については、そのとき亭主が居た課の課長に、引っ張るように半ば強要しました。有能な人材でもあったからです。
枯蔦や捨てたるはずの欲疼く 寒声(かんごゑ)の枯れて艶めく夕べかな 蠢(うごめ)けるものらも覆ひ露凝れる 相席の釜揚饂飩羨(とも)しけり
亭主が組織内での上昇志向を諦めたのは38歳のときに発病した今にまで続く病が背景にあります。そのとき合わせて1年近くの断続的数次の入院生活があり、野心は消え失せました。子が三人あり、その行く末が心に懸かっていたのかもしれません。本来怠け好きでずぼらかつ狷介な性格がそのことを言い訳にしたのかもしれません。今となってはどちらでも良いのですが… この時の入院生活というのが、ベット上からあまり動いてはいけないという安静治療でした。午前と午後の2回500mlの点滴を受けるのだけが積極的医療行為です。職場の定期検診で発見されたそれは、血液検査の数値が悪かったことから職場近くの大きな病院を受診してすぐに入院ということで始まりました。痛いとか怠いとか苦しいとかの自覚症状は皆無でした。自覚はまったくの健康人がベット上からトイレ以外は動くなと宣言されて数か月その生活をするのですから、刑期不定の禁固刑を受けているのと等しい状況でした。風呂も入れないのですぞ… 朝晩の点滴は毎回静脈に蝶々針を刺し止めるというやり方で、確かに点滴が終了すれば抜き取ってさっぱりとするのですが、朝晩2回痛い思いをするのは避けられません。太目の針を静脈内に刺したままにして、点滴の都度それに繋ぐだけという方法もあったのですが、それは血管が次第にダレてきて、やがては皮下に液漏れしてしまうのです。この液漏れは腫れ上がって何日も痛むのであまりよろしくありません。そのこともあって蝶々針使用だったと思います。 当時の医療法の関係で血管内に注射する行為は看護婦が行えず、点滴針の挿入を病棟医が行っていました。何人もいる病棟医もその習熟度が異なっていて、今日は何先生が当番という情報が事前に病棟中に駆け巡って、その結果があらかじめ推測できるのでした。 血液検査などで血を抜き取るのは看護婦でも出来たので、それとの腕前の大きな違いは皆を嘆かせていたものです。退院の目途は血液検査数値が改善することでした。そのため毎週1回寝起きの血液検査とその結果が待ち遠しい日々でした。 検査数値が落ち着いて退院となっても、その後の外来定期通院時の血液検査で悪化するとまた入院です。その繰り返しが一年近く続き、その間、病院食では元日の「おせち」も経験し、トラウマになるほど不味い食べ物も経験しました。伊豆大島が噴火して島民全員避難があったのも病床で知りました。病棟屋上から三原山の怒れる御神火や雲に反射して聞こえる深夜の怒声を拝し聴したのも思い出です。 退院後職場復帰しても可能な限りの安静、特に食後の安静は医師から指示されましたので、律儀篤実な亭主はそれを墨守しました。朝食後安静にしてから一時間かかる満員電車通勤は現実的ではないので、空いている早朝に出勤し、職場や駅前食堂で朝食を取ってから勤務開始までの時間を休養室に横たわって安静にする日々を続けました。そのため、冬の時期はまだ日の出前、始発から数本後の電車に座って乗るために厳寒の駅頭に立ち、季節の移るにつれて東の白む様を眺めたものです。 この修行者にも似た暮らしが天の認めるところとなったのか、一年後には数値が悪くならなくなりました。その後20年近く安定した平常値は続いたのですが、定年退職を数年後に控えた最後の職場で再び検査数値が上昇したのです。眦を釣り上げた山の神の強いるままに、自宅に近い拠点病院を受診して、今は治療効果の高い新薬があるということでそれを飲み始めました。確かに効き目は目覚ましく、検査数値は見る見る平常に戻ったのですが、この薬、勝手に止めるとリバウンドが怖いと脅かされました。リバウンドするともう対処の方法がないよと真顔で脅かされ、新薬なので高価なそれを今も律儀に飲み続けています。一生続くのかも…
蟋蟀(きりぎりす)飛ばぬと決めしあしたかな 胸突きの比経難持や木の葉雨 虎落笛(もがりぶえ)三十年(みそとせ)耐へぬ猶(なほ)十年(ととせ)
この不治の業病以外にも、亭主は大病の連続です。「館長」時代のことですが、物凄い痛みを伴う胆嚢炎を発症し、治療によって回復はしたものの、そのままだと将来発癌のリスクもあると脅かされて胆嚢切除の手術を受けました。 しかし、胆嚢炎の痛みというのは半端ではなく、経験したものしか分からない恐ろしいものです。脂汗どころではありません。経口の市販鎮痛剤などまったく効きません。点滴による鎮痛薬と消炎薬、抗生薬だけがそれを和らげてくれるのです。その再発の恐怖もあって手術を選択したのでした。 手術に先立ってMR、CTなど様々な検査があるのですが、中では内視鏡を口から十二指腸にまで入れ、胆管の出口に管を挿入して造影剤を注入するというのが最悪です。その痛いこと夥し…結果は詰まっているらしい胆嚢の中にまで造影剤が入らず、よく様子が見えないというものでした。折から四十肩だったので、MRのトンネル中で長時間万歳をしているのは 辛くて、それに痛くて痛くて… 手術は当時開始されていた腹腔鏡で始めたのですが、亭主は異様に癒着体質らしくて、先の激烈な胆嚢炎が収まるときに周囲と癒着して剥がすことが出来ないという事態になったらしいのです。急遽開腹手術に変更されて大きな傷跡が残りました。鳩尾から臍までの縦一文字です。 しかし、決して真一文字ではない… 手術中は全身麻酔なので術式変更も意識の外です。目覚めてビックリという次第でした。取り出した胆嚢に石というほどのものは無く、すぐに崩れた砂状のものが入っていたとのことですが、見ていません。故に胆石を取ったとは言えないのでした。 この時の皮膚傷縫合技能というのが最悪で、亭主が癒着体質ということも加わったのでしょうが、傷跡の醜さは見る者の目を背けさせるものでした。ガーゼで厚く覆われたその傷跡をよく見ることもないままに 早々に退院して、当時の「職務」に対して篤実なロイヤリティを抱いていた亭主は、異様な短さで職場復帰しました。まだ傷痕は痛む状態でしたが、それを押して出勤したものです。 しかし、その後に受けた上層部からの扱いを見れば、そんな気配りなどは無駄なことでした。でも、そこでの3年間の仕事の中身は亭主の中に財産として残りました。いまもその財産を使って悦びの時を過ごしているのかもしれません。
夜神楽や吟味の笞(しもと)繁かりし 凛として己(をのれ)を恃(たの)む冬木立 枝末(ゑだうれ)の木の実はもとへ春近し をもひあり蒸饅頭に託しけり
次の大病は60歳定年退職後、満額年金受給までの5年間を雇用期間とする外部団体への就職も残すところ僅かという時期に、腎臓の状態を示す血液検査数値が悪化したのです。紹介された泌尿器科を受診すると、左の腎臓に水がたまっているとのことでした。尿道から膀胱を経て尿管へ、腎臓出口の腎盂までダブルステントという管を入れる施術を勧められ、腎盂から膀胱までの尿路に常時入れて置くそれは定期的な交換を要するものでした。 尿道口からちよこっと経皮麻酔をするだけで施術するそれは毎回結構な苦行でしたが、ある時、その施術後帰宅しての夜、急に左背面が痛くなってきたのです。夜間診療を受診しましたが、専門医が不在で痛みに耐えつつ結局翌朝外来を受診してすぐに入院手術となりました。手術といっても開腹ではなく、定位置からずれ落ちていたダブルステントを入れたところから抜き取るものです。尿道口から内視鏡を入れて抜き取ると、痛みは嘘のようにすぐに引きました。しかし、感染症による炎症を起こしていて検査数値が悪化しており、 結構悪質だったそれが落ち着くまで入院は長引きました。その後、狭窄している腎盂内の尿管を拡張するためのバルーン挿入手術のために数日入院したりしましたが、結局左の腎臓は機能を失っているようです。
息ひそめ脈数へをる枯野かな 夢数へ甦るなり枯木立 蒟蒻やしみこむまでを受け入れて 枯菊や明日を夜明けを待ちにけり
定年退職後に従事した5年と限った年期の雇用が終わる時期、その職場の定期消化器検診で異常が見つかって、二次検査として大腸内視鏡検査を受けました。その時には大腸ポリープが数個見つかり、近いうちに取った方がよいと検査結果画像等を添えて勧められました。それで退職後、かねてから業病で掛かりつけの消化器内科でそれを内視鏡で取る施術を受けたのです。簡単に考えていましたが、結果は 細胞検査で癌化していたとのことで、その後定期的に大腸内視鏡検査が続いていますが、これは再発していないようです。 その後、その消化器内科医に胃の内視鏡検査をしてみようかと勧められたので受検したところ胃癌が見つかりました。自覚症状はここでもまったくありません。すぐに同じ病院の消化器外科医が紹介されて開腹手術となり、胃の下部3/4を切除して小腸と直接繋ぐバイパス術となりました。幸い胃の上部噴門は残っているのであまり後遺症的なものは感じていないのですが、容積が少なくなったので一度に食べる量が限られます。この手術前に80s以上あった体重が今は62s前後で安定しています。このスマートさは中学生以来かも… この手術の時に昔の胆嚢摘出手術時に付いた醜い傷跡も切除してくれて、数ミリ置きという、これでもかのステープラー止めをしてくれたのですが、やはり傷跡は残っています。体質の因果と諦めるほかなし…
物思ふ暇(いとま)無かりし初昔(はつむかし)
腎臓の方は経過観察の定期受診を続けているのですが、その検査の中で前立腺癌マーカーが上昇しました。それで入院して針生検を受けたところ、癌が見つかりました。その病院ではできない治療法である小線源を前立腺内に多数埋め込む手術を勧められ、2016年10月に71個の放射性物質を体内に宿す身とはなったという次第… 針生検で癌の存在がわかってからすぐにホルモン療法が開始され、定期的な下腹部へのぷっとい皮下注射と毎日の投薬を続けましたが、別の病院での小線源埋め込み手術後にPSA値が急激に改善したので終了となりました。この改善がどちらの効果かは不明ですが、ホルモン療法の方かもというのが手術執刀医の見解です。なので、これからまた少しは上がるかもしれないと予防線が張られました。今後3年間は経過を見て行くとも言われました。 ホルモン治療の外見的効果として、顔の皮膚がツルツルになりました。例年秋になると春まで頭部のフケが悩みの種だったのですが、それがまったく発生しません。美容に使えると実感…
枯尾花瞋恚(しんい)の炎(ほむら)高くあり 勝ち負けは続きありけり世継榾(よつぎほだ) 脾肉撫で槿眺めて陽傾ぶきぬ 吾を打つ誹りの数多竹の秋 風吹くな吾の居る間は竹の秋
酒は飲まず、タバコなど吸ったこともない、野菜の多い規則的な食事、そんな君子然とした生活をしているのにこのように癌が方々に発生するのは、幼少期を過ごした時期の食物と不可分ではないというのが亭主の唱える仮説です。その時期は、今では発癌性で使用が禁止されているズルチン、サッカリン、チクロなどの人工甘味料がしこたま入った食品を日常的に摂取していたのですから、内臓がそれによって侵されていても不思議ではありません。事実、職場の同期や前後の年齢の人たちの多くが定年退職を迎えることなく彼岸に旅立っています。平均寿命が延びているというのは今がピークで、これから急激に短くなって行くということを亭主は予言しておきます。これは若い頃からの主張です。今平均寿命の延伸に寄与している戦中、戦前に幼少期を過ごした人たちは、一部は飢餓による栄養不良に遭ったかもしれませんが、毒の摂取はしなかったはずですから…
しかし、よくよく顧みれば、亭主の半生は大病の連続です。そもそもの始まりは、よちよち歩きの幼児の時代、家の裏の草原で転び、運悪くそこにビール瓶の割れた底が転がっていて、それに額を打ち付けて切ったのです。数針を縫う大怪我で、いまもその傷跡は生え際に残っています。これの記憶は残っていないのですが… これも記憶には無いのですが、幼児期に右足の関節炎を患ったそうです。その後遺症は長く続き、右膝は大人になるまで本調子ではなく、負担を掛けると重苦しくなりました。高校時代のクラス担任に柔道を奨められたのですが、その後遺症の故に断わりました。自転車に乗るようになっても、やはり負担を掛けるとあまり調子が良くなかったと思います。それで軽いギヤ比でくるくる回すのを好んだのかも… 次が扁桃腺の手術です。小学生にはなっていたと思いますが、何故か蟲の居所でも悪かったのか、喉奥への麻酔注射を嫌がり、業を煮やした医者が麻酔無しで手術したのです。それが痛かったことは記憶に残っています。痛みそれ自体は記憶にはありません。それ以後、注射はまったく苦になりません。 そのころ毎年春の彼岸の頃となると腹痛の発作で苦しんでいたのですが、三年生の時にその痛みが激烈になり、間欠的に襲ってくるそれに一日耐えていたのですが、熱の高さに母が往診を頼みました。診察した医師はすぐ入院を言い渡し、往診に乗ってきた自動車にそのまま乗せられました。その車は忘れもしない、トヨペット・クラウンの初代です。 即日の手術で、虫垂炎、つまり盲腸がこじれてほとんど腹膜炎になっていたようです。開腹すると真っ黒になっていたと聞かされました。この手術は局所麻酔で行ったのですが、背骨に注射されたことと、手術中の医師たちの声が聞こえていたことを覚えています。重症故に入院も10日間だったと思います。今なら普通数日でしょう。 虫垂炎の手術跡としては大きな傷が右下腹部に残っています。この手術後、随分長い間、十年以上後遺症に悩まされました。天気が悪くなるとそこらへんが重苦しくなるのです。天気の変化に敏感になったのはそのためでしょう。気象庁より雨はよく当てました。 中学生になる前後は副鼻腔炎、蓄膿症に悩まされました。東邦医大病院耳鼻科で夏休み後半に入院手術する段取りが整っていたのですが、父の実家に長逗留しているうちに手術が嫌になり、駄々を捏ねてキャンセルしてしまいました。夏休みが終わると、蓄膿症はどこかへ行ってしまいました。何もしないのに…
★柏餅 子供のころ、五月の節句には両親が柏餅を作ってくれました。木臼で粳(うるち)米を搗いて荒めの粉にし、それを蒸したものを再び臼で搗いて餅状にします。これを小分けして延べ広げたのに漉し餡の団子を入れて折り包み、水で戻した乾燥柏葉で包むという製法です。乾燥柏葉は川崎砂子にあった川治屋という大きな乾物屋で購入していました。たくさん作るので、腹を壊すほど食べるのが常でした。 中の漉し餡団子も母が小豆を煮て作るのです。 これはある年から店で買うようになりましたが、それでも大量に買うのです。川崎の「東照」という菓子舗で購入するのが常でした。柏餅の味にうるさいのは、この小児体験から来ているのは明白… 団子や柏餅は粳米のみで作るのが王道です。糯(もち)米などが入っているのは評価が下がります。特に新米で作る団子の作り立ての香りとその旨さは、それを知らぬ者の不幸を憐れむのみ…
三つ食べ子供に還る柏餅 噴水の霧に虹追ふ童(わらし)吾(われ)
亡き母は、柏餅以外にもワッフル、と言ってもベルギーワッフルのような無様な代物ではなく、ふわふわに焼いた皮で固めに練ったカスタードクリームをたっぷりと包んだもので、トウモロコシの粉などを混ぜて大きなドーナツ状の型で焼くスフレパンなども作って食べさせてくれました。そんなものはまだその辺の店では売っていない時代で、どうしてそんな焼き型を持っていたのかは聞きそびれました。当然友人たちはそんなものは口にしたこともなかったはずで、羨ましがられたのかもしれません。 また、正月のおせちに入れるのが恒例だった水羊羹も小豆を煮るところから始めました。小学生の亭主も漉し餡の漉し作業を手伝った記憶があります。この水羊羹は、その後インスタントコーヒーが出回るようになると固めに作るコーヒー羹に置き換わりました。どちらもいまだに大好物です。コーヒーゼリーなど軟弱至極…
風邪の目で啜る葛湯に母浮かび
★七草 奈良時代に成立していた「万葉集」に歌われる秋の七草、どれも地味で小さい花ばかりですが、それを慈しんだ万葉人の気持ちが分かるようなこの頃です。その搭載歌中の白眉は、何といっても「山上憶良」の旋頭歌…
秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花 萩の花尾花葛花なでしこが花 をみなへしまた藤袴朝顔が花
この七草のうち「朝顔が花」は現代の「アサガオ」ではなく、当時は「キキョウ」を指していました。この歌のオマージュとして作ったのが次の7句です。
初萩や想ひの中に露零る 世の塵も掃き払ひたき薄かな 言の葉の裏を見よとか葛に風 河原辺に群撫子の愛しきやし 女郎花淡き想ひのあらはれぬ 夕霧に移香淡し藤袴 をかととき咳払ひして事訳ぬ
この7句のうち3句目は、平安時代の陰陽師として著名な「安倍清明」の出生伝承に掛けた貞門気取りの本歌取り句でもあります。
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 清明の母・葛葉(賀茂葛子姫)
葛の葉というのは大きく、風が吹くと翻ります。葉の裏は繊毛のために白っぽく、「裏見草」の別名もあります。本歌の「うらみ」が「裏見」と「恨み」を掛けていることは明白で、白狐の化身と云われる清明の母を示しているものでもあるのでしょう。一字一句に至るまでが、伝承を知らねばわからぬ、またそれを知ると驚く、極めて重層的な名歌です。 本歌取りのこの句は作者の亭主が気に入っている句の一つです。様々な意が籠っていて、しかもその意が時の移りと共に変化する普遍性を帯びていると感じています。げに本歌の力絶大なり…
4句目の「愛しきやし」は「いとおしい」の意で「はしきやし」と読みます。これは万葉集中に多出する語句で、撫子は地味な七草中で最も派手かつ可憐な花ですから、それを使いたくて、ただそれだけで用いました。今は失われた愛(かな)しき言葉… 5句目は「粟粒のようで黄色い」花と「淡き」を掛け、女郎への「想いが顕れる」と「洗われる」を掛けています。いささか技巧の過ぎる句かも… 7句目は「朝顔」が古代においては「キキョウ」のことであることを事訳するに、もったいぶって咳払いするさまを詠んでいます。「キキョウ」は「おかととき」とも云い、これの根は鎮咳に使われる漢方薬でもあります。故に咳を払うに好適…
七草には入らねど、吾亦紅は風情あるバラ科の野花です。
ひたぶるに恋ふる日ありき吾亦紅
この花も唄人を刺激するらしい…さだまさしとか、すぎもとまさととか…ちなみに亭主の句作の方が先…
★月 「万葉集」は句作の上で亭主に大きな影響を及ぼしています。その中で「筑紫歌壇」を形成した歌人、「旅人」と「憶良」、その関係を想像する句が数多くあります。
酒賛めど憶良羨(とも)しき月夜(つくよ)かな 酔(ゑゐ)泣きともだをり競ふ月の宴 蟲の声酒壷(しゅこ)を望めど猶羨(とも)し 待つ母子(もし)を出汁(だし)に使ひし月の宴
大宰府帥「大伴旅人」の「賛酒歌」が作られたのは、実際は春の花の宴だったらしいのですが、亭主はそれを月の宴として句作しました。筑前守山上憶良が言い訳の歌を残して宴を早退したあと、見送った「旅人」が悪口を歌った微笑ましさが楽しい歌です。親分肌上司「旅人」の良く出来た部下「憶良」に対する尊敬と羨望が読み取れる歌ばかりと感じています。このあたりはぜひ原典にてご賞味を…
★楝(あふち) 栴檀の古名…栴檀は双葉より芳し…栴檀=白檀… 万葉集に採られている数々の名歌によって大伴旅人と山上憶良の人格およびその関係性は明確なのですが、中でもその本質をよく表したものとして 巻第五の巻頭からの短歌と長歌、序が挙げられるでしょう。特に「序」は優れていて、最初にこれを読み且つその意味を調べ得た時の衝撃を今も忘れません。その時から憶良好きは極まりました。よって以下に取り上げます。
太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿(まへつきみ)の凶問に報へたまふ歌一首(ひとつ)、また序
禍故重畳(かさな)り、凶問累(しき)りに集まる。永(ひたぶる)に心を崩す悲しみを懐き、独り腸を断つ泣(なみだ)を流す。但両君の大助に依りて傾命纔(わづか)に継ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎く所なり。 0793 世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり 神亀(じむき)五年(いつとせといふとし)六月(みなつき)の二十三日(はつかまりみかのひ)。
筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上臣憶良(やまのへのおみおくら)が亡(みまか)れる妻(め)を悲傷(かな)しめる詩(からうた)一首、また序
盖(けだ)し聞く、四生(しせう)の起滅は、夢に方(あた)りて皆空(みなくう)なり。 三界の漂流は、環(たまき)の息(やす)まざるに喩(たと)ふ。 所以(ゆえ)に維摩大士は方丈に在りて、疾(しつ)に染(そ)む患(うれひ)を懐(いだ)くこと有り。 釋迦能仁(しゃかのうにん)は双林(さうりん)に坐(いま)し、泥(ない)オンの苦を免(まぬが)るること無しと。 故(かれ)に知る、二聖至極すら、力負(りきふ)の尋(つ)ぎて至るを払ふこと能(あた)はず。 三千世界、誰か能(よ)く黒闇の捜(さぐ)り来たるを逃れむ。 二鼠(にそ)競(きそ)ひ走りて、目(め)を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四蛇(しだ)争ひ侵(おか)して、隙(ひま)を過ぐる駒(こま)夕(ゆうべ)に走る。 嗟乎(ああ)痛(いたまし)きかな。 紅顏三従(こうがんさんじゅう)と共に長逝(ちょうせい)し、素質四徳(そしつしとく)と与(とも)に永滅す。 何そ図らむ、偕老要期(かいろうようき)に違(たが)ひ、独飛半路(どくひはんろ)に生ぜむとは。 蘭室(らんしつ)の屏風(びょうぶ)徒(いたず)らに張り、断腸の哀しみ弥(いよ)よ痛し。 枕頭(ちんたう)の明鏡(めいきゃう)空しく懸かり、染ヰンの涙逾(いよ)よ落つ。 泉門一掩(せんもんいちゆう)すれば、再見に由無し。 嗚呼哀しきかな。
愛河の波浪已(ことごと)く先づ滅び 苦海の煩悩また結ぶこと無し 従来此の穢土を厭離す 本願生を彼の浄刹に託せむ
日本挽歌(かなしみのやまとうた)一首、また短歌(みじかうた)
0794 大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾(あれ)をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます 反し歌 0795 家に行きて如何にか吾(あ)がせむ枕付く妻屋寂(さぶ)しく思ほゆべしも 0796 愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来(こ)し妹が心のすべもすべ無さ 0797 悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを 0798 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに 0799 大野山(おほぬやま)霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る 神亀五年七月(ふみつき)の二十一日(はつかまりひとひ)、筑前国(つくしのみちのくちのくに)の守(かみ) 山上憶良上(たてまつ)る。
これに対する亭主オマージュの句です。
万葉(よろずは)に名の高くして楝(あふち)かな わが嘆く息嘯(おきそ)の風の霜となれ
蛇足ながら「序」について少し解説すると、「二鼠」とは仏教用語で黒白二匹の鼠であり、日夜を指します。「四蛇」とは天地肉体を構成する地・水・火・風の四要素を毒蛇に喩えたものです。これでもかの対句の連続であることは言わずもがなです。このあたりの文は、憶良の仏教についての知識の深甚さを示すものでしょう。鳥肌の立つ思いです。
★瓜 亭主は万葉集が好きです。その中の数多の歌人のなかでも「山上憶良」が特に好きです。この憶良が詠んだ歌に次のものがあります。
瓜食(うりは)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲(しぬ)はゆ
この歌のオマージュとして作ったのが次の句です。
瓜食みし子等の囲み居憶良逝く
この句を読み返すと、いつも父が亡くなったときのことが思い起こされます。我らが父も憶良であったし、吾もまたそうであろうかと…
ふくふくと見渡しにけり餅莚 見せる背を過まてるなり秋の暮 皸を知らぬ子にして忸怩たり 親は蓑子の装ひて衣被(きぬかづき)
里芋のことを蓑芋とも言います。「衣被」というのは子芋を皮のまま茹でたり蒸したりしたもので、皮の上から押すとつるりと剥け出て、これに塩を付けるのがまことに美味です。「衣被」は元々女房詞で、「衣被」には隠語の意味も存在します。言い得て妙… 親は蓑を纏って働くとも、子には美麗な小袖を与える。この悦びを知らずや…
★蜂 季語の「蜂」は晩春のものです。昔NHKの番組「俳壇」でこれが兼題となったので投稿したところ、入選に選ばれました。放送では「金子兜太」という少々狷介な俳人に真っ先に採られ、60点と評されました。亭主は挑発されたものと受け取りましたが…
鬱勃の胸に数多の蜂を飼う
これが投稿句です。胸に蜂を飼うという表現が目に止まったようですが、現実の蜂を胸で飼う者がどこにいるのかと考えれば笑止な評です。当然作意は比喩の重層で構成したもので、高浜虚子謂うところの「客観写生」などではありません。「観念写生」とでも謂うべきものかと… そもそもは「蜂」が晩春の季語であるところから発した句です。人生の中では青春の晩期、それから離れ行こうとする時期に、朱夏たる将来への不安を蜂の羽音に重ねて、満たされぬ思いに悩むこともあったり、また、そこに飼う蜂は勤勉篤実な蜜蜂とは限らず、猛々しい雀蜂などをひそませて他を襲わせる毒を飼うことも有りです。清濁一切の想いのかたまりを「鬱勃」とあらわして、その巣食った鬱勃の捌け口を抜け出る存在として蜂を比喩したつもりです。
埋火を掻き出し火箸もてあそぶ 吾に棲む闇を深めて花篝 ぶち割りてかたきを褒むる鬼胡桃
以上3句は「俳壇」投稿句で、佳作に採られました。投稿していたのは丸一年間ですから、この時期の心事を顕す句ばかりということでしょう。 特に「埋火を掻き出し火箸もてあそぶ」という句は、「埋火」という兼題に対して句作したものですが、それが口を突いて出たのは無意識のことでした。句作にあたって特段の作意をもってしたわけではなかったのです。「埋火」なのだから掘り出すもので、それをするのは「火箸」であることは必然です。掘り出しては見たものの、さて、どうしたものかとそれをした「火箸」はもてあそばれて当然… このように連想に従って作句して口ずさむと、「かきだし」と「ひばし」の「し」の連続する語感が好もしく、「ひばし」は江戸訛り「しばし」から「暫し」も連想させて、技巧的にも、観念的にもなかなかのものと思ったものです。そしてこの句は「火箸」が亭主にはカメラ機材などのことを指していて、「埋火」は胸中の鬱勃たる思いや願望などを指すものであり、吾ながら畢生の句だと思えるようになりました。
埋火のつよきがゆへに深くをり 畢生の事と定めぬ鵙高音(もずたかね)
★蕎麦 そもそも亭主が俳句を作るようになったきっかけは、身分が初めて平職員ではなくなった当時の職場の出張で1991年晩秋の盛岡で開かれた全国大会に参加したときのことです。朝9時から北山愛宕下のグランドホテルで開かれる大会総会に備えて前日に盛岡入りするのですが、朝一番の最も速い新幹線に乗り、その一日を盛岡市内見物にあてたのです。見物と言っても物見遊山とは違います。先々職務の遂行に役立ちそうな内容を誂えています。 時雨模様の中、あらかじめ調べてあった場所を一人だけで徒歩と路線バスとで回ったそれは大きな感動をもたらしました。その「感動」をどうしても紀行文にしたいという欲求が起きたのは、当時習熟を極めていたワープロ「文豪」を操りたいという気分とは不可分なものでした。
亭主が当時操っていたのは家庭用のポータブル機ではなく、CRTやB4ドットプリンターが別になったディスクトップ・パソコンのような機種です。FDが2基付いていて、これにフロッピィを差して使うのです。1基にはシステムを差し、もう1基には作業用のフロッピィを差すというものでした。記録にはシステム ・フロッピィを抜いてそこにデータ・フロッピィを差すのです。 システム・フロッピィはワープロだけでなく、簡単な表計算や描画のソフトもセットになっていて、それを差し替えることで使えるのです。このシステムの全てに習熟したのは、恐らく2000人近くいた組織内で亭主だけだったと思います。リースで導入が始まったそれは各課に1台で、それを共用するのですから、それを使えるようになるだけで大変なことで、習熟の時間など取れたはずはないのです。ところが亭主は部下無しの係長という立場で、しかも法定で義務的に設置されている窓際職場ですから冷遇されていて、ドットプリンターの作動音がうるさいワープロセットの置き場所が窓際の亭主の席のすぐ横ということにされたのです。それを幸いとして、ほとんどの課員が手を出さないのをいいことに、一日の大半の時間をその前で過ごしたのです。 習熟が極まって、システムのバグを幾つも発見しました。その都度メーカーに通告して、バグ取りをした新バージョンのシステム・セットを無償で受け取りました。そのときの機器リースの中身としてシステムの更新は有償というもので、その更新のための予算など無いのですから、他の課ではそれを行えはしなかったのです。 亭主が操作する機だけは最新のバージョンであることに気づいていた者はいなかったと思います。亭主は口をつぐんでいたからです。バグの存在に気づいた者もいなかったと思います。それはハードユーザーだけがぶち当たるバグなのでした。
10本指でキーボードを叩いて「不来方(こずかた)紀行」と名付けた擬古調紀行文を書き進めるうち、和歌と俳句が文間を割るように湧いて来たのです。当時「奥の細道」はその名を知るだけで中身を見ることなどなかったので、そのような形式があることも知らなかったのです。あたかも 「自動書記」のように湧く和歌、俳句の不思議さに戸惑ったものです。
旅時雨佳人を観たり蕎麦一椀
盛岡の名物は給仕のパフォーマンスで知られる「わんこそば」ですが、一人旅の身としてはその店に入る勇気が出ず、「上の橋」橋詰めにある名店を横目に見て通り過ぎましたが、折から強まった雨脚に追われたのと昼時の空腹が導くままに入った蕎麦屋で注文した天婦羅蕎麦が色白で美味であり、しかも給仕の女店員がいわゆる「雫石あねこ」という風情だったので詠んだ句です。
ぬばたまの月無き夜の高原を海となしたるうまし蕎麦あれ
これは蕎麦繋がりで落武者が高原の蕎麦畑の花を海と見誤ってうんぬんという他地方の伝承を歌ったものです。枕詞とひたすら掛詞多用…
冬近き仏と集ふ羅漢堂
北山の報恩寺五百羅漢堂を参拝して詠みました。方形の堂内中心華厳殿の周囲に幾段にも居並ぶ499体の木像は圧巻です。ここの本堂も赭瓦…亭主の句の多くは、口に出さねばその作意を知ること能わず…
秋深し時の凍(し)みたる濡(ぬれ)擬宝珠
中津川に架かる「上の橋」にある欄干の擬宝珠は慶長年間に南部氏が盛岡城(当初名:不来方城)をこの地に築城したときに作られたものです。何度か洪水に流されたそうですが、その都度回収修理されて戻されたのだとか…
商(あきなひ)の格子古りたる時雨かな 時雨路に古りにし煉瓦赭匂ふ
茣蓙九(ござく)など古い商家が残る風情を詠みました。降ったり照ったり目まぐるしい時雨空でした。亭主が住んでいる南関東ではあらわれることがない晩秋、初冬の風物詩「時雨」を初めて実感したのも旅情の一つ…掛詞が味噌… また、銀行など明治期の建物があり、古びた煉瓦造りの壁がグラデーションとなっている風情を詠みました。鎧の「匂ひ縅」からの連想…
巌洗ふ清水(みづ)幾秋ぞ流れたる 路傍に水温みたり秋の暮
西に流れる大河北上川とともに盛岡城の外堀の役も兼ねる清流中津川の左岸に広がる城下町には伏流水の湧く路傍の「清水」が幾つもあります。他の地方にもみられるその構造は数段に渡って流れ下るようになっていて、各段の用途が厳密に分けられています。その整然と使う温かな気持ちこそが日本人の特質なのだと実感する事象… ちなみに高名なのは「青龍水」で、城の東方、すなわち四神相応青龍の地にあるによって名付けられしなむ…
愚の極み城壊(こぼ)ちたる国の穐(あき)
見事な花崗岩の石垣だけの残る不来方城址にて明治初頭の蛮行に対して、怒りに満ちた思いを寄せた句です。 この東北には珍しい総石垣造りの城の天守台と言われる石垣上は狭く、天守閣とは名ばかりの三層隅櫓程度の規模であったのだろうと思われます。腰郭の中に二の丸と本丸が並ぶ高知城と同じような連郭式縄張りで、その連郭は高知城同様な櫓状の廊下橋で連絡していたものと考えられます。
不来方に秋更けにけり赭甍(あかいらか)
盛岡地方の地瓦は独特の色合いの赤瓦です。その記憶を残したくて詠みました。折からの紅葉と響きあって重畳…
旅を得て旅人秋に耽りけり
この感動を他の人に分かち与えたい気分が高まって、当時の一段階飛んだ上司の部長に見せたところ、その後の接し方が変わりました。二目も三目も置かれていたと思っています。ただし、この部長すぐに定年退職を迎えてしまったので、亭主のその後には何の役にも立ちませんでした。
★真面目に歴史を顧みる… あたかも「自動書記」ででもあるかのように「不来方紀行」が作り出されると、亭主の中に古典に対する興味が湧きました。折から万葉集の万葉仮名が古代朝鮮語で解読できるというような珍奇な学説がマスコミを賑わしていました。亭主も万葉集の訓読文献を入手して読んだものです。同時に、日本書紀や続日本紀も文庫本を斜め読みして、その関係性について得るところが多かったと思っています。 万葉集を読み進めると、それが大伴家持の編纂したものだという思いが高まりました。その「序」などの記述と続日本紀の内容を比べると、そのことが確かなように感じられたのです。 万葉集には時の権力の中枢にいた藤原氏主流の人物の歌が非常に少なく、あっても傍流の人物の歌ばかりなのです。大伴家持のたいしてうまいとも思えない歌が山のようにあり、その親族の歌がたくさんあります。壬申の乱功労者大伴氏の冷遇に対する鬱屈の歌も含まれていたり、冒頭の歌が大伴氏興隆と重なる雄略天皇の歌であり、最巻末は氏の長であった大伴家持の出世の滞っていた因幡守の時の歌で終わっているのを考えると、これは大伴家持が編纂したとしか思えません。勅撰的な和歌集などではないと感じます。 その内容を見れば単なる歌集ではなく、その歌の詠まれた背景の説明があったりして、歴史書としても一級の資料のように思えます。これは大伴家持が歌の勉強のため、宮廷内での一族の歴史を残すためなどに作った備忘録的な記録ではないかと感じました。 大伴家持より相当前の時代の歌人の歌も多くありますが、それは山上憶良が編纂したと伝わる失われた「類聚歌林」が底本になっているのではないかというのが亭主の仮説です。山上憶良は大伴旅人の部下であった人物です。筑紫の大宰府で二人は緊密な関係を持ったことが推定できます。その薫陶を受けた家持であったればこそ「防人歌」があるのだと思います。 それでは平安時代になってこの「万葉集」がなぜ称揚されるようになったのかと考えるに、大伴家持の死の直後の失脚事件と不可分ではないと思います。罪に連座して墓をあばかれるという仕打ちを受けたものの、かなり後に冤罪とされて復権したときに、家持の遺物としての「万葉集」の存在が贖罪的に脚光を浴びたのではないかと思うのです。 余談ですが、血液型の違いによる人格判断を試みると、大伴旅人は「O型」で、山上憶良は「A型」であったのではないかと思うのです。その伝わる事績や歌の数々をみればその感を強くします。旅人の子家持は「A型」だったのではないかと思っています。それも当然「AO型」ですから、その気質を表しているような行動と歌だと感じます。 「O型」の旅人が相性の良い「A型」の妻を亡くして嘆いた歌がその感を強くします。そしてそれを慰めた「A型」山上憶良の挽歌はまさに秀逸無比…
灯(ほ)あかりを胸にうつして文(ふみ)をよみ いや重(し)けと千両万両に雪積もる
★鴨 人生を振り返ってもたいしたことのあったわけではないのですが、それだけに忸怩たる思いはあります。そんな気分で詠むことも多く、それをカタルシスとしているのかも…
来し方は鴨の水掻(みずかき)行く先も 鍋底で大根のよく沁みてをり 黙々と勤めをりしが破(やれ)案山子(かかし) 貧しくもあらねど羨(とも)し望の月 玉箒(たまばはき)欲(ほ)す心地して月睨む これは貞門風です。蘇軾… あの顔もはてあの顔も萩の餅
春彼岸の「牡丹餅」に対して秋彼岸は「お萩」です。彼岸に渡った誰それ…ところで、「お萩」は夏には「夜船」、冬には「北窓」というのだそうで、搗いた餅で作らない、半殺しであるところに着目した遊び詞とのことで、極めて好まし…蛇足で言うと、いつ着いたのか分からないから「夜船」、月が無いから「北窓」だそうです。うふふ…
同胞(はらから)の末路見据へて葱坊主 春先に畑の畝端に取り残された葱に花が咲いているのを見て詠める…南無阿弥陀仏… 団栗の零(こぼ)れあるみち選(え)りにけり どんぐりの背比べ… 泥中に尾を引き生きよ放亀(はなちがめ) 放生会… 獺祭(だっさい)やあれもこれもと食散らし 趣味多きを自嘲… 蟲の声命の限り叫(おら)びけり 病葉(わくらば)の枝を離れて見る夢は 夜の底で鳴らぬ枝あり風祭(かざまつり) 枯木立夢見ることの罪を問ひ 凩(こがらし)の罪は問ふまい吹溜り 地吹雪の先に何見て屈むべき 去年(こぞ)のこと覚えをりしか旅の鳥 枝を撓(た)め失う花の紅(あか)さかな 秋なれば入陽麗し吾如何に 秋惜しむ去るを送るを数へけり 吾(あ)が穐(あき)の玉砕瓦全いずれなる 「我」より「吾」が好き… 引鴨の跡を濁さず発ちにけり 明日からは気が楽になる捨頭巾 珍しく良い関係だった上司の退職にあたりて送り詠める… 夢を見ている夢を見て冬隣
眇眇(べうべう)の身や渺渺(べうべう)の冬の海
これは旅先の雪降る小樽港で沖の暗さを見ながら詠んだ句ですが、「眇眇」は小さく取るに足らない、「渺渺」は果てしなく広いの意です。水の有る無しで意味がほほ正反対に…
★秋さかり 亭主が今の主要な趣味である写真機材の収集や、古いそれらについての研究にのめり込んでいった切っ掛けは、ケーブルテレビの導入によってインターネット常時接続環境が整い、ネットオークションなるものの存在を知ってからです。亭主が20歳代にのめり込んでいた趣味として収集していた欧州製高級自転車部品が大量に裏庭の物置に眠っているのを思い出し、それを出品してみようかと思い立ったのです。 出品には画像の添付が必須です。最初はその当時所持していたOLYMPUSのコンパクトデジタルカメラで写したものを使用していました。まだ世の中はデジタル一眼レフの時代ではなかったのです。 画像の良し悪しでオークションの成果が異なることは始めてすぐに分かりました。より成果を求めるには良い画像が必要です。そこで山の神に唆されて近所の文化施設で開催された写真講座に参加したのです。この時の講師は地域老人のボランティアで、賞を得たりしていたハイアマチュアと言うべき人物でした。これがニコン党(ニコ爺とも言う。)で、自前の「F4」などの機材やMFレンズを持ち込んで講義に使うのです。亭主が参加にあたって持ち込んだのは亡父がその退職記念品として得たのを貰い受けていた「FUJICA ST801」でした。二十年以上お蔵入りしていたそれを持ち出して使ったのです。 ところが、そのカメラ、ファインダーを覗くと何やら影が垂れ下がっているのです。レンズを外すとミラーの緩衝のための黒スポンジが垂れ下がっていたのでした。後に その時代のカメラに普遍的業病遮光モルト劣化と知れるそれを見て使い物にならないと判断し、近所の量販店で販売員の勧めるままに購入したのが「PENTAX MZ-7」です。セットズームレンズと共に安価で入手したのですが、これが今に続く泥沼泥濘路の入り口とは、その時には知る由もありませんでした。
そもそも亭主がカメラというものを最初に手にしたのは小学生の時、亡父がどうも同僚に金を貸した質草として保管していたらしい「PENTAX K」です。この半自動絞りのレンズを弄り回したのを記憶しています。低速シャッターのダイヤルが前に付いていたから確かでしょう。 次の機種は「フジペット」です。66判のフィルムを使う機種で、晴れ、曇りだけを選択するパンフォーカスレンズのおもちゃのようなカメラだったと記憶しています。子に高価なおもちゃを与える父の思いを忖度するのみです。これは狭山丘陵ユネスコ村への小学校遠足などに持って行った記憶があります。確か父も父兄同伴したはず… それと同時代に亡父が所持していたのが「Topcon 35S」です。これはパララックス補正付の等倍ファインダー距離計連動レンズシヤッターカメラで、結構重厚な品であり、長く使ったと記憶しています。白黒フィルムの時代ですから、露出計無しでもフィルムの箱に書いてある目安で何とか写せました。 亭主が一眼レフカメラなるものを手にしたのは1970年に就職して半年ほど経って、職場の先輩たちが一眼レフカメラを見せびらかすのに触発されて入手した「リコーフレックスTLS401」が最初です。当時は「Nikon F」が高根の花で、「PENTAX SP」はあまりに氾濫していたので、臍曲がりの亭主はそれを敬遠したのです。発売されたばかりのそれを亡父が知り合いだった蒲田駅前「ウエダカメラ」にて購入しました。顔が利いて七掛けぐらいで買えたと思います。これは上から覗くアングルファインダーに切り替える機構を組み込んでいた珍奇なカメラで、TTLでしたが絞込測光でした。またM42マウント使用の始まりでもあり、サードパーティの135mm望遠レンズを入手したりした記憶がありますが、その銘柄は忘れました。「SUN」だったかも… フイルムやそれを現像するDPEが必須であり、その費用も薄給の身には負担で、すぐに興味が薄れました。記念写真的なものしか写さないのですから、その重さや嵩張りも邪魔なものでした。当時自転車趣味に熱が上がって行ったのもその背景でしょう。 最初のAF一眼レフ「PENTAX MZ-7」で撮影生活に入ると、毎月の写真教室で提出が求められる作品作りのためにそのセットズームレンズ「smc PENTAX-FA 35-80mmF4-5.6」では画角的に物足りなくなりました。そこで当時旅行用と宣伝していた「smc PENTAX-FA 28-200mmF3.8-5.6 AL[IF]」を入手し、さらに2倍のリアコンバーターを入手したものです。 写真教室の講師がMFレンズの良さを自慢するので、亭主も入手したくなりました。折から行っていたネットオークションにて出品ではなく落札を目指したのです。中古を入手するのですから投資額はそれなりと決めていました。PENTAXのMFレンズは安価で、特にMシリーズは玉数が溢れていました。そんな中にカメラがおまけのように付いてくるものを落札して、最初に入手したのが「PENTAX ME Super」です。これがお決まりの業病に冒されている品で、それを何とか動かせないかと思ったのが運の尽きです。 その特有な病変について因果関係を理解し、手当てによって何とか動くように出来ると、その面白さに嵌りました。今度はわざわざ壊れた「PENTAX ME Super」を目当てに入札するのです。そうして修理の対象物を数多く入手して分解修理し、その構造を悉皆理解するようになりました。また、その内部構造が新旧の製造時期によって著しく異なるということも知りました。その過程で、お供に付いて来た標準レンズを中心とした古レンズたちも手元に溜まるようになったのです。 そんな古レンズたちも健康なものばかりではありません。「黴」に冒されている物や、不治の死病と恐れられた「バルサム切れ」の物も数多く、「黄変」のものも幾つも手に入りました。これらレンズの三大病変を何とかできないかと試行錯誤した日々がありました。 その病のうち、最も重篤な「バルサム切れ」については、2011年6月にその冒された貼り合せを安全に分離する方法を案出し、「冷凍・熱湯法」と命名したのが最大の自慢です。これは偶然に近い発見でしたが、長期間の論理思考と実際の試行努力の成果でもありました。 ネットオークションで入手したカメラなどの分解修理に手を染めると、それを行うために必要な情報をネット上で漁ったものです。その得られた情報のありがたさが身に染みていたので、自分でも分解修理などの過程で得られた情報を公開したくなりました。それで始めたのが無料で開設できるホームページです。当時はそれを開設するのが流行りでもありました。自分がその恩恵を得た喜びがありますから、それを望む人に与えられるなら、それは欣快以外の何物でもありません。
シャッターのかしゃりかしゃりと秋さかり 人を指し己(をのれ)養ひ秋写し 秋日和どの写真にも嘘吐(つ)かせ 掌中のカメラと語る國の穐 手の内を確かめて見る年の暮
★臼と杵 ばれ句という分野があります。亭主も幾つか試みました。どれも結構上品かと…
餅数多生したる仲ぞ臼と杵 幾臼も搗くが自慢の法螺親爺 手返しの入る隙無し熱(いき)り杵 鴨の味そばよりねきが合いにけり けんほろろ春の兆しも藪の中 炬燵欲す心地を誘ひ初蜜柑 小雪舞ふすすき野小道まよひ道 すずしろの脛洗ふなりにわか雨 妻迎(めむか)えのまっか大根(だいこ)の白あやし 柚の肌と皹肌競ひ香の競ひ 次こその念を入れたり粥柱 野に木通(あけび)摘み食らひて口拭ふ 今宵又懇ろになる竹夫人 謎染の一重帯解く宵の闇 かこつけて髪に触れけり蛍狩 短夜や諦めきれぬ貌二つ 恋の闇線香花火照らしけり 恋迷ふ線香花火落ちにけり 水無月の乳房腕(かひな)に柔らかき
ほかにも結構限り無し…
★蕎麦・再び 俳聖芭蕉は古典の教養を下敷きとする「貞門」から入って、おかしみ俳味を主眼とする「談林」を経由し、やがて独自の「蕉風」を確立したといわれます。「奥の細道」は蕉風を確立するものという位置付けの世評でしょうが、なおこれの本質は「談林」寄りだと亭主は思ふなり…
そばがきで香をとぢ籠めて愛でにけり 味はひの深くなるなり懸大根(かけだいこ) 沢庵漬けを作るには大根を吊るして干します。そうすると味が良くなるとか…大根足もそうなのか… 笥(け)に葱(き)のみ糟湯酒(かすゆざけ)酌(く)む壷(こ)の侘(わび)し 笥とは古代の食器で、万葉集中の語彙を使った単に「かきくけこ」の句… 手をかざしぬくみを得たり冬牡丹 「冬牡丹」は「熾火」の異称… 一文字(ひともじ)の潔(いさぎよ)きかな白き肌 「一文字」はネギの女房詞で、「葱」の一文字からきているらしい…
物騒な半殺しとは萩の餅 煮たり蒸したりした糯米を半突きにして丸めるのがお萩です。ご飯などを半突きにするのを「半殺し」と言う地方あり… 銀杏や臭さ辟易石の原 元某都知事の初当選の時に詠める句…けだし慧眼… 山錦色無き風の染めにけり 秋は白であらわされます。故に秋風を白き風とか色無き風とか言います。そのまんまの句…
俳句を詠むのを常習とする日々を始めたのは、自宅のPCや職場に持ち込んだノートPCに電子版「広辞苑」を入れてからです。それの付録的に季語集があり、それを使って、つまり季語を選んで句作するという手法で毎日5句以上を詠むことを自分に課したのです。季語を見るとそれだけで多くのイメージが湧いてきます。そのころ時々見ていた「NHK俳壇」に投稿しようなどという気になったのも、兼題を示されてその句を投稿するという形式が容易そうに思えたからでした。 高浜虚子が提唱した「客観写生」というのは、亭主は苦手です。リアルな写生を目的とする「吟行」などというものは苦行にも似た行為です。季語こそが俳句の本質だとさえ思っていますから、それ無しで一から句作するのは苦しいことです。写生の過程で季語を見つけ出せばいいのでしょうが、歳時記を辞書代わりにでも持ち歩かないとそれは難しい… 「季語」というのは一定のイメージを纏っています。また、新たにそれを膨らませたものをさらに纏わせることも容易です。それくらい力を持っているものだと思います。季語の持つイメージと同調するみずからの思いなどを言葉として紡ぎ出せば俳句は出来ます。随分と簡単なことです。ただ、季語以外の語句をそれらしく からめ纏めるのは多少の工夫を要するのかもしれません。
そんな風に句作に勤しむ日々が続くと、俳句について無学な亭主としても、流石に先人の教えや考えに興味が向くようになります。遅まきながら勉強しようという気分でもありました。そこで不磨の大典「奥の細道」を読み、それが亭主の「不来方紀行」の形式と少し似ていることに気づきました。さては自動書記の書き手は芭蕉であったかと思ったりもしました。 そのころNHKラジオの遅い時間の番組で「鷹羽狩行」という俳人のコーナーがあり、眠りにつくまでの時間にベットの中でそれを聴取することがありました。その俳論などを聞いたり、その他様々な俳論を見聞きしたりしたものです。しかし、同志、同人などは皆無です。したがって亭主の俳句は独善の塊…
★梅 句作の上で技巧を操るのも亭主は好きなことの一つです。掛詞や縁語、枕詞など伝統的な和歌の技巧を援用する以外にも、江戸地口的なものも好きです。考え落ちも…
梅や円(まろ)きと見せて毒を秘む
これは「梅」の文字を分解するとその中に「円」と「毒」の部分を含んでいるという趣向です。実際の青梅も青酸という毒を含むのに掛けたもので、人は見かけによらないという意もあったりして… これも季語集を眺めているときに気づいた句です。それが面白くて他も探したものですが、すぐに飽きました。
愁ふゆえ心に届く秋の聲 「秋の声」という季語、すこぶる難し… 野は芒(すすき)心に団子供へけり 「芒」と「心」を上下に並べると「忘」が表れます。「団子供」は当然「子供」で、子供の心を忘れない… 毬脱ぎて一皮剥けて渋くなり 心は栗…人もまた…
★鶫(つぐみ) 渡り鳥は季語として数多くあります。その生き様に感じるものがあるからでしょう。琴線に触れるものあり…
北風の匂(にほひ)鶫(つぐみ)ら嗅ぎてをり 広大な畑地の中の道路脇電線上に居並んでいるのを見て詠んだ句です。皆北を向いていた… 旅の鳥か寄りかく寄る冬汀 悠久に空翔(かけ)る雁花知らず 雁風呂や思残すはなきを燃す 雁風呂とか雁供養という季語は胸に詰まります。特に最近は… 帰る雁来る燕(つばくろ)の間(あはひ)かな
★月・再び 月関係の季語もわんさかあります。主として秋のものであり、陰陽の陰ですから、心の襞をよく照らす…
花豆の甘きを想ふ十三夜 本邦の豆は大豆、小豆、豌豆、隠元が大手ですが、隠元の仲間の花豆は甘く煮なければその価値無し… 明日こその心たのしめ十三夜 十三夜圓く圓くと言ひ聞かせ 十六夜を待つ間も永き今宵かな 十六夜の限りをる闇蟲集(すだ)く 十六夜の月はまだ明るく、それが照らさぬ影の闇は深く感じられる… 何無くも二十三夜の汝(なれ)と吾(われ) 夢腐(くた)る鄙(ひな)に三年月見して 憶良オマージュ… 満ちて行く月の行く手に雲の群 鰯雲下弦の月を抱きをり 朝の西空、鰯雲の中に二十三夜明けの月が浮かんでいる… 月待は吾のみか否(いな)蟲めらも 見るべきは見つと云えども池の月 想ひのみ美しくあり寝待月 円熟も傷を癒して後の月 まずまずとせずばなるめえ十日夜 杵抱きて兎震へる寒の月 望(もち)なれど小春日なれば朧(おぼろ)月 何と、上中下に季語入った!!
★木の葉雨 実際の雨ではなく、葉の繁く落ちる様をいいますが、これも好きな季語です。若い時に「輪行」で行った黒磯駅から那須を走り、塩原から川治・鬼怒川へと抜ける紅葉ラインで、落葉松の葉が針の降るように落ちてきたのを思い出します。
木漏れ日の朽葉小道に木の葉雨 小手翳しまなこ細めて木の葉雨 吾洗ひ山肥しけり木葉雨 肘笠で木の葉の雨を凌ぎけり 欲す心地木の葉の雨に笠と蓑
★冬隣 期日限定、時間限定の季語というものがあります。窮屈なのですが亭主はそれがことのほか好みです。包み込まれて締め付けられているような拘束感が情念を高めるのかも…
増えたるは白髪繰言冬隣 丹沢の擦り寄り居たり冬隣 通勤で駅に降りる坂で正面に見える丹沢山塊の近いを見て詠める… 昨日より少し温(ぬく)ひか今朝の春 光より陰を数へて今朝の春 貞門風で、未覚池塘春草夢… また日の目見ることとなり今朝の春 木々の葉の少し重くて今朝の夏 煙(けぶ)る雨嫋々として今朝の夏 容赦なく茹だる暑さも秋隣 ちひさきと侮らるるも小暑かな 日々の行く疾(はや)きを嘆く半夏生 律儀にも颶風訪(おとな)ふ今朝の秋 豆炒る香路地流れゐて春隣 垣の根に影届きけり今朝の秋 朝日の作る影は長いが、同時刻にそれが一層長くなって道端の垣の根方に届くを見る…心の冷える句… 目覚めしてまだ生きている今朝の冬
★花鳥 花鳥風月という言葉があります。自然の美しい風物を指す言葉ですが、そのうちの「花」はそれだけを言えば桜を指します。
花拾ひ拾ひ歩みて終日(ひもすがら) 花軍(はないくさ)討たれ散るとも嬉々として 里櫻濃きや薄きの山まろし みちのくの花を夢路に訪ねけり 石割桜一度見たし… 花弁(はなびら)の散るその様を酌みにけり 春立てど花まだ蕾今暫し 遅咲きの花の盛りの短くて 其々に夢を描きて花筵 出番かと袖から覗く櫻かな 花衣(はなごろも)決めかねている古女房 花の宴嘘八百の駄句並べ 花を待つ心に冷ゑの兆しあり 八重雲と花の覆ひて五百重山(いほへやま) 別れあり出会ひもありて櫻雨 風俗(てぶり)もか花ぞ確(しか)とは目に浮かぬ 憶良オマージュ… 花びらの澱みに狎れて鴨残る 花吹雪惜しまれ去るを見送りぬ
万葉の時代には花は梅を指していたとのことです。梅には鶯…匂鳥が異称…
匂鳥梅伝ふとも音(ね)のまだし 法華異去(ほけけきょ)と日蓮誹る声頻り 近所の泉谷寺という浄土宗の古刹の森で拙く鳴く鶯に噴き出し笑いて詠める… 鶯の仮居(けきょ)と宣(のたま)ふ山の畠 梅ぞ吾白き心も赤き血も 片肩(かたかた)の荷下ろしにしけり梅一輪 娘の結婚式にあたりて詠める… 闇に香を零(あや)しつ開き匂花(にほひばな) 盛りなる梅が枝手折る手の憎し 鶯の鳴き損じたるしじまかな
春は百花繚乱で、季語の氾濫です。どれを取ろうか…
れんげ田の鋤かるる日あらむ咲充てり レンゲは緑肥とするために刈入れ後の田に蒔かれます。春幾ら可憐に咲いても鋤き込まれる定め… 花弁(はなびら)の一片(ひとひら)落としなほ牡丹 牡丹は花の王です。盛りを過ぎても王は王… 地に落つは仕舞ひの椿明日虚子忌 右を見て左眺めて皆菜畑 菜畠や香は蜂めらと分け取りに 休日の散策をよくしていたときの句です。珍しく写生句… 山の畠満作の黄の陽に映えて 憂ふ吾差招きけり雪柳 あの人に驕りありけり落椿 雨よりもつよくありけり沈丁花 一輪の椿天壽を尽くしけり 辛夷咲く決別の情あらたなり ささやかな思ひの集い雪柳 蒲公英(たんぽぽ)の綿毛よ吾よいざ空へ 定年退職の気分を詠んだものです。この句も自賛… 恫喝に屈せぬ矜持黄水仙 取り立てて言ふこともなし霞草 菜畑に紋黄紛れて昼餉時 茫々の白詰草に足とられ 実り無き努力なれども沈丁花 木蓮や灯し灯され生きて行く 連翹や望みのたけを並べ立て 連翹の我も我もと競ひけり 路地路地を我物顔に沈丁花 躑躅花謳歌せるなり山燃ゆる 鈴蘭やたくらみ秘めて笑み浮かべ これなど季語から連想の観念写生句… 藤波のいざよふ岸辺さ迷へり 藤村気取り… 息長く励むほかなし金盞花 数多なるともし火掲げ白木蓮 菜の花や土の黒さに気づかされ 葉の色は僅かに見ゆる躑躅垣
★風 風景の中で風は目に見えないけれども物を動かすので見える存在です。その機微やよし…
強東風(つよごち)や咲くを躊躇ふ心地して 風向きの変わったるらし貝寄する 待ちかねし風の吹き出し貝寄する 風音のしじまに乗りて揚雲雀 登坂向ひ風でも卯月風 春風や旅の心は北を向き 春風や蹌踉(よろぼ)ひ這ふも今日か明日 萌草や背中(せな)押す風と四里(より)の道 晴嵐に身を委ねけり青柳 一椀に野の風を盛り菜飯かな 寒風に耐へて微笑む梅愛(かな)し 風車羽落としてもなほ回り 旅人の喜び誘ふ風車 蛤鍋(はまなべ)や風の変わるを読み違(たが)へ 芽吹きたる欅並木に風甘し 若葉とて世間の風は容赦なし 戀鯉の逢瀬あるらむ風薫る
★雨 情感を掻き立てる季語です。すべての季節に使える…
夜の底のほの明るめり春の雨 泥被り厭はぬ吾に春の雨 けぶる野に目を細めけり菜種梅雨 打ち掛かりなほ打ち掛かり白き雨 黒雲(くろくも)の繰り出す技(わざ)の白雨かな 鴻毛の身と歎じけり若葉雨 手弱女の如百合揺れて雨けぶる 交差点急ぐ傘々走り梅雨 夕立のあるやもしれぬ今朝の空 木々の葉の擦れ合う音や梅雨明ける 風待つに軒叩きをり蝉時雨 梔子(くちなし)の零(あや)す香仄(ほの)か雨が下 田の面(も)打つ村雨奔り梅雨入りぬ 煩悩を洗ひ清めて白き雨 吾が胸を天知る如し白き雨 襟立てて見上げる頬に秋の雨 鶏鳴の待たるる闇や冬の雨
★燕 燕は夏に渡って来る代表的な渡り鳥で、軒先に巣を作るなど人の生活の近くにいるので目にすることの多いものです。前年の巣に戻ってくる律義さを愛でられたのかもしれません。夫婦でする子育ての姿が愛おしく思われたのでしょう。巣が落ちないように見守り手当てする人の心…
取つ置いつすぱりと切りし燕かな そういえば、燕三条は刃物の産地… つばくろと目が合って胸晴れにけり 水面蹴り今日の糧得よつばくらめ つばくろの背の艶光り夏近し
爪で集めて箕でこぼす鼠男の亭主は、一時期ナイフの収集に耽っていたことがあります。最初の大病が始まる少し前の時期からです。1980年代前半ですね。当時スイス・アーミーナイフがマスコミに取り上げられて、その機能美と性能が喧伝されたものです。亭主はそれに惹かれて、まずそれを手に入れました。いわゆるツールナイフという分野のもので、ナイフ刃以外に缶切りとか栓抜き、錐、ネジ回しなどの道具がハンドルの中に折り畳まれているものです。国民皆兵のスイスでは全国民が持つものというような宣伝がされていたと思います。真偽のほどは不明なのですが… 日本で手に入るスイス・アーミーとしてはビクトリノックス社とウエンガー社の製品がありましたが、赤いブラハンドルは似ているものの、細部の造作は結構異なっていました。使えもしない道具の種類が多いものほど高価ですが、幾種類か入手したものです。何とか記念の限定版なども… 興味が募って書籍などでナイフについての情報を知ると、それらが欲しくなりました。当時出来たばかりの今は無き町田ハンズとか御徒町のガード下に出かけて行って、あれこれと手に入れたものです。もう少しで自分で鋼材を削ってするナイフ造りに入り込むところでした。 ナイフは買っただけでは、本当には切れないものがありました。スイス・アーミーなどはすべてそうです。必ず砥石で刃付けをしなければ使えるものではありません。鉛筆も削れない… その点、アメリカ製やアメリカのナイフブランドのものは、始めから相当に切れるものがあります。不器用な開拓者を相手に万屋のカウンターに置くことで商売した歴史がそうさせたのでしょう。バックやガーバーが大手ブランドでした。このうち、ガーバーは日本製のものを自社ブランドとして販売するOEMも行っていました。それらは本国工場製のものとは少し雰囲気が異なっていて、切れ ものという感じでした。そしてそれらをOEM製造していたのが美濃の関鍛冶の末裔やその血を受け継ぐ者たちなのでした。 また、新興アル・マーという海兵隊上がりらしい支那移民の始めたブランドも勢いを持っていて、そのOEM製造も関鍛冶の末裔たちがほとんどです。
このナイフ収集は大病の入院生活後に途絶しました。それどころではなくなっていたというのが実情です。しかし、このことで亭主に刃物砥ぎの技能が確立しました。買っただけでは切れないものが多いことで砥ぎを行うのです。砥石を何丁か手に入れ、その技に習熟しました。ナイフの情報書などでは、ステンレス鋼の刃はアーカンソーなどの油砥石を奨めているのですが、亭主はそれに与しません。国産の水砥が最も高性能です。天然は高価ですから合成砥で十分です。鉋や鑿のように炭素鋼の片刃をベタ砥ぎするのなら天然に勝るものはないのでしょうが、ステンレス鋼ナイフは刃先だけを研ぐのですから気軽に使える合成砥の方が向いているかもしれません。 この一定角度で刃先を砥石に滑らせるナイフ砥ぎの技能に習熟したことで、ステンレス包丁の砥ぎにも熟達しました。山の神は恐らく一度も包丁砥ぎをしたことがないはずです。それでも雌山亭厨房に蟠踞する包丁たちは亭主の気が向くと砥がれるので、俎板上でトマトが潰れることはありませんし、刺身の角も立ちます。すぱり…
取つ置いつ思ひの映る芋の露 芋の子を洗ふ流れを雲流る 鍋洗ふ流れにくるり芋車 芋蒸ける何して居ても子等集ひ 道端にごろんと花梨雨上る 有りの実の香の滴りて類(たぐい)なし 足元を踏み確かめて牛蒡引く
そのころ入手した包丁で、関の「G・サカイ」というアメリカのガーバー社のOEM製造をしていたところが売り出した牛刀で、その刃を日立金属のステンレス刃物鋼「ATS34」で作ったものがありました。この鋼材はアメリカの高名なカスタムナイフ作者ラブレスが賞賛していたものです。そのこともあり、典型的な洋包丁の形で少し高価でしたが、その名に惹かれて買ったのでした。 ところがこの包丁、刃毀れが著しいのです。山の神が斟酌なく魚骨、南瓜、半解けの冷凍食品などを叩き切っているせいなどもあるのでしょうが、亭主が見るたびに刃先が何か所も欠けているのです。日立金属はそのホームページでこの鋼材は靭性が優れていて、硬い刃先にもかかわらず刃欠けのし難いナイフが作れると公言していますが、それは一部が嘘です。しかし硬いことは真実で、砥石で砥ぐのは、往生しまっせ… いくら砥ぎ難いといっても刃欠け包丁をそのままには出来ません。見つけるたびに荒砥から始めて刃欠けを落とし、砥石を何枚も替えて腕の毛が剃れるまでに砥ぎ上げると、いつも優に一刻は過ぎていました。草臥れる… こんなことを続けていたら、元は普通のものより背が高かった牛刀は、もう少しで柳葉と間違えるほどに細っています。今でもこの包丁は「G・サカイ」というブランドにて新品で入手出来そうなので、それを手に入れて減った分を比べるのも暇つぶしにはなりそう…
包丁というものは、可能な限り薄刃のものが使い易いものです。強度が維持できないほど薄いのは論外ですが、何かにつけて薄い方が切り易いものです。 また、刃はあまり硬くない方が砥ぎ易いので、それの方が優れています。硬いものは多少刃持ちが良いものの、刃欠けのリスクが高いのと、何と言っても砥ぎ難いのは、どうしても必要な砥ぐことに億劫になります。柔らかめで砥ぎ易い刃は砥石で両面から一定角度で数回撫でるだけで切れ味が戻りますから、毎日でも負担となりません。調理台の傍に水に入れた砥石を1枚置くことが料理上手の基本… そうして一時の気の迷いで収集した高級ナイフの多くも、高級自転車部品のネットオークション出品と並行してその身の振り方を決められ、見返りとして亭主に潤沢な資金をもたらしました。今は廃版のそれらは結構人気に…
砥石据え秋鯖想ひ刃の試し
ところで、刃物の持ち歩きには「鉄砲刀剣類所持等取締法」の制限が付き纏います。用途もなく持ち歩けば法に触れます。ただし、法22条により刃渡り6p以下のものは、合口など限定列挙されているもの以外は除外されています。また、同条但し書き及びそれに定める政令で刃長が8cm以下の折り畳みナイフも刃幅が1.5cm以下、厚さが2.5mm以下、開いた刃体の柄へのロック装置が無いもの、この3要素を満たしたものは同様に除外で、この範囲にほとんどのスイス・アーミーナイフは入りますから、確認の上携帯してください。亭主は小型のものをキーホルダー兼用としてずっと携帯を続けています。仕事の上でも私用でも色々と役に立ちました。
亭主の収集癖を振り返ると、「物」の収集以外に、その「物」についての知識や能書きにも興味が向いていたものです。雑誌、書籍など資料の収集にも結構な時間とお足を費やしたと思います。そんなものも多くが同類に求められて嫁いで行きました。中には大枚な結納金を残したものもあったりして…
白菜のさくりと切れて鍋もよし 根深畠あをの深きを誇りをり
現在の大きな収集癖の一翼を担っているのが「ベローズ装置」です。最初は亭主の使用カメラで使える「PENTAX AUTO BELLOWS」でした。その三点微動式のメカニカルな機構に惹かれたのです。一旦物欲の扉が開くと、自己資金が許すのならその収集は山の神の顰蹙など物ともしません。しかし、家計に手を付けるようなことは矜持が許しません。あくまで懐手の内の事です。 お決まりの情報の収集癖と共にその「変異」を追うこととなり、それに着目すると次々に新たなる変異が網にかかりました。今では最初に手にした「PENTAX AUTO BELLOWS」一族の変異の軌跡は悉皆収集出来ているのでは、と思い込むようにしています。実はもっとあったりして…
この機種名称の「AUTO」というのは「自動絞り」のことで、シャッターを押すと自動的にレンズの絞りが作動するというものです。この自動絞りの連動を「ダブルレリーズ」という装置で実現するのです。しかし、今日のデジタル一眼カメラのほとんどはシャッターボタンに「ダブルレリーズ」を取り付けるネジ穴が付いていません。随分前にカメラが電気作動となったときに廃されてしまったのです。その代わりに遠隔操作は押しボタンスイッチと電線による接続で行うようになっていて、そのためのソケットがカメラには付いています。これを利用することで「ダブルレリーズ」を使えるようにする「変換装置」を繋いで「AUTO」は実現が可能となるのです。はあ… そんなわけで、亭主は「変換装置」を得る策動を重ねることになります。今では独自考案を含めて幾つかの方法を案出して万全の体制です。ふう…
収集が進むと、悪い癖で他機種についても目が向きます。そんなときに1本丸レールが折り畳める「KOPIL」の出品があり、その脆弱な折り畳み機構の故に今では健全な品が稀であるかのような説明がされていました。そんなときに「ASAHI BELLOWSCOP」という品が場所違いの「顕微鏡」のところに出品されているのを偶然見つけました。学校や企業から出た顕微鏡関係の古物を扱っているリサイクル業者のようでした。その用途も知らなかったのでしょう。亭主は初値で落札しましたが、確か「0.5K」のはず… 後の調べの中で「ASAHI PENTAX」、つまり「AP」と俗称されるカメラ時代のベローズ装置で、旭光学工業が販売したものと分かりました。「Sマウント」ですから亭主のカメラで使えますし、「Takumar」たちが使えます。1本丸レールが折り畳めるのは「KOPIL」のBELLOSCOPEとまったく同じです。これはOEMだとピンと来ました。
橡餅や鄙の竈に煙絶ゆ 松茸の焼けをる煙ふけらかし 山盛りに枝豆据ゑて待つ夕べ
ベローズ装置を追い続けている中で様々なことが見えてきました。それらが作られ、売られていた時代のカメラ機器業界の商習慣というものも浮かび上がったと感じています。それを知ったからどうなのだと言われれば、まったく無駄かもしれないと答えるしかありません。 しかし、無駄こそが人類を他の種から特別の存在へと導いた最大の功績であり、無駄とは文化そのものだというのが亭主の確たる主張であり信念です。人は往々にして偏狭に無駄を謗ることがありますが、それは文化そのものを卑しめる行為です。無駄と言う口の醜さ、無駄を言う口の可笑しさ、無駄万歳…
霰打つわが身にひそむ魔物あり 何時の間と知れず吾庭末枯れぬ 襟巻や二重(ふたゑ)に巻いて夢仕舞ひ 風花や噂の一つあらまほし 堅炭や積重ねしは何と何
★櫻 亭主の若い頃、モーターゼリションの高まりがありました。トヨタのカローラや日産のサニーなどが発売され、マイカー、ファミリーカーというような潮流も生まれていて、大学在学中に運転免許を取り、家にあった「スバル1000」を運転したのが始まりです。亡き父が買った車ですが、父は運転免許を取ることもなく一生を終えました。退職後の晩年近くに原付免許は取りましたが… 車は子供に買い与えたというものです。年子の兄が先に運転免許を取り、それと同時に購入しました。この水平対向エンジン前輪駆動の車は前輪ブレーキがインボードのドラムだったので、恐ろしい体験をしています。父母と叔母夫婦を乗せて上州湯檜曽に泊まる旅行に出た帰りに、沼田から金精峠に登り、戦場ケ原を抜けて日光いろは坂を下るコースを選びました。その間一度も停まることなく山岳道路を疾走してエンジンの吹き上がりの良さを堪能していたのですが、いろは坂で追い越し車線を駆使して多くの車をごぼう抜きにし、その当時の他社とは違う全輪独立懸架の旋回性能の良さを誇っていたのですが、最後のカーブを回り切る直前に踏んでいたブレーキペダルが床までついたのです。何度踏み直してもスカスカな状態です。頭の中が真っ白になりました。咄嗟に脇のハンドブレーキを引き、ギヤを次々と落として車速は落とせましたが、その現象がもう少し前で起きていたら、カーブを回り切れずに谷底に転落していたかもしれません。最終カーブの先は緩い下りの直線で事無きを得たのでした。 原因はペーパーロックといわれるもので、ブレーキパイプの中でブレーキ油が沸騰して気泡が発生したのです。液体は力を伝えますが、気体はそれ自体が圧縮されるだけでその先には力を伝えません。ブレーキ油が沸騰するくらい熱を持たせてしまったということです。これは亭主の定員乗車でエンジンとブレーキを酷使した運転が原因の一つですが、車の構造もそれを助長したと思っています。インボード ・ドラムブレーキがエンジンのすぐ後ろに付いているという構造がそれを起き易くしたと思っています。ブレーキをインボードにしたのはバネ下重量を軽減することでサスペンションの負荷を軽減する意図の設計だと思います。その効果は旋回性能の高さが証明していました。ドラムブレーキのドラム自体には周囲に放熱フィンが設けてあったのですが、そんなものでは高回転続きで負荷をかけたエンジンの熱を浴びては焼け石に水ということでしょう。 この時以来、亭主は下り坂では可能な限りブレーキを使わないようにしています。エンジンブレーキで事前に車速を整えればほとんどの坂で使わなくても済むのです。無暗に荒い運転をすることも控えています。
芋虫のどてりと落ちて睨みけり 踏む先を示しをるらし野の飛蝗
この事件のあと、まもなく新発売になった「スバル1000S」へと父は車を買い替えました。これはSUツインキャブでエンジンを大幅にチューンした機種で、前の車のコラムシフトとは違ってフロアシフトがスポーツ感を醸し出していました。インボードのままながらブレーキはディスクになっていました。放熱性で大きな差があったと思います。タコメーターも標準装備です。 この車の思い出は、最初に交通違反切符を切られたことです。伊豆半島を巡る一人旅に出て、学生のことですから途中車中泊を目論んでいました。1月半ばのことで、いくら暖かい下田といっても結構冷え込んで、エンジンを切った車中は厚着して毛布二枚にくるまっただけでは寒さが身に沁みました。そんなことであまり眠れなかったのです。朝になって早々に帰る気になっていて、最短帰路の伊豆スカイラインを北上し、冬の晴れた早朝の富士山をずっと正面に見る絶景を堪能しつつ進み、大観山を抜けてターンパイクを下って湯本から小田原城手前に差し掛かった時、熱海方面からの合流三叉路で一時停止の信号を見逃して進んで、朝の時間帯の張り番をしていた警官に呼び止められたのです。寝不足で注意力が落ちていたのでしょう。それ以後、運転で違反切符を切られたことはありません。駐車違反は一回ありましたが…
兄が通勤に家の車を使っていて、就職して亭主も在学中にしていた家庭教師をそのまま続けていたので収入に余裕があり、自分の車が欲しくなって「スバルR-2スポーティデラックス」という軽自動車を購入しました。32馬力の2ストロークエンジンは分離給油で、4ストロークエンジンとさほど扱いが変わらなかったと思います。 この名車てんとう虫の後継車種は結構走りが優れていて、室内もより大きくなって大人4人が楽に乗れるようになっていました。最高トルクが5500回転なのでその前後を使うと加速は良く、当時のポルシェ911に追従出来たほどです。音は凄かったけれど… この車の思い出は、母方の祖母が末後となった病に臥せっていたときに、駿東郡の母の実家に毎週のように見舞いに伴っていたことです。国道246を行くのですが、911追従のエピソードはこの道中山間でのことです。 しかし、911と同配置リヤエンジン後輪駆動の軽い車は雪には弱く、路面に薄く新雪が乗ったぐらいでお尻フリフリが常でした。 買った当初は通勤に使えていたのですが、建物改築工事で駐車スペースが無くなり、やむなく家の狭い庭に寝かせて置くことが多くなったのと、「スバルレオーネ」が発売されたことで、これを兄が購入するときにスバル1000Sと共に下取りに出したのでした。
暫く車に乗らない時期、つまり盛んに自転車に乗っていた時期を経て、三菱のミラージュを買ったのは結婚後子供が生まれる前の事でした。そのころは兄一家が転職で竜ケ崎に転居し、庭に車を置けるようになっていたのと、出産入院などに備えようということで買ったと思います。 この1500cc4気筒OHCエンジンの3ドアハッチバック車は前輪駆動AT車で、このとき始めてAT車というものに乗りました。次に車を持つときは絶対にAT車にしようと決めていたので、 その良さを知っていた前輪駆動でその設定があるこの車にしたのです。その時代までのAT車というのは燃費が悪いという都市伝説が蔓延っていて、それを敬遠する空気があったのですが、亭主はある経験がトラウマになっていたので絶対AT車と決めていたのでした。 そのトラウマとは、亡き父を乗せて父の塩谷町の実家に月遅れ盆に行った時のことです。盆明けに帰宅するときに、宇都宮を過ぎた雀宮あたりから国道4号線は渋滞が始まり、間々田、古賀、栗橋、幸手と、それは結局千住大橋を渡って暫くするまで続いたのです。その間11時間余、100q足らずの道程をそれだけかかったのです。時速10qにもなりません。その渋滞というのが極めて小刻みな停止と発進の連続で、少し長く止まっているのは赤信号の時ぐらいという超ノロノロ渋滞でした。その間クラッチペダルの断接が延々と続いたのです。帰宅した翌日は左足が腫れ上がっていました。車を手放したのもそのせいかもしれません。 新生児を乗せて今の家の新築現場を見に行ったりした黄色いミラージュには当時の常識でクーラーが付いていなかったので、夏に子供を乗せて旅行に行ったりすると大変でした。クーラーボックスに凍らせたジュースやおしぼりなどを詰め込んで出かけたものです。 この車は10年ほど乗りましたが、バックギヤが滑るようになっていたことを契機として、新型が出たばかりの3ナンバーの7人乗りプレーリーに替えました。その時代にはオートエアコンが当たり前になっていました。ドアの窓ガラスも電動です。 この3ナンバーの車に乗り換えると、最初はその加速の良さに驚いたものです。前車ミラージュより倍も馬力があったのですから当然でした。この「カバ」を宣伝アイテムに使った車は名車だったと思います。普通に使うには何不自由なく乗れました。カバの突進より敏速だったし… それはこの頃は珍しくもなくなった3列シート車のはしりで、しかし7人乗ると荷室がほとんど無くなるのでルーフラックレールを乗せました。二本渡したレールの間に蓋付プラスチックケースを二つ並べてぴったり収まるようにし、それをGクランプで締め付けるシステムを自作しました。スタッキングの要領で更に同じケースをその上に積めるようにしたので、三人の子供の替え着など荷物が多くても、山の神の姉たちなども乗せた定員での遠出にも対応できました。 この「カバ」も10年以上乗り、それを替えたのが今の御料車セレナです。「カバ」のオルタネーターが死んで発電しなくなったのを契機として、二代目セレナの最晩年に購入したのでフル装備でも安価で、9年を過ぎましたが少しの不満もありません。3ナンバーでも税金は下のランクで、「カバ」より小さなエンジンなのに同等馬力で、変速機がCVTなので機敏かつスムーズであり、座面が高いので視界が良く、足回りやブレーキも不満はなく、8人が楽々乗れるこの車種が同クラスでベストセラーを続けているのが頷けます。この車でナビとETCの便利さを知りました。9年目の車検でもナビの地図ソフトを更新しましたが、そのバージョンが最終になると宣告されました。製造終了から7年を経つと部品の供給が止まるのが普通な社会は結構理不尽… 次の車は軽四輪でいいかなと考えています。今のそれは亭主が最初に所有したものとは異なってエンジン排気量も車体寸法も大きくなっています。馬力だってターボなら最初に乗ったスバル1000より上だし…
振出しに戻り眺むる櫻かな 蚊の命叩き潰して吾平然 さざなみの打ち寄せ来たり麦の秋 絶妙の相槌打つなり青葉梟(あおばづく) 梅の実の熟し切っての朝(あした)かな 炎天や翳濃きものに惹かるなり 風死すと便り無きにもそれと知り 汗顔(かんがん)の至りと平伏(ひれふ)し真桑瓜 草笛に込めて想ひと風に乗り 鴻毛の身と歎じけり若葉雨 少年の日の手にあるは氷水 空豆の望み高けれ吾如何に
★草矢 「ファミリーヒストリー」というNHKの番組があります。主として知名人の数代まえぐらいまでの家族の歴史を調べ辿る内容ですが、それを見ると亭主自身の家族の歴史についてほとんど知らないことに気づかされます。一緒に住んでおらず、顔を見たことがあるというぐらいの祖父母たちのことはもちろん、父母についてもそうです。ましてや亭主の生まれる前に亡くなった先祖のことは全くと言っていいほど知っていません。「ルーツ」というアメリカ黒人の祖先史をドラマにしたものがありましたが、亭主の「ルーツ」はかなり濃い霧の中…
父は塩谷町の自作百姓の家の兄弟の多い次男です。昭和初期、世界的不況で疲弊した農村は、跡取りの長男以外は商家などに働きに出されるのが常態でした。次男である父も多分に漏れず深川木場の材木問屋で丁稚奉公をしたとのことです。徴兵検査で海軍に入り、横須賀の海兵団が最初だったようです。そこでお決まりの理不尽な新兵いじめにもあったらしいのですが、その後志願して水雷学校に入り、終戦まで水雷科で過ごしたようです。海無し県の生まれである父が海軍に徴兵されたのは、その父、つまり亭主の祖父が第一次世界大戦に海軍で従軍していたらしいのがその理由かもしれません。入り婿であったらしい祖父はその軍歴を自分の口で語ることはありませんでした。 支那事変のときは、父は空母赤城に乗り組んでいたとのことで、そのときの「従軍記章」を貰っています。太平洋戦争開戦時には第一駆逐隊の「沼風」に乗り組んでいたということは聞いていました。「第一駆逐隊」というのは下北半島大湊軍港にあった小艦隊で、その4隻は太平洋戦争時最も旧式だった駆逐艦で構成されていたはずです。老朽艦隊故に南方の最前線に出ることなく、後方の北方警備が任務で、カムチャッカから千島列島、ソ連沿海州沿岸を警備していたようです。そのため直接敵に対して積極的な攻撃行為は経験していないようなのですが、荒れる冬の北の海で最も古くて小さな駆逐艦を操ったことは語っていました。嵐の中、屋根は帆布張りの艦橋で舵輪を握り、定められた進路に狂いなく進めるのは極めて困難なことで、自慢めいたことを言うのはその技量が艦で一番だったということでした。また、漁の船団を護衛していたときなど、水深を測る測鉛の底にホッケの群れが当たったそうです。「底質ホッケー」と報告するのだなどと言っていました。そんな時の艦の食事は焼き魚、煮魚はもとより、味噌汁まで、守護していた漁船からの貢ぎ物ホッケ尽くしになるので辟易としたなどとも聞きました。 この艦隊勤務も、アリューシャンのアッツ・キスカ撤収作戦支援らしきときに、霧で視界が全く無い中、近くの海面に敵の砲弾が降ってくるのを必死に逃げ回り、自分たちは見えないのに相手からは的確に攻撃される恐怖により、これは駄目だと敗戦を覚悟したとのことです。そこで異動を画策して大湊から横須賀に転属したとのことで、これをせずにそのまま乗艦を続けていたら、戦争末期に台湾沖に沈んでいたのかもしれません。 既に古参下士官となっていた転属先の横須賀では「酒保」の管理担当先任下士などをしていたようで、この時期に母と結婚したとのことです。「酒保」はその性質上、当時の一般民衆は手に入れ難い物資がたくさんあります。それらに困らなかったというのが母の証言でした。役得かも… やがて横須賀工廠で建造中の戦艦信濃改め空母信濃の呉への回航防雷要員として配属されそうになったとのことでしたが、手を尽くしてそれを回避したと聞いています。乗っていれば紀伊沖で沈んでいたでしょう。ここでも命を拾った… 戦争の最晩期には「海防艦」に乗り組んでいたとのことです。空母信濃への搭乗を回避した代償だったのかもしれません。父はその艦名を一度も言ったことがなかったのですが、この時期の海防艦は明治時代などの旧式戦艦や巡洋艦がその退役後にあてられていたものではなく、艦名も付けられずに番号で呼ばれていた小さな船だったのだと思います。この海防艦で沿岸の機雷敷設とか爆雷での対潜水艦防衛に従事していたのでしょうが、終戦の数日前に任務中の海上で空母艦載機の機銃掃射を受け、積載してあった機雷か爆雷にその弾が当たって誘爆した爆風に吹き飛ばされて頭と左上腕に重傷を負ったのでした。 終戦の日は久里浜野比の海軍病院で迎え、その後完全には傷の癒えることなく妻子を連れて故郷に帰ったらしいのですが、近くの今市の町に居を構えて、従軍前の仕事を生かして起業したばかりの「東武林業」に就職したとのことです。ここでは左肩腕に負った戦傷の癒えきらぬのを庇いつつ働いたのでしょうが、母が若い頃に習得して、父と結婚前の横須賀では軍服の縫製等で生計を立てていた腕を生かして和裁、洋裁の技で生活を支えてもいたようです。当時父が調達したのを使っていた無節ヒノキの長く分厚い裁ち板が、今も裏庭の物置で棚板として活躍しています。亭主はこの町で生まれました。 ちなみに、「東武林業」というのは現在「東武建設」という会社名で存続しているようです。その沿革を見ると、どうも昭和27年に建設業登録をしたときにごたごたがあって、材木商が出自の父は土建に抵抗があったのかもしれません。同じ畑違いなら新天地をというのが母の使嗾かもしれません。父は重要な決定は常に母に従っていました。 本当のところは何があったのかは分からないのですがその会社は辞め、東京で畑違いの職を探し得て、小さいながら家を建てて転居しました。入った工場プラント設備製造会社は折からの朝鮮戦争で良くなった景気に乗って急速に大きくなって行き、米資本を導入するなどして一時は地域の最高給会社と囁かれたものです。その会社は退職まで勤め、その間亭主と兄を何不自由なく育て上げたのでした。 母がその特技を家に居ながら生計に生かした時期も転居した始めの頃はあったのでしょうが、父は便利なもの、新規な物を買うのが好きで、木製の氷で冷やす冷蔵庫や、まだあまり近所の家には無かった木製の内風呂を下屋のコンクリート土間に据えていました。電気洗濯機は町内で一番先に導入しましたし、テレビを買ったのも昭和30年代に入ってまもなくでした。売り出したばかりのジューサーを買って、夏ミカンの酸っぱいジュースを作ったのを覚えています。家庭第一主義の父の背を見て育った我ら兄弟が同じような人生を送っているのは当然のことなのかも… 父も母も若い頃の事やその後の戦争中のことは断片的にしか話しませんし、寡黙でもある祖父などはまったく口にしませんでした。そうさせたのが軍機だった故なのか、口にしたくない経験だったのか、その真実は闇の中です。 その父方の祖父は百姓ですが、同姓ながら入り婿だったらしいのです。亭主の曽祖父のときに、残されている位牌が江戸中期にまで遡る家は潰れ、人手に渡っていたらしいその家や農地を取り戻して再興したのが祖父ということのようです。当時の日本人としては大柄で、明治、大正期の海軍に従軍したのもそうなのかと思わせるものがありました。 父の実家である農家は塩谷町にありますが、その中でも昔の名称は船生村と言った地区です。この地区からは作曲家の「船村徹」が出ていますが、本名「福田」というのもその地域に多い姓らしいです。この船村徹の姉が父の小学校の同級生だったということを聞いています。そのペンネームの由来も「船生村」生まれからなのでしょう。 少なくとも江戸時代中期には土着の百姓となっていた父の実家の先祖は、戦国時代に近くに館を構えていた同姓の豪族ないしはその一族なのだろうと思われます。実家の近所は多くが同姓であり、互いに屋号で呼んでいました。誰も姓でなど呼びません。同じなのですから…このあたりの戦国期は小領主が分散割拠していたようで、有力大名のいなかった地域です。 風土は鬼怒川の近傍なので水田が多いのですが、西と北に高い山脈が迫っているために夏には午後3時になるとほとんど毎日のように広がる黒雲に遮られて日照を奪われ、反収が平均以下であり、その米の味は「鳥跨ぎ」と、ひょうきんなところがあった祖母が言っているとおりでした。今もそうなのかは不明…
母方の家は駿東郡裾野町で、富士山と鷹取山の間の山裾です。雨が降らないとゴロゴロと石が転がっている川底が乾いているような土地ですから、水田はごく少なかったようです。そんな畑作陸稲主体の百姓なのですが、その家系図は鎌倉初期侍所別当三浦氏和田義盛にまで遡るとのことです。北条義時の追手を逃れて落武者が住み付いたと伝わるその集落の名称は下和田… 母方の祖父は亭主が生まれる遥か前、母が学校を終わるかどうかという時期に亡くなり、子供の多い百姓の母子家庭となっては、長女である母は早々に働きに出たようです。畑仕事が嫌いだったとも聞きます。戦前の高名な外交官のお屋敷勤めとか本郷の医療器具商社で働いたとか、色々と経歴はあったようですが、そんな中で習い覚えた和裁、洋裁の技能が戦時中の横須賀で父とめぐり合わせたようです。 しかし、系統立った話はついぞ聞く機会がなく母は亡くなりました。まだ物のない時代に絶品のカスタードクリーム入りワッフルを作ることや巧みにスフレパンを焼くことなど、また、漉し餡作りの技や自在だった布団の綿入れなどにしても、ただの田舎百姓家の娘の心得とは思えません。その老後にそれまで半同居していた亭主夫婦が現在地に新居を構えるのと同時に東京の家をたたみ、竜ケ崎にいた亭主の兄一家と合流するかたちで転居した冨里市で盛んだったゲートボールチームに父と共に加入して、その県代表を争うチームの名監督を務めていたと聞いています。エースは父だったらしいのですが… 母方の家はその集落の中では中核の家だったらしいのですが、そのせいか複雑な人間模様もあったようで、それらについて母やその弟妹たちの口は重く、ごく断片的にしか聞いていません。横溝正史的な世界があったのかも… ちなみに、和田義盛は三浦一族の中でも杉本義宗の子です。その所領の地名「和田」を取って名乗ったのだとか…母方の家の姓は「杉本」で、その男子の名は歴代「義」の文字を使います。伝承が続いていたことが知れます。 なお、駿河には朝比奈氏という戦国大名今川氏の有力武将がいましたが、これも和田義盛の子の系統と言われています。何か関係があったのかもしれません。
故郷(ふるさと)は夢の中棲む草矢(くさや)飛ぶ 蝉時雨熟寝(うまゐ)の後の大欠伸(おほあくび) 栗毬(くりいが)の青きを抱く樹の大き 団居(まどゐ)をる耳目(じもく)奪へり走炭(はしりずみ) 微睡(まどろみ)の夢を容(かたち)に酔芙蓉(すいふよう) 力瘤(ちからこぶ)誇るが如し夏の富士
亭主の記憶を辿ってみれば、幼少期のことは極めて断片的にしか残っていません。そんなものを拾い集めてみるのですが、最初に現れるのは今市の家のことです。4歳以前のことで、近所に杉並木の道があり、その三叉路の又のところに鳥居の有る神社があった風景、北側だったらしい家の入り口の正面と右側は少し高い土手状になっていて、雪の積もったその土手斜面を橇で滑ったこと、 鍵の手に廊下の廻った座敷の前は草原で、そこを走り回ったこと、近くの今市駅の黒い機関車の群れ、買ってもらったブリキ玩具の自動車、確かジープ…
今市の家から東京の新築の家へ引っ越すときには母と兄は汽車で行き、父と幼い亭主は荷を積んだトラック助手席に乗りました。ほとんど眠っていたらしくて途中の風景の記憶は全く 無いのですが、夜の暗さの中に雨が降っていた記憶があります。 東京の小さな粗末な家は水道もガスもまだ無く、井戸と薪炭の生活でした。戦争中の強制疎開で更地となっていた土地に建てた家なので、周囲には土台だけの空き地がたくさんありました。道路脇排水路も素掘りのままで、イトミミズの群れが蠢いているのが嫌でした。 鋳鉄製の竈と鍔釜で米を焚くのですが、薪ですからおこげが出来ます。このおこげを好んだのを覚えています。この米焚きは亭主も手伝いました。厚く重い木の蓋を押し上げて吹きこぼれると燃えさしの薪を引くのです。火ばさみで残り火を消壺に入れ、蓋をします。これで出来る消し炭は七輪と鍋での煮炊きに使うのでした。 冬の暖房も火鉢に炭、矢倉炬燵には炭団か豆炭ということで、薄い窓ガラスに明け方は結露が凍った結晶模様を描き出す寒さに耐えていました。一度、炬燵の豆炭で一酸化炭素中毒になり、危うく一家全滅の危機を迎えたことがあります。 その後すぐに灯油ストーブを導入して、ブリキの一斗缶からブリキの手押しポンプで給油するのを見るのが好きでした。 沖積平野の自然堤防上に立地していて多摩川伏流水を汲み上げる浅井戸だったので、水質は悪かったようです。そのままでは使えないので、一斗樽の中に砂と棕櫚皮を交互に積み重ねたものをろ過装置として、そこを通して使いました。手押し井戸ポンプの吐水口には晒の袋を取り付けているのですが、すぐに赤茶色に染まったものです。定期的に砂と棕櫚は入れ替える必要がありました。 台所の生ごみを捨てるために庭に穴を掘るのですが、深さ30pも掘ると翌朝には縁近くまで水が貯まっているほど地下水位が高い土地なので、近隣の家とともに川崎日本鋼管の溶鉱炉から出た鉱屑で土地の嵩上げをしました。その地域は今でも数10pの鉱屑層があるはず… やがて地域に水道が引かれ、都市ガスも引かれました。しかし、便所の汲み取りは長いリヤカーに木桶を幾つも積んだのが回ってきて、柄杓で組み出します。その量に応じて購入してあった汲取券を渡すのです。塵芥の方は家々の軒先に置いたゴミ箱から大きな竹笊を抱えて回収していました。その笊を積み重ねるのは高い木枠で囲んだ大八車でした。こちらは無料だったと思います。ゴミ箱は最初は黒塗りの木製でしたが、コンクリート製に代わりました。それがフラワーポットなどに流用されてまだ残っているのをごく稀に見ます。 やがて木桶での糞尿の汲み取りは長いホースを伸ばすバキュームカーに替わり、ゴミの回収も蓋付の大きなポリバケツ容器からに替わりました。その変遷は東京都清掃局の変遷でもあったようです。作業に従事していた人たちにも歴史が… 回って来ると言えば、夏の時期、氷で冷やす冷蔵庫のために氷を毎日配達に来ました。その配達の車は水島製作所のオート三輪車で、中央の運転席脇の補助席のようなものに乗せてもらったものです。荷台に積んだ大きな塊からノコギリで切り出してもらうのですが、時々多めに買って、カンナでかき氷を作るのが贅沢でした。うちの親はどんな親だったのか…
引っ越した当初の道は土のままで、砂利を定期的に撒いてもすぐに沈んでしまいます。雨が降ればぬかるんで、長靴は必需でした。やがて簡易舗装が始まり、それはろくに路盤の整備もせぬところに溶かしたアスファルトを撒き、細かい砕石を乗せる工程を数回繰り返すというもので、車がほとんど通らないから持ったようなものでしょう。リヤカーに乗せた窯でアスファルトを溶かす臭いは今も記憶に鮮明です。 道路脇の素掘りの排水路、「どぶ」と言っていましたが、ここにコンクリートのU字溝が入れられたものの、まだ蓋はされていません。高学年になった亭主が自転車に乗る練習をしたときに一度車輪を落とした記憶があります。下水道が概ね普及するのは結局昭和が終わるころでした。 戦時中の強制疎開の跡地ですから草原の広場は方々にありました。大勢いた子供たちはそこで遊び、冬には凧揚げまでしていました。就学前のことで亭主は記憶が無いのですが、兄は近所の遊び仲間に俳優の「西田敏行」がいたと言います。福島の伯母夫婦に引き取られる前の短い時期に、近所にあった親類宅にその母親とともに寄宿していたのでしょう。同学年ながら亭主より半年年上のはずです。 最初は小さかった家も何度かの増築とか二階建てへの改築により大きくなって行きました。徴兵までを深川木場の材木商で修業した父は用材についての知識が流石で、家を直すたびに資金が可能な限り良い材を求めていたようです。東京の最後の家の座敷は無節のヒノキでしたし、玄関の廊下も同じく無節のヒノキ縁甲板でした。
縄張りをさっぱりと捨て鮎群ぬ 一点の曇りを傷に夏の月 厭(いと)はれて去る人のあり蛇の衣(きぬ) 床(ゆか)涼み一の馳走は川面風
小学校は東海道線と省線(京浜東北線のこと)の線路を渡った向こうにあり、当時何か所もあった無人簡易踏切を渡れば近いのですが、その踏切は毎年のように轢死者が出る魔の踏切と呼ばれるようになり、左右とも長い直線で見通しは良いはずなのに何故か事故が起きるのです。児童も轢死したこともあって、通学路として使うことを禁止され、少し遠い有人踏切を迂回する通学路を設定されてしまいました。 その沿道に江崎グリコの工場があったのでグリコの踏切というのが通称… その道の途中、戦前の古い鉄道客車を並べて集合住宅とした一角があり、そこだけがいかにも戦後の焼跡部落感を醸し出していたものです。やがて撤去された後に住宅供給公社の鉄筋コンクリート団地が幾棟も立ち、そこに入居した転校生はバイオリンを習っているのを自慢していました。 昭和30年代前半です。
無人簡易踏切の一つで映画のロケが行われたことがあります。低学年の私は遠くから見ていたので顔はよく分からなかったのですが、父母たちは「草笛光子」だと言っていました。新人時代なのでしょう。そんな曰くの付いた簡易踏切も次々と廃止され、住んでいた町は鉄道に両脇を遮られた陸の孤島と化して しまいました。 通学には近道の無人踏切を渡った先の線路脇に化学工場があり、その高い万年塀の外側には素掘りのどぶが巡っていて、その中を流れる工場排水は様々などぎつい色に染まっていました。今の中国の化学工場排水垂れ流しを嗤えない姿です。素掘りですから有害な化学物質は地中に滲み込んでいたはずです。また、そのどぶは多摩川へと流れていたはずです。 その後ずいぶん経って平成となり、化学工場は閉鎖となって跡地はマンションとなりましたが、それを買った住人が地中の有害物質を知っているのかどうか…
小学校は最初は二部授業でした。戦後のベビーブームにより校舎が足りなかったのです。校地の買い増しや増築に次ぐ増築を重ねましたが、在学中は全て木造二階建てでした。最初に増築成って二部授業を解消した校舎は幾つかの教室をぶち抜けるようになっていて、学芸会とか卒業式とかの行事には広く出来ました。今なら耐震基準をまったく充たしていない事必定… 増築校舎には特別教室も設けられました。しかし、児童急増によって教室が足りなくなり、音楽室はともかくとして、理科室はすぐに普通教室として使われ、亭主も一年間そこで過ごしました。窓際には水栓と コンクリート研ぎ出しの流しがあり、隣に準備室もありましたが宝の持ち腐れで、中の棚に収められたビーカーや試験管、アルコールランプやガスバーナーなどたくさんの実験器具は使われることのないものでした。 その小学校は戦前からあったのですが、戦後すぐに新制中学が発足した時に中学校として使われていて、それが新規な土地に中学校を建てて移ったために亭主が入学する前年半ばに再び小学校に復帰していたのでした。そのため、当初から校庭にプールがありました。 まだほとんどの小学校にはありません。毎年プール開きの前に水を抜いた底に溜まった泥を高学年の児童たちが掃除したのを覚えています。亭主もヤゴの蠢く泥水を掬った一人です。
小学校に校地を明け渡して移って行った中学校が新設された場所は、この地域に多くあった沼の一つを埋め立てた土地です。その沼は人の手で掘られたもので、なぜそのようなものが作られたかと言えば、この地域が多摩川の自然堤防脇の低地で、それを改良するために土盛りするのですが、その土盛り用の土を得るために明治以前に掘り上げた跡なのです。トラックなど無い時代、山など近くにはないところで土を遠方から運ぶのは現実的ではなく、現地調達の方法としてはこれが一番だったのでしょう。戦国期に城を築くのもこの手法です。周囲に堀を掘った土をその内側に積み上げて土塁とする、まさに同じ工法です。この沼は亭主の家から駅までの間にも幾つかあり、時代が進むにつれて次々と埋め立てられましたが、最後まで残った沼は所有者の材木商屋号を取って丸半の池と呼ばれていて、タコ糸で縛ったスルメ片でのザリガニ釣りなどが思い出です。
木間風(このまかぜ)吹き抜くる庵(いを)風炉手前 竹植うる日に仰天の嘆きかな
小学校の6年間、冬の暖房は教壇横のダルマストーブ1個でした。そこから伸びる煙突が壁から突き出ていました。燃料は石炭です。亭主より後の時代はそれがコークスに替わったと思いますが、それの多くを製造したのは東京ガス豊洲工場、すなわち築地市場の移転先です。そこでは石炭を乾留して炭化水素などのガスを取り出し、その抜け殻がコークスです。石炭より熱量あたりの重量が少なかったのだと思います。 粉塵防止のために決まって濡らしてあった石炭を校舎裏の貯炭場から独特のかたちの山盛りで重くなった石炭バケツで毎日運ぶのも児童の役目でした。今どきの児童は掃除を始めとして校務を何も割り当てられていないのは嘆かわしい風潮です。事故を恐れる腰の引けた管理の弊害…
入学直後の二部授業のときには給食の記憶が無いのですが、授業時間が短いのですからたぶん無かったのでしょう。増築した新しい校舎には新しい給食室も出来て、そこからパンの籠とミルクやおかずの入ったバケツを運んだ記憶があります。給食はコッペパンと脱脂粉ミルクをお湯で溶いたものとひじきの煮豆やクジラとかちくわの揚げ物などのおかずが一品だけが普通でした。この溶かした脱脂粉ミルクに拒否反応を示す人がいますが、確かに少し癖のあるにおいではあるものの、そんなに嫌がるほどのものではなかったような… この粉ミルクは厚紙製の大きなドラム缶に入っていて、中身を使って空いたものはゴミ箱などに再利用していました。たくさん入って、移動には傾けて転がせば重くても案外容易なので、その後生の牛乳が使われるようになっても、ゴミ箱として使うためにわざわざこの空の厚紙製ドラム缶だけを購入していたほどです。亭主は現に、その購入契約の執行を検査しています。 食器は指定のアルマイトのものを皿と大小の椀のセットで各自が購入し、毎日家から袋に入れて持って行ったのです。ランドセルの脇にぶら下げていたと思います。
小学校での勉学や友人との遊びの記憶はほとんど残っていません。何をしていたのでしょうかね。ただ、一学年上の兄の担任の教諭が私立中学受験に熱心で、多くの児童の親を唆して私立受験に向かわせ、兄は横浜の大学系私立中学に進学したので、亭主も当然中学受験するものと思っていました。 不幸な日航機事故で亡くなった「坂本九」は兄の入った中学・高校の5年先輩になります。その存在の影響を受けて在学中の兄は学友とバンド活動をしています。 亭主の担任教諭は一年のときから六年の時まで変わらないという不幸な巡り合わせで、代用教員上がりの女教師でした。女故に依怙贔屓傾向があり、亭主は始めは贔屓対象ではなかったと思いますが、五年生の冬に私立受験させたいと母から相談されると変わりました。 当時私立中学受験の勉強のためには、日曜ごとに行われていた模擬試験を受験する方法がありました。これは今の「日能研」とか「四谷大塚」と似たものです。家の近くでは大崎広小路にある大学の校舎を使って開かれていて、兄もそこに通ったものです。亭主も五年生の三学期から参加しました。 午前中に模擬試験を実施し、午後はその問題の解説を行うという形式でした。成績によってクラスが幾つかに分かれていて、最初は下のクラスから始め、講義終了後に張り出される模擬試験の点数で次回の受験クラスが決まる仕組みだったと思います。亭主は二回目の模擬試験は最上級クラスでした。 母の受験相談に対して今からでは遅いのではと否定的だった担任教諭は、亭主の二回目の模試クラスが最上級であることを聞いて、その後の亭主に対する様子が変わりました。 結局最後まで、何とかそのクラスで模試を続けられました。 この時の模試仲間に小説家となった「北方健三」がいます。それはその後中学受験で彼がすぐ後ろの受験番号であり、その中学・高校で何回か同級生となったから知ったことです。特に友人関係にはなりませんでしたが、中学時代 、校内の文芸誌に早熟難解な文章を寄稿するなどしていたことは知っています。また、その頃火薬で弾が飛び出す高価なモデルガンを学校に持ってきたことがあって、休み時間に見せびらかしていたのも覚えています。マテル社のコルトコマンダーだったと思います。このころから後年ハードボイルド作家となる下地はあったということでしょう。 六年生の模試生活の中で覚えているのは、まだ内幸町にあったNHKに毎週一人で通い、ラジオの公開生放送に参加していたことです。どうしてそうなったのかは記憶から抜け落ちているのですが、子供向けのクイズ番組だったように思います。ストレス解消の一つだったのかも…
一時間ほどの電車通学の中学の思い出もあまり多くはないのですが、あまり勉学が好きではない亭主はその方面はあまり振るわず、取り立てて言うほどのことは無いのですが、三年生の夏休みにブルジョワな同級生の家が借りた夏の別荘に数人の仲間と一緒に一週間ほど逗留したことを覚えています。その貸別荘は葉山森戸海岸の漁師の家の離れで、期末試験後の夏休みまでの休日を毎日海遊びに明け暮らしました。 その年は梅雨明けが早くてすでに真夏日で、夏休み前であまり人出が無い砂浜を謳歌したものです。家に帰る日の朝、家主の漁師の船に乗り、少し沖でサビキ釣りを初めて経験もしました。指で持つ釣り糸だけでする釣りで、小鯵や痩せた鯖がかなり釣れましたが、亭主は友人たちにすべて与えてしまいました。何で持って帰らなかったのと母に詰られましたが、不味いだけの夏鯖や小鯵の唐揚げなんて嫌いなものは嫌いだい… 夏休みに入って7月末、葉山での物凄い日焼けが褪める間もなく、今度は内房の海岸で行われた臨海学校に参加して、台風のうねりが寄せる砂浜で大き目な洗濯板のようなもので波乗りに興じたものです。 それは今で言えばブギーボード(ボディボード)の先祖か…その最中に聞いたのが「マリリン・モンロー」の死でした。
その前の年、二年生の夏休みの思い出は、駿東郡の母の実家と三島の隣町の叔母の家への一人だけでの長逗留です。そこで晴れた夏の早朝の富士の圧倒的な姿を見たし、裏座敷の床を覆って転がっているのから選んで井戸に吊るして冷やしたスイカで満腹となったことや、茄子や胡瓜の収穫作業は痛いものだということなど、都会育ちの少年には未経験なことを色々と知りました。父のカメラ「Topcon 35S」を持って行ったので、あれこれと写したものです。 その叔母の家には義叔父が通勤に使っていたオートバイがありました。250ccの軽二輪です。当時多かったホンダのドリームC72やヤマハのYDではなく、沼津に工場があったライラックというオートバイです。その頃は「単車」と言っていました。チェーン駆動ではなく、シャフト駆動が特徴です。当時もう運転免許を持っていた高校生の従兄の乗るその後席に跨って付近を走ったものです。 この会社は後にBMWと同様なエンジン構成の自動二輪車を出したりして頑張っていましたが、消えてしまいました。
そのまた前年の一年生の夏休みは、兄と共に父の実家で何日かを過ごしたと思います。同じ村内の他集落に嫁いでいる伯母や同じく別の集落の入り婿となった叔父の子らとか、実家の伯父の子たちとかがたくさん寄り集まって遊んだ記憶があります。その中の最年長の従兄は、後に東武鬼怒川公園駅の駅長を務めたと思います。この従兄弟たちもすべて同姓です。 月が無いと足元も見えない夜には、江戸時代に建てられた茅葺の家の周囲に広がる水田の水路に蛍が群舞していました。8月のことですから平家ボタルだったのでしょう。 しっかりと重しをした塩漬けのナスとキュウリの旨さに開眼したのもこの時です。今は無くなってしまった青い匂いの強いトマトの完熟を蔓から捥いで食べる美味さも…
戯れの草矢射貫けり胸の奥 遠花火待つ間を借りて西瓜切る 蝉時雨矢を射る如し木間道
受験無しで引き続いた高校での思い出もあまり記憶に残っていません。日々を無為に過ごしていたのだと思います。そんな中での思い出の一番は、同級生二人と行った自転車旅行です。その旅行自体は一年生と二年生の間の春休みのことなのですが、その時に使った自転車についても思い出があります。 亭主が就職後に10年近くのめり込んでいた自転車趣味のルーツというか、先駆けとでも言うべきもので、中学・高校在学中の6年間に通学で乗った都電、品川から飯田橋までの3系統ですが、その沿線で慶應義塾の前に「山王スポーツ」という自転車店があり、そのショーウインドウに飾られていた自転車に毎日見る車窓から引き付けられていたのです。書店でたまたま「ニューサイクリング」という雑誌を見つけていて、その広告の中に「山王スポーツ」も見て、当時そのあたりでは見ることのなかった洒落た姿に憧れたのです。 母にねだると、父がすぐに買ってやると言いました。早速父と一緒に店を訪れ、初心者の高校一年生が乗るのに適当なスポーツ車と店主が勧めた車種を手に入れました。それは26×1・1/4インチのスポーツ車で、シボ付ビニールのバーテープを巻いたアルミのドロップハンドル、ワインマンのフーテッド・レバー、サイドプルキャリバーブレーキ、杉野のコッタード鉄クランク、そのダブルチェンホイールは48T×36T、アトムの4速フラッシュフリー、フロントはユーレー・リジドとリヤがユーレー・スライドシャフトの各デレイラーというような部品構成で、三ヶ嶋のクイル型ペダルにはハーフクリップが取り付けてありました。メッキ丸棒のキャリヤはリヤのみで、綿布の振り分けバックが乗っていました。 当時、三段の外装変速機付きのスポーツ車なら少しは普及していましたし、亭主がそれまで乗っていた山口自転車の軽快車は島野のハブ内装三段ギヤでした。しかし、八段変速の自転車などどこでも見かけることはなく、特にフロントが二段になっているのはそれを見た人に珍しがられたものです。 また、稀に見かけてもフロントデレイラーは国産の武骨なもので、亭主の自転車の洒落たものとは比べ物になりません。インナーが36Tも少数派だったと思います。普通は40Tでした。
このスポーツ車のことを教室で話題にすると、自転車旅行、サイクリングと言っていましたが、亭主の自慢を聞いた二人が今度の春休みにそれに行こうと言い出したのでした。それぞれ持っているのは外装三段のスポーツ車だというので、雑誌「ニューサイクリング」で生噛りの知識を仕込んでいた亭主は、それでは難しいと言ったと思います。友人二人は亭主の買った店に行って6段変速に改造してもらい、晴れて春休みの鹿嶋発ちとはなったのです。 東海道を上り、権太坂を最初の難所と過ぎて、そのあたりで亭主の自転車の後輪がパンクしました。用意周到な亭主はパンク修理のセットは持っていたし、フレームポンプも装備していたので自分で直したのですが、チューブを引き出してみると、ハの字に穴の開いた重症でした。原因は縁石に乗り上げる時にリムとの間で挟んで切れたようです。それ以来、今日に至るまで乗り上げをするときには体重を浮かせるようにして車体を引き上げ、衝撃を少しでも和らげるのが常となっています。失敗は教訓とせねば… 亭主の自転車の仕様はいわゆるイギリスのクラブマン・レース用に近いもので、26×1・1/4というタイヤサイズは当時一般的ではなく、ふつうは26×1・3/8というもので、友人二人のもそうでした。この細身であるということが、旅の先々で亭主を苦しめたのでした。 ドロップ・バーとフーテッド・レバーというのも、慣れない内はなぜこんなのがスポーツ車なのかと懐疑的になる扱い難さでした。ことに砂利敷の下り坂でその弊害が顕著でした。 余談ですが、後年亭主がスポルティーフを作ったときには、すぐにドロップ・バーの下部曲がりを途中で切断し、ギドネット・レバーを使うように改造しました。バーの下部曲がりを持って乗るのはスプリントの時だけで、街乗りではそんな状況は皆無ですから、どこを持ってもブレーキレバーに指がかかるギドネット・レバーが使い易いと悟っていたからでした。
一日目と二日目は友人の親が手配してくれた宿に泊まりました。一泊目は伊豆山です。高校生には分不相応の日本旅館(確か、今は無き水葉亭)でした。二日目は伊豆半島に進み、伊東を過ぎると海岸線の道はほとんど未舗装でした。ここから下田までは亭主の細いタイヤが苦しみをもたらしました。 海岸沿いの道は岬と浜の連続です。浜は道が海近くを通り、岬はその根元を横断する峠道です。登っては下りを延々と繰り返しました。砂利道の上りも辛いのですが、それ以上に下りは地獄です。フーテッドレバーを一番強く引けるのはドロップ・バーの下部曲がりを持つときなのですが、上体の伸びきったその姿勢は苦しく、細いタイヤで砂利にハンドルを取られるのを押さえながらその姿勢を取り続けるのは本当に苦痛でした。重心がどうしても前に行くので前輪の挙動が怪しくなり、それも苦しみの原因でした。 夕方近くに下田の宿に辿り着いたときには疲労困憊の極みでした。宿は爪木半島のリゾートホテル(名は忘れた。)で、快適なそこに憩っていると、もうその日のような道を走ることにめげていました。鳩首を集めて対策を話し合ったのですが、自転車を放り出して帰るわけにはいきません。旅の目論見は伊豆半島一周だったのですが、翌日の宿を決めていなかったこともあって、そこからなお厳しそうな西海岸を進む気概が失せていたのです。箱根を越えねば帰れないのもその気持ちを暗くしていました。
当時「伊豆の踊子」は読んでいました。そこで下田港から東京に帰れるのではということになり、宿に聞くと、今はその航路は廃止になっているとのことでした。しかし、大島への定期便はあるとのことだったので、それに飛び付きました。 下田港から大島元町港までの船旅を楽しみ、いざ入港して行くと、すれ違いに東京行きの定期便は出港して行ったのです。哀れな三人組はそれを舷側で見送るしかないのでした。その日はそれが東京行の最終便で、翌日でなければ帰れないということが知れて、三人は元町に宿を取ることにしました。埠頭付近には宿の客引きが何人もいて、その一人について行きました。 その宿は、江戸時代の宿場旅籠のような造りで、各部屋は襖で仕切られていて、南側の障子の前は廊下というものでした。鄙びた旅情はたっぷりなのですが、前日までの宿とは大きく違うそれに三人は戸惑ったと思います。この宿も、その後元町を襲った大火で失われたのでしょう。 明けて翌日、船が出るまで時間があったので、大島を走ろうということになりました。一周するほどの時間は無かったので、西風の時の風待港である岡田港を目指しました。途中、空港脇あたりは椿の林があって満開で、ここは椿の島なんだと変に感心しました。亭主は「伊豆の踊子」の出身地「波浮の港」を見てみたい気持ちもありましたが、そこまでの行程を思って諦めました。 ここでも余談ですが、この大島の旅の経験が、後年「あんこ椿は恋の花」という歌と、それを歌った亭主と同年齢の新人歌手都はるみに惹かれた遠因なのかもしれません。その時は同級生に浅草の大きなレコード屋の息子がいて、その新人が賞に有望であることを熱く語ったのもそれを後押ししたのかも… 東京竹芝桟橋への船は東京湾に入ると嵐になって結構揺れましたが、船酔いはしませんでした。その後一度もしていませんから、亭主は船酔いしない質なのかもしれません。
亭主が卒業した中高一貫の私立校は創設の沿革を東京タワー下の巨刹に持つためか、その末寺の子弟が多くいました。あるときの担任まで末寺の住職という具合です。その同級生たちの寺は学校の近所のものもあり、 数人で連れ立って放課後そこへ遊びに行ったことがあります。そこは愛宕神社裏山下に幾つか並ぶ寺の内のひとつで、境内の墓地の中で皆で交代で洋弓の矢を放つのです。なかなか狙ったとおりには飛ばず、墓石に当たったりする罰当たりなことをしました。反省… 末寺の住職でもあったクラス担任教師には思い出があります。高校二年の修学旅行で京都、奈良、南紀を経巡っのですが、その奈良で、その後三重塔の復興造営の時などにマスコミによく露出していたその寺の坊主が、生徒の行動に対して何か苦情を言ったのに噛み付いたのです。内容は忘れてしまいましたが、物凄い形相で寺の坊主を一喝したのです。授業などにおいて見せたことのないその姿に驚きと頼もしさを感じたものです。流石浄土宗…この担任教師、後に母校の校長になったというのを風の便りに聞きました。むべなるかな…
通学は都電3系統を神谷町で下車し、5分程度歩くのですが、その道の両側には外車の店が幾つも並んでいました。今のそれのように派手な店構えではなく、質素で小さなものばかりでしたが、「MGB」や「トライアンフTR4」などを横目で見る通学でした。バイクの店も幾つかあり、ホンダの「CB72」とかヤマハの「YDS-3」などが記憶にあります。同級生の中にも運転免許を取っているものがいて、「CB92」を通学に使っているのもいました。大卒初任給の5倍近くしたおもちゃを買い与えられていたのは、新橋烏森にあった玩具屋のドラ息子…そうそう、そのドラ息子、当時の本人の弁によれば三笠宮の夭折したドラ息子と同類項のようにつるんでいたらしい…
どうも遊びの事しか記憶に残っていないのですが、高校生の頃「スロット・レーシング」なるものが流行りました。1/24や1/32の縮尺のプラモデルを直流モーターで走らせるのですが、それを走らせるコースの中央に溝が切られていて、溝の両側には網線が取り付けてあり、車にはコースの溝に嵌るガイド板があって、その両側のブラシでコースの溝両側の電線から直流電流を得て走るのです。コース溝の網電線は各コースの運転台で接続するコントローラーに繋がっていて、その可変抵抗によって電圧を変えてスピードを調節する仕掛けです。 コースの全長が長いほど人気の会場となりました。 走らせる車は国産では最初は「コグレ」が有力で、「コルベットC2」が人気でした。その後F1やプロトレーシングカーのブラモデルが人気となり、ロータス、ブラバム、ローラGTやACコブラなどが幅を利かせていました。少し高価でしたが輸入物ではモノグラム やCOXが人気で、そのマグネシュウムダイキャスト・フレームの精巧さが際立っていました。 かく言う亭主もそれに参戦し、放課後帰路に品川ボーリングセンター内に開設されていた「ミッキー・レーン」に通ったものです。ここはロカビリー歌手の「ミッキー・カーチス」が副業で開いたはずです。客寄せの名義貸だったのかも… コース備え付けの親指で押し込むコントローラーは操作性が悪く、しかも独立したブレーキは付いていなかったので、それの付いている物を入手して持ち込むのが上級者の資格でした。ブレーキは回路の極性を逆にしてモーターを逆回転させる原理です。押しボタンスイッチがそれになっていました。猛者は鉛バッテリーを秘かに持ち込み、それを自作のコントローラーを経由してコースに流れる電圧を上げてモーターの出力を稼ぎ、高速周回を競っていました。マブチ製市販モーターでは飽き足らず、分解してエナメル線の太さと巻き数を変えることで出力を上げるのがレース勝利の必須テクニックとなって行きました。このエネルギーが70年代の日本工業の躍進を支えたのかも… 高三ともなれば、こんなことにうつつを抜かしていたら大学受験に差し障るのは当然のことですが、元来好きなこと以外には努力しない性の故に、無為な楽しい時を過ごしたのです。回顧はしても反省はせず…
勉学の話で覚えているのは、当時の常識でクーラーなど無い家で夏休みの受験勉強は大変ということで、多摩川を渡った先にあった神奈川県立図書館に日参するのが常でした。冷房が効いている読書室で勉強するのです。当時、読書室は学生用と社会人用とに別れていて、学生用は早朝から並んでも入れないことがあったのですが、平日の社会人用は余裕でした。そこで一計を案じて、会社員の身分証明書を作り、それを見せることで社会人用の読書室に入っていました。身分証の捏造ですが、 父が副業で関係していたその会社は存在していたので身分詐称かも… ここで真面目に受験勉強に取り組んでいたら、もしかしたら東大、京大にも入れたのかも(嘘…)知れませんが、それが出来ないのが亭主の本質で、情報の宝庫、開架書架をうろつく時間が多かったのが玉に瑕… また、1階の付属の食堂で「サンマーメン」なるものを初めて食べたのも思い出…
現役で入った大学四年の記憶もほとんど勉強をしなかったということばかりです。特に最後の一年間以上は大学紛争の嵐の中で、校舎が封鎖されてろくな授業も受けずに過ぎたと思います。成績を問われる民間大企業は相手にされないと決め込んで、それを問われない公務員試験に目が向きました。全くと言ってもよいほど試験の準備をしていない中、幾つか落ち、幾つかは採用名簿に登載されました。その中から選んだのが38年間を勤めた職場です。 大学生のときには色々なアルバイトをしました。親に貰う小遣いをあてにしなくても遊べる資金を得るためというより、親が社会勉強として勧めました。それは色々な意味で確実にその後の人生に役に立ったと思っています。 アルバイトは肉体労働、接客業、頭脳労働と別れます。肉体労働は測量の助手です。夏冬春のまとまった休みの時期に就労するのですが、平板測量や水準測量など測量士が 平板上のアリダードや水準儀を覗く先にスチールテープや尺棒を持って立つのです。これを「猿回しの猿」と俗称していました。主として小河川の流域測量を行いましたが、川の対岸にまで行ってテープを引いたのを覚えています。 このスチールテープで測るときに、バネ秤を介して引くのです。気温によって引いた時の伸びが変化するので、その誤差を吸収するためでした。一般的な布等の巻尺ではないので巻き取ることは出来ず、重いそれを8の字に和がねるのも結構難しいものです。元住吉から武蔵小杉にかけてとか、柿生の近くなどを測って回りました。踏切を渡って図るときなどは、スチールテープを絶対に二本の線路に同時に付けないようにと注意されました。それをすると信号が変わってしまうことがあるのだそうです。実験はしませんでしたが… 土方仕事も数日ですが経験しました。測量士の関係の土建屋から人出が足りないと頼まれたのだと思いますが、川崎の府中街道の新道建設現場で路盤工事に従事しました。亭主の汗がその一部に染み込んでいます。いきなり過酷な労働に従事したため、体調を崩して挫折しました。 運転免許を活用してその関係の仕事もしました。赤井電機とかアルプス電気とかの大企業の下請け塗装工場が納品するトラック運転や、プラスチック押出成型工場の納品トラック運転です。 どちらも手の空いているときには塗装の下処理の水砥ぎとか、プラスチック成型品にボール盤で穴明けするなどの工場業務も経験しました。昼休みのテレビでピンキラの歌声が流れていたのを覚えています。「忘れられないの…」 接客では冬休みの二年間を羽田の全日空航空貨物窓口で働きました。空港止めの航空貨物の到着を荷宛人に電話で連絡し、それを窓口で渡したり、飛行機で送る荷を受け入れたりの接客仕事です。時間交代制で深夜から早朝までのシフトも何回か経験し、事務室ソファでの仮眠も経験しました。滑走路区域に入れる顔写真入りのパスも支給されて、札幌便夜間飛行の郵便機への積み込みなどもやりました。その飛行機は4発ターボプロップ機「バイカウント」だったと思います。操縦席も見せてもらいました。 年末のことで、小松空港から大きな藁苞の寒ブリが届いたのですが、受取人は北関東で、連絡するとそんなもの取りに行けないから処分してくれということになって、営業所の皆の腹の中に納まったというようなこともありました。通勤の車の中で「おらはしんじまっただー」というフレーズが響いていたのを覚えています。 大学生の体裁の良い定番仕事として家庭教師があります。亭主も長短含めて3人を教えました。小学生はちょろいのですが、中学生となるとそうはいきません。伝手で頼まれた慶應中学の生徒の場合は冷や汗ものでした。就職を期に手を引かせてもらいました。 一番長かったのが、兄がその仕事の縁で紹介された女子校の生徒で、これは断り切れずに就職してからも卒業まで続けました。その後、あることを切っ掛けにこの生徒の親が月下氷人となり、山の神と結ばれることになりました。縁の不思議… その切っ掛けとは、就職後8年ほど経った忘れもしない2月末に竜巻により東西線荒川橋梁で脱線事故があったとき、その元凶の竜巻は亭主の家の真上を通過して行ったのですが、その時の家鳴りは凄まじく、もう数分それが続いていたならば屋根が飛ばされていたかもしれません。幸い被害は皆無でしたが、中学校の体育館やアパートなど近い地域の家で屋根や軒先が飛ばされた事例は数多く発生しました。その被害が報道されて、亭主の家がその被災地域であることを知った家庭教師をした子の親が見舞いの電話をくれて、そのとき応対した母の話から亭主がまだ未婚であることを知り、月花氷人の労を取ってくれたのです。竜巻が引き寄せた縁談です。ちなみに山の神は五黄の寅…すなわち龍虎談… この五黄の寅の山の神、薄給の亭主が長期入院中も幼い三人の子を育てながら家を守り、今も病弱な亭主を支えています。拝跪して感謝… 山の神の持論は、安倍総理の進める政策が少子化の元凶だということです。女に家の外で働けと言うから男の仕事を奪い、その結果として結婚出来ない、しない男女を大増産すると言うのです。これでは子供が生まれるはずがない。家の外に出るから自分で子育てしない親が増える、それだから問題児が増える。亭主も少しもその論には逆らいません。昔から保育園を作るから保育園が足りなくなるというのが亭主の強固な持論です。 月下氷人の娘、すなわち亭主の元生徒はその親の代から花柳流を習っていて、その師匠が山の神の月下氷人と亭主の月下氷人を繋いでくれた存在だったのですが、その舞踊の師匠というのが女優「藤村志保」の師匠でもあったらしく、この流派ではかなり重鎮だったようです。両方の月下氷人からその存在を知らされて、結婚が決まってその師匠の家に山の神と一緒に挨拶に行くと、隣の鰻屋から出前を取ってもてなしてくれました。その店の名は「大森・野田岩」です。それまで鰻は食わず嫌いだった亭主ですが、これは美味かった… なお、その後亭主の元生徒は、子のいなかったその師匠の跡目を襲っているとのことです。奇縁なるかな…
あぢさゐや数へるそばから忘れけり あちさゐや汝(なれ)何色に染まるなる 辛酸を嘗めた気のして大暑かな 天地の気喰らひ尽くさむ土用干 夢もまた儚きものよ朝の虹 雷(いかづち)の怒りを伴に屈みをり 言はずとも自(おの)づと知れて葦茂る 執着を嘲笑ひけり油照り
★老鶯 亭主の今に至るカメラ機材道楽の主要な原資を生み出したクラシック高級自転車部品たちですが、まだ少し物置に眠っています。また、特殊工具も幾つか手元に残してありますが、これらをどうするかが気にかかっています。 めぼしいものとしては「TA」の5ピンクランクが、長さの異なるものが何組かあるのですが、無知ゆえに酸性紙をそれと知らずに包んで置くという致命的なミスを犯していたので、アルマイト加工のされていない、磨き仕上げの表面に部分的に錆が出ているのです。パフ掛けなどをすれば輝きが戻るのかもしれませんが手付かずです。現在、オークションは以前のような過熱はしない相場のようなので、加工して出品するだけの動機とはなりません。ああ、10Kで入手したイデアル90サイン押し型入りチタンフレームとかユーレー・ジュビリー箱入りセットが100Kで落とされたのは夢のよう…
老鶯(らうおう)のなほ艶めけるあしたかな 技のみを頼りよすがの袴能 初蝉を耳鳴りと聞く遠さかな 一歩ずつ踏みしめ来たり岩鏡 山の端の翳濃き道や麦実る 一筋の汗ひよめきを伝ひけり 振り向けば荊一輪そこにあり 川中の菖蒲の群れに競ひあり 家(け)にありて旅寝ぞ偲ぶ月見草 遠き日の吾に勧めむ西瓜切る 菖蒲田(あやめだ)の食違橋(くひちがひはし)行き戻り 明日のため備(そな)へ蓄(たくわ)ふ土用干 愛(は)しきやし命(いのち)が簾(すだれ)胡桃花 やませ止め宝風あれみちの奥 楓花翼広げて風受けて 射干(しゃが)群し道の向かふは五大堂 素麵を食ひたき日々の有難き 風鈴を嘲笑ひけり油蝉 蝉めらに朝寝誹らる眠眠と 捩花(ねじばな)や分を知りての高みかな 白昼の惰眠を覚まし麦の笛 イラクなどなぜ行ったのだ虎が雨 俺は蚊かぼやき顔する霹靂神(はたたがみ) 朽錆びし鉄路の沈む草いきれ
★ひだまり 少しは自信のある「8枚玉タクマー」の収集・研究歴はそれほど多くはありません。まだ5年ぐらい(2016/11現在)のことです。その存在を知って興味をそそられても最初の1個がなかなか入手出来ないでいたのですが、それが成ると、次々と少し違う個体が手に入りました。いったいどれくらい違う種類があるのだろうかと「レンズシリアル番号」を軸として追い始めたのです。 ネット上にある画像のうち、レンズシリアル番号が明確に分かるものについて、その差異に着目して分類して行きました。ネットオークションに出るものは比較的その差異の特徴が分かるものが多く、大いに研究の役に立っています。その研究の中で、「Takumar」シリーズ全体におけるレンズシリアル番号の付け方についてもおぼろげながら見えてきました。特定の番号帯だけが使われていることも見えてきました。時系列的に団塊状に割り当てたことが推定出来ます。しかし、割り当てられた番号帯全体を使い切っていない場合も多いのです。従って製造総数が見えてこないので、希少性というものも霧の中です。今日案外ネットオークションに多出しているので、損耗して廃棄などされて失われたものは少ないのかもしれません。未発見の差異を見つけるのは心躍る瞬間です。これからも追い続けるのかも…
陽だまりに綿雲のぬくぬくと浮き 秘めをるにあらはれにけり思羽(おもひばね) 水痩せて寒鯉の背のあらはるる 濛々と湯気吹き立てて薬喰 行き暮れて凩(こがらし)恨む谷戸小道 六地蔵救ひ等しく雪の笠 押し上げてやがて消(け)にけり霜柱 節分や追はれる程にならむばや 一の酉まだ間があると延べてをり 寒風や刈田にひつじ震へをり 着脹れの肩腰もごと儘ならず ケーキ売る声の疲れてイブ更ける 玄冬や身の凝れるに滾りをる 拘りを解き放ちけり鬼やらひ 発心(ほっしん)の出鼻挫(くじ)けり初時雨 豆球の瞬く垣や星聖夜 都鳥浮寝の夢の果てたるや 雪の声越山越しに確と聞く 雪を負ひ南天の実の艶めけり 夢と在りしポプラ老たり冬至る 札幌北大にて詠める 若僧に負けてたまるか北颪 侘助や背筋伸ばして襟正し 鴛鴦(おしどり)の浮き寝ありけり闇深し 鶺鴒(せきれひ)の舌打ち浴びる漫ろかな 荒星(あらほし)のどやしつけたる冬野かな 朝焼けを顔にうつして息白し
★神の留守 昭和35年4月から昭和41年3月までの6年間、通学で品川から神谷町までを「都電」で毎日往復していたのですが、その沿線の風景についての記憶は、やはりかなり断片的です。そんな中で残っているものを拾い集めてみます。 都電3系統は品川から飯田橋までの路線です。品川から札の辻までは東海道を走り、上野まで行く1系統などと線路を共用していました。泉岳寺で古川橋、天現寺橋を経て四谷三丁目に行く7系統が分かれ、札の辻からは 桜田通りに入り、赤羽橋、飯倉を経て神谷町で下車するのです。 品川は京浜急行のホーム脇付近に島式の停車場あり、その道路脇には品川ホテルがありました。チンチンという音と共に発車した路線左手には高輪の大きなホテル群が続き、右手に江戸と域外を区切った高輪大木戸の石垣跡、やがて泉岳寺を過ぎれば分岐点の札の辻です。ここの停車場の脇に見事な「看板建築」の商家がありました。品川と札の辻の間は東海道を通るので、沿道に当時急速な発展の中にあった自動車の販売店が林立していて、その大きなガラス窓の向こうにある新型車の展示を眺める毎日でした。 後に途中から国道1号線となる桜田通りは当時は車道が線路敷左右の各1車線と少し狭く、多くは島式の停車場ではありません。また、右折車が線路を塞ぐことがよくあって、電車の運行が滞る場所でした。札の辻からまもなく右側に新東宝、後に大蔵映画となった映画館がありました。過激なポスターが館頭に掲げられていたと記憶しています。 慶應義塾を左手に見て進めば、右手に桐箪笥の店が連なります。赤羽橋手前には済生会病院、橋を過ぎて飯倉の上り坂へと進みます。その赤羽橋では中目黒からの8系統が入り、右手には東京タワーが聳えていました。霊友会の看板が目立つ飯倉一丁目で四谷三丁目から六本木を通る33系統が入る峠を過ぎて下れば33系統が浜松町へと分かれて行く神谷町の島式停車場です。 この都電も、東京オリンピックを境に廃止が進み、3系統も昭和42年の第一次撤去で消えています。神谷町には地下鉄日比谷線の駅も出来て、それで乗り入れている東横線田園調布へ寄って帰ったこともありました。 都電の線路は砂利や砂で埋めた枕木の上に花崗岩の敷石を置いて自動車の通行が出来るようにした併用軌道がほとんどでした。線路の高さと同じ厚さに加工した花崗岩の平たい切り石は都電廃止とともに撤去され、都内各地の公園や道路縁石などに再利用されています。 今この沿線で当時の記憶と変わらない風景は東京タワーだけです。他はすべてが変わり、浦島太郎もかくやと思うばかりです。その東京タワーも6年間の在学中に数回登りましたが、展望台まで階段で上り下りしたこともありました。エレベーターの長蛇の列に嫌気がさしたからだったと思います。
神谷町の隣の飯倉一丁目停車場の前に小さな書店があり、亭主は学校からの帰路によくここに足を運びました。神谷町で電車を待っているときに他の系統の電車が来るとそれに乗り、隣で降りるのです。この書店で小松左京の作品に出合いました。 小松左京はSFマガジンで活躍していましたが、この雑誌には外国のSF作家も多く取り上げられていて、その縁で早川ノベルズの多くを手にしました。小口が赤く染められている変形判のSF小説です。 その中の1冊で、ピエール・ブールの作品があります。「E=mc2」という題名だったと思うのですが、これについて忘れられないエピソードがあります。後に大学紛争によって授業が行われない中、試験に代えて長文の解読レポートを課されたことがありました。第二外国語として取っていたフランス語の授業です。このレポートに使われたのがピエール・ブールの原文でした。 非常に難解な文章で、怠惰な学生だった亭主には、辞書を引いても何のことかまったく理解できないものでしたが、中に何か見た記憶のあるフレーズがあったのです。当時映画「猿の惑星」が公開されて話題になっていました。その原作者がピエール・ブールであることは知っていましたし、その作品である短編集「E=mc2」も早川ノベルズの翻訳を入手していました。この翻訳されたものもそれ自体が難解で、斜め読みしただけで面白くないと決め付けていました。 レポートの仏文はこれの原典から抜粋されたものだったのです。その翻訳本の存在を出題者の教授は知らなかったのかもしれません。早川ノベルズは超マイナーな出版物ですから、フランス文学者などの読むものではなかったのかもしれません。折から大ヒットした映画の原作者の作品を使えば学生の興味を引くだろうとの下心が透けて見えます。亭主は金鉱を掘り当てた気分でした。 翻訳文と見比べながら原文を辞書と首っ引きで訳すのですからスラスラと行きます。意訳と思われる部分はわざと直訳にする細工も行いました。これで試験ではとうてい取れないはずの単位が取れました。まさに神助天祐…
頼るより頼らるるよし神の留守
ところで、あの「猿の惑星」に出て来る猿とは「日本人」であることをご存知ですか。ピエール・ブールは仏印で応召して日本軍と戦い、捕虜となったり脱走したりの経歴の持ち主です。「戦場にかける橋」の原作者でもあります。日本人に対する抜き難い侮蔑と畏怖の混ざった感情を持っていたものと思われます。当然恨も…
敵の顔懐かしき日や凍緩む
当時あまり行動的ではない生徒だったので、通学経路以外に都電に乗った記憶がほとんど無いのですが、その中で覚えているのが晴海で開かれていた自動車ショーを見に行ったことです。何かの行事で学校が早く終わり、その帰りに行ったと思います。神谷町で8系統に乗って、途中桜田門か日比谷公園で11系統に乗り換え、勝鬨橋を渡って月島まで行き、会場まで歩いたと思います。この時ちようど勝鬨橋が開いて、それが閉じるまで待たされたのを覚えています。乗り換えたのがどちらの停車場だったのかは忘れました。この時には「トヨタS800」の運転席に座ったのを覚えていますが、座席のすぐ前を横切る補強メンバーが乗り込むのに邪魔だった記憶があります。「ホンダS600」にも 座ったはずなのですが、その記憶は失われました。 この時期、その後も毎年晴海の自動車ショーは通いました。竹芝桟橋から船で行ったりもしました。トヨタ2000GTの運転席にも座りました。当時のクラウンの2倍もした価格はまさに高値の花… トヨタ2000GTはオープントップに改造して浜美枝を乗せたボンド・カーに使われたことで有名ですが、東宝の映画でも使われています。加山雄三が主演のピカレスク映画(確か「狙撃」)で、トヨタ2000GTがひっくり返る場面があるのですが、その裏返った車のシャーシがはしご型なのにはあっけに取られました。本物ならX型なはずです。流石日本映画… この映画、当時流行っていたモデルガンを多用していたのが売りだったと思います。それを巧みに改造して自動拳銃が排莢したりするのを映像化していました。ライフルや散弾銃などは実銃だったそうです。今では法的に不可能とのこと… 秋葉原ラジオ街とかアメ横をさすらうのを好んでいた亭主は、モデルガンも何丁か入手しています。弾は出なくされていたものの、まだ亜鉛ダイキャスト製の時代でした。駆け出しのスティーブ・マックイーンが主役を務めた「拳銃無宿」という輸入テレビ西部劇で見せていた、銃身と銃床を切り詰めたウインチェスターライフルでのかっこいいガンプレイが出来るまでになっていました。
映画繋がりで言うと、小学生のころから結構映画館には一人で通っていました。最初は東映などの週替わり連続チャンバラ映画でしたが、雑色駅横にあった館で「喜びも悲しみも幾年月」を見て、そのつまらなさに途中で出てしまったことを覚えています。冗長さが小学四年生の感性に合わなかったのでしょう。主題歌のヒットに誘われて見に行ったと思います。 亭主の記憶に残る最初の映画鑑賞は父に連れられて行ったもので、何歳の時かは分からないのですが、就学前のことだったと思います。川崎の映画街の館で洋画でした。 時期的に言っても映画は「第三の男」だったのではないかと思うのですが、不細工な顔の外人が外国語でしゃべっている暗い画面の字幕映画では幼児の記憶に残らなくて当然… 亭主の中学・高校時代は日活の青春映画とか荒唐無稽なアクション映画が全盛だったと思いますが、亭主は一本も見ていません。日活物はなぜか毛嫌いしていたのです。その原作の「石坂洋二郎」の小説なら結構読んでいます。その映画化は東宝ならよく見ました。変ですね…石原裕次郎とその兄は好きではありません。特にその兄は… 洋画では「ボンド映画」の初代は全部見ています。二代目以降はほとんど見ていません。原作の翻訳も早川ノベルズにあるものを多く読んでいますが、その主人公の印象とショーン・コネリーとはまるで違うと思います。原作通りのイメージの俳優だったら、映画は絶対にヒットしなかった… 結局、「007シリーズ」がヒットしたのは、ショーン・コネリーの個性と映画監督などの采配が合致したからだと思います。翻訳を読む限り、原作は大したものじゃない…
乗り物の登場する洋物映画としては、エルビス・プレスリーのものが記憶に残っています。「ホンダCB72」をボアアップした305ccの自動二輪「CB77」、あちらでは「スーパー・ホーク」と言ったのを乗り回す映画で、肝心の映画の題名は忘れました。他の彼の主演映画同様たわいもない中身だったような… 世界の黒澤映画は「用心棒」が最初です。それに嵌って「天国と地獄」も見ました。白黒映画なのに1シーンだけ、煙突から立ち上る煙だけに色を付けているのが印象に残りました。その中で殺される麻薬中毒女を演じた富田恵子が、その後ラジオ関東の人気ラジオ番組「昨日の続き」で前田武彦、永六輔とか大橋巨泉など男二人と毎晩軽妙なやりとりをするのを、その人だと知らずに楽しんでいました。草笛光子の妹というのは後に知ったこと…それを殺した犯人役山崎努の演技が光っていました。 用心棒、椿三十郎の三船敏郎と、天国と地獄の製靴会社社長の役とが何か一致しない感覚だったのを覚えています。その後に旧作の七人の侍を見ましたが、やはりこの人、笠智衆的怪優… この映画で思い出すのは、川崎の美須映画街の館で見たのですが、この当時、蒲田の美須映画街の館と同じ1組のフイルムを共用していて、上映時間をずらしていたのです。蒲田の館で映写を終えた巻は、急いで運んで川崎の館で映すのです。川崎が終われば、今度は蒲田の館の次の上映回までに運びます。一説では自転車で運んだとかですが、亭主はそれらしき自転車を見たことがあります。荷台にフイルム缶を積み上げて走っていました。とにかく、その輸送途中に何らかのアクシデントがあったらしくて、上映途中になっても次の巻が届かず、随分長い時間中断したままになってしまったのです。これは興覚めも甚だしいものがあります。おかげでしっかりと記憶に残った映画となりました。 自転車操業、せこい…
川崎の映画街で思い出すのは、二人組の私服刑事に職務質問を受けたことです。平日の昼間の映画街で学生服の生徒が歩いているのを不審と思ったのでしょう。学生証の提示を求められ ました。所持していたので見せましたが、なぜ学校に行かないのかと聞かれました。その日は中間試験の翌日で、恒例の試験休みでした。そのことを告げると苦笑いして放免されました。私服相手ですから、この時には学生証を見せる前に警察手帳の提示を求めました。しっかりとした子供… 制服の警官たちに職務質問を受けたことも一度あります。神田のアルプスで作った輪行車で仕事から残業で遅くなって帰る途中でした。警官は携帯ライトで照らし出したフレームの防犯登録が神田の警察 (万世橋署)だったので、不審の様子に変わりました。その場所は東京の南の端でしたから…携帯していた無線で何か連絡していましたが、亭主が提示した運転免許証と同じ住所の登録と分かったらしくて作り笑いに変わりました。その後の雑談でその自転車店が斯界で著名なことを警官たちは学んだと思います。
大学生時代にも映画は結構見ましたが、その頃の洋画の中で最もつまらなかったのは「2001年宇宙の旅」です。SFの巨匠アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックが相語らって映画と小説を平行制作したものとのことですが、亭主の感性とは合いません。駄作…その後映画「時計仕掛けのオレンジ」がマスコミの話題になりましたが、トラウマとなっていた亭主は見る気も起きませんでした。 SFは映画には向かないと思います。小説の中だけで存在するものだというのが亭主の持論です。どんなに工夫しても結局作り物感を払拭することは困難で、金を掛けただけの効果は薄いものです。これがアニメなら端から全部が作り物なのであまり違和感はありません。この媒体が現在持てはやされているのは当然の帰結かも… 結局、亭主の好みは軽い中身の小説や分かりやすい中身の映画であることが知れます。かといってべたなコメディはあまり好みません。東宝でも二本立ての片割れとしてしか映画館では見ていません。「寅さんシリーズ」を映画館で見たことはありません。今年(2016年)の夏に渥美清没後記念でNHK・BS3が何本か連続放映しましたが、それを見てみると、このガチなマンネリを延々と続けた山田洋二監督の根性に感心します。よっぽど出来た人物… 高校時代に早川書房の「SFマガジン」に耽っていたので、その後も内外のSF小説は読みました。創元文庫、早川文庫の古典から新作まで、タイムトラベルなど荒唐無稽なものが好きでした。変にシリアスなのは好みません。小松左京は例外かもしれません。短編「影が重なる時」などは読んだ時に鳥肌が立ちました。しかし、国内では 半村良、平井和正、豊田有恒ぐらいまでで、その後の1970年代半ば以降に登壇した作家は無理…
亭主が小説を読むようになった切っ掛けは、父が勤め先から福利厚生施設である社員図書室の余剰放出本を持ち帰ったことからです。父は小説など読まない人でしたが、何故か持ち帰ったのです。その中に吉川英治の新平家物語ハード表紙本の全巻揃いがありました。これを小学五年生の夏休みに読破したのを覚えています。その後の日本史の試験に強かったのはこの影響かもしれません。夏目漱石全集の一部などもありましたが、こちらはあまり読んでいません。 推理小説は古典のホームズ物を文庫で読んでいました。翻訳されたものはすべて読んだと思います。ついでに、それと対決したルパン物も…こちらはフランス作家らしく文章構成が持って回った感じ で好きになれなかった気がします。一般的にイギリス作家が素直な文章で読み易いと感じています。原典では読めない亭主ですから、翻訳家の力の差かもしれませんが… イギリス作家の小説のジャンルとして海洋小説があります。主としてナポレオン戦争前後の英海軍を舞台に書いたもので、日本なら戦国ものの時代小説といった乗りです。一時期これに嵌って色々なシリーズものを読んでいたことがあります。それに感化されて帆船関係の本を買い集めたことがあり、すっかりその構造に詳しくなりました。もう少しで帆船模型の泥沼に足を踏み入れるところでした。危ない危ない…
★雁供養 北国の浜辺には流木片が流れ着きます。特に冬の季節風が吹き寄せるそれは夥しいとのことで、それを拾い集めて燃料にしたのだそうです。これについては言い伝えがあり、冬の渡り鳥は秋に北から海を渡って来ますが、その時に海上で休むために木片を一つ銜えて渡ると言われています。これは浜に辿り着けば不要となり、そこに置いて各地に散って行くのですが、春になると再び浜に来て木片を一つ銜えて北に渡るのだそうです。 しかし、浜に残された木片があるということは、北に帰れなかった渡り鳥がその数だけいたと思い、それを拾い集めて焚くことを「雁供養」とか、それで沸かした風呂を「雁風呂」と称しました。ここに北国の人の心があるのです。
思う様羽搏けたるや雁供養
亭主が就職したのは大阪万博が開かれた年です。亭主以外の家族はそれを見に出かけましたが、臍曲がりの亭主は同行しませんでした。3月だったのでまだ就職前です。お祭り騒ぎが好きではないので当然の選択…
最初に配属されたのは税が納入されたことを管理する課です。その中で特別徴収を扱う係に入れられました。後に知ったことですが、この組織の悪弊で新規事業増の場合には新採を充てるということがあり、亭主の場合もそうでした。他に二人の新採が同じ係に配属されたのです。そんなに一遍に人員増となったのは、税法の改正により特別徴収の納入が年10回から12回に変更となり、その最初の年度末となったからです。このことにより、それまでは4月と5月は徴収月ではなかったのがそうではなくなり、6月からは二年度分の処理を平行して行う必要が出ていたのです。 亭主たち新採三人に新しい算盤が支給されました。他の二人はそれを使い慣れている様子でしたが、亭主は小学生の時に授業で触ったことがあっただけの状態です。必要なのは足算と引算だけなのですが、玉を弾かなくてはなりません。困惑… 必死に取り組んで、一週間後には先輩たちにさほど遅れることなく仕事をこなしていたと思います。先輩の一人などは、その係に配属されて珠算塾に夜通ったと言っていました。 亭主は指先の器用さが多少優れているのかもしれません。
税法改正によってもたらされた最初の難関は「出納閉鎖」において出現しました。これは3月末で終了した会計年度の歳入額を締め切り確定する制度です。5月末日がその出納閉鎖日になっていて、3月末までに「調定」されたもののうち、この日までに入った金が当該年度の歳入として確定するのです。4月、5月の税も3月までに「調定」がなされていますから、「出納閉鎖」までに入れば3月までの年度の歳入となります。税法改正前の10回納付であれば3月分までですから5月末日までにはほとんどが納付されています。「出納閉鎖」において処理する量はごく少量だったのです。 ところが、その年度末からはまだ5月分の納期限が到来していない状態になり、その時期でも大量の納入を処理しなくてはならないということになりました。処理が終わらなければ歳入の数字が固まらないからです。 とにかく「出納閉鎖」までにすべての数字を固めなくてなりません。ところが、その数字が合わないという事態が出現しました。亭主たち新採職員には何のことか分からない状態で待機する時間だけが過ぎて行きます。それまでに点検すべきことは指示されるままに手分けして行いましたが、数字の違いの原因が掴めません。そのときは月の末日が日曜日だったのでその前日の土曜日が出納閉鎖の最終作業日だったのですが、日付が替わる時刻を過ぎても数字が固まりません。上司の判断で翌朝から仕切り直しを行うことで解散となりました。 翌日に日曜出勤すると、原因はすぐに分かりました。「過誤納還付」の担当職員が、その関係書類を自分の机の引出しに入れ忘れていたのです。その数字を加えなければ合うはずは無かったのです。朝出勤簿に押印するために印鑑を取り出そうとしてそれを見つけたということだったと思います。大事なものは無くさないように大切に仕舞い込むのが人の性ですが、それをしたことを忘れてしまうのも人の性…忙殺が生んだ失念ということです。
落ち残る月の影踏むあしたかな
6月になって、いざ二年度分を平行処理することになると、それぞれの年度分の量の多寡はあるものの、必要な作業の間口については二倍となって繁忙を極めました。毎日3時間残業しても積み上がった仕事は減りません。次第に職員の士気も下がります。そんな中、亭主はようやく習熟の域に入っていた算盤を駆使し、蟻が砂糖の山を崩すように仕事の山に挑んでいたのです。そんな亭主の姿勢を見たのか、係長に相談されました。他の新採が定時で帰ることが多くなっていたのです。亭主は昼休みに二人を近所の喫茶店に誘って、何とか今の苦境を乗り越えようと訴えました。その状態は長く続くことではないからです。忘れていますが、我々の力を見せてやろうぐらいのことを言ったかもしれません。そんなことは亭主のすることではないと心の底では思っていましたが、やむにやまれぬ気持からしたことだと思います。それからは二人も残業の戦力に加わり、算盤の腕は亭主より上だったこともあって、さしもの仕事の山も目に見えて減って行きました。
その当時の思い出として夏の暑さがあります。事務室に冷房は入っておらず、窓からの風と若干のスタンド型扇風機だけが暑さ凌ぎの全てでした。ところが、その二つの手段を封じられる時間帯があるのです。毎日持ち込まれる「納入済通知書」の山を指定番号順に並べるのです。指定番号というのは特別徴収義務者に付けられた番号です。その並べる作業中は風は厳禁で、もし飛び散って一枚でも見つからないなどということがあったら大変なことです。汗だくとなりながらそれを行い、終わった時には一斉に窓を開け放ち、扇風機を強で回すのでした。 一番暑い時期には、大きな氷柱を事務室内に立てたこともありました。 指定番号順にした「納入済通知書」は、250枚を1冊とした「徴収簿」の「冊」を区切りとして約100枚の束にし、様式の印刷されている厚紙表紙に処理日と冊番号を記入してから左上に穴を開けて 、畳針を使ってタコ糸で綴じます。複数の冊番号分を1束とすることもありました。それから「徴収簿」に「消込」をするのですが、特別徴収義務者は5万以上ありましたから「徴収簿」は200冊以上になります。これに対して十数人の職員が、 あたかもバッタの群れが草原を食べ尽くして行くように一斉に「消込」をして行くのです。 「徴収簿」は横型天綴じの形式で、1枚が一つの特別徴収義務者です。横に並んで月別の12の欄があり、それぞれに税額と処理日、納入額、過不足額の欄などが幾つも設けてあり、消込印を押す大きな欄もありました。税額欄は当初額が印字されていましたが、異動や税額更正によって変化すると手書きで修正します。納入額が税額と一致している場合は消込印と称する日付印を押すのですが、異なっている場合は手書きで処理日と金額を記入し、税額に対する過不足を計算して記入します。これを効率よく行うために右手の人差指と中指の間にペンを挟み、親指と人差指で「消込印」を持って押すのです。手書きが必要な時は消込印をスタンプ台に置き、ペンを持ち替えて記入するし、算盤も弾きます。左手は「徴収簿」と「納入済通知書束」を繰るために親指と人差指、中指にゴム製の指サックを嵌めるのが常でした。 ペンは付けペンです。スプーンペンとかGペンを使う者もいましたが、多くが「ガラスペン」でした。これは捩じった多くの筋にインクを保持することからインク壺に入れる頻度が少なくて済み、極細のそれは狭い欄に小さく記載するのに好適でした。使い始めは少し紙に引っ掛かる感じのものも、次第に摩耗して行くと極めて滑らかで書き良くなったものです。しかし、絶好調となるころには何かにぶつけて折ってしまうのが常でした。その時の悔しいこと… 約100枚の束を「消込」終わると、「冊」分ごとに伝票計算して、その金額を表紙に記入します。最後に「納入日計表兼月計表」の冊番号欄に金額を記入します。これは縦欄が日計表で、横欄が月計表となっていました。縦が100マスで横が27マスだったと思います。従って3枚で一組でした。日計表を縦に集計してその合計が運び込まれた「納入済通知書」の束に付いていた合計額と一致すれば、その日の業務は完了ということになります。一致しないときは一致するまで点検と検算をします。月の末日には「納入日計表兼月計表」を横に集計して各冊の月計を出し、その縦計がその月の納入済額ということになります。
納期限までに納入しない特別徴収義務者に対しては「督促状」を送付します。それは「徴収簿」の5万以上のページをすべて見て、納入済でないものをハガキに抜き書きします。金額はもとより、宛先の住所氏名まで抜き書きするので大変な作業です。同時に過納額があれば 「過納額表」にその指定番号と金額を抜き書きします。 すべて見終わると、作られたハガキの金額を「徴収簿」の「冊」ごとに集計し、それが税額と納入済額から過納額を引いた額との差に一致するかを比べます。一致していれば良いのですがそれは稀で、一致しない場合はどこかに誤りがあるということなので、それを探します。この間違い探しが大変なのです。 税額は当初の税額に途中の変更額を加減した額です。納入済額は「納入日計表兼月計表」の額です。過納額は「徴収簿」から抜き書きしたもの、ハガキの金額も同じです。これらのいずれかが間違っているから一致しないのです。 数字は「徴収簿」の「冊」単位で扱いました。このことから「納入日計表兼月計表」の日計を記入するときに冊番号欄の段ずれ記入をしてしまうことがあります。200冊以上あるすべての 「冊」に毎日納入があるとは限らないからです。これは間違っている額が「冊」によってプラス・マイナスの関係となりますから単独ならば発見は容易です。しかし複数の場合もありますから、数字が誤っている「冊」についての納入済通知書束の表紙をすべて点検して数字を確かめます。これで出て来なければ他の原因です。 税額の誤りもありえます。その加減額の根拠書類を点検して「冊」の税額が正しいことを確認します。この段階で誤りはハガキの額と過納額のいずれかということになります。それらは「徴収簿」から抜き書きしたものです。抜き書き時に誤記することもありますが、そもそも「徴収簿」の記載自体が誤っていることの方が多いのでした。 納入済通知書の金額欄は手書きです。特別徴収義務者は毎月徴収する額が同じとは限りません。転職、転勤などで変化する場合が結構多いのです。 また、税額も課税更正や異動などで変化します。これも手書きで修正します。手書きの文字は誤認しやすいものです。書き癖はどうしてもあります。その結果、納入額の誤記などが発生してしまうのです。この誤りの発見は、その「冊」の全ページ250枚の納入額を積算するのが第一歩です。それが12組ある1年分の「納入日計表兼月計表」 の「冊」累計と一致しなければ誤記があるということです。その誤記は、その「冊」に属するすべての納入済通知書を突き合わせることでしか発見できません。この誤り探しは膨大な作業を伴うものです。毎月それに充てる労力は大きいものがありました。 この「督促状」作成業務は、最初は苦痛でしたが、少し経つと楽しみも加わりました。全ての「徴収簿」を繰ってハガキを抜き書きする作業が苦痛であるのは同じですが、間違い探しは楽しみでもあります。あらかじめ誤りの原因を推理するのです。間違っている数字を眺めてその性質を見抜くのです。推理通りに発見した時の悦びは大きなものでした。 数字が合わない「徴収簿」の「冊」全ページの積算時に、怪しい数字に付箋を入れるのです。これの納入済通知書を取り出して見比べて、間違っていればビンゴです。この推理に亭主は年度末までには熟達しました。秘かに係随一だと自認していました。 最後に督促状の枚数を数えます。郵便局に持ち込むので、その正確な数を出さねばなりません。このときに枚数の数え方を先輩職員から教えられました。50枚で一束にして輪ゴムでまとめるのですが、その50枚の数え方として、扇型に広げたハガキ束を4枚ずつ数えて行き、12回それをして2枚加えればいいと言われたのです。確かに4枚というのは視認し易く、1枚ずつ数えるよりはるかに速く出来ます。この時の紙を扱う技能が、その後の色々な職場で役に立ちました。
「督促状」を送っても納入して来ない特別徴収義務者には「催告書」を送付しました。これは差し押さえなどを含む「滞納処分」の前置となるものです。この作成時にも「督促状」作成のときと同様な間違い探しが行われました。この2回の間違い探しを経るので、「催告書」が誤って送られることは極めて、極めて稀です。それでも特別徴収義務者から、期限までに納入したのに催告書が来た、という苦情が来ます。この原因のほとんどは、特別徴収義務者が「異動届」の提出を怠っているか、それを違う宛先に送っている事例でした。送り先を誤っている場合はどこでも正しい送り先に回送する手間を費やしていますから、必要な時間が経てば解決します。しかし、怠ってればそれが出されるまで未納は続きます。郵便事故も皆無ではありません。 誤りに対して苦情を激烈に行う者ほど自分の誤りには至極寛容と決まっていました。自分の落度となっても、特別徴収という制度に対する苦情にすり替えるのが常でした。それが嫌なら人を雇用するな…
一年が過ぎ、二年目の4月から亭主の担当は「消込」から「過誤納還付」担当に代わりました。それを担当していた職員が異動転出したことでお鉢が回って来たのです。その仕事は「督促状」作成の中で作られた「過納額表」にある特別徴収義務者についてその過納の理由を調べ、返済すべき理由があるときは「歳入還付」または「歳出還付」の手続きを行います。これは起案して稟議に付する事務で、二年目の新人がそれを行う例はあまりなかったと思います。「ライン」職場である係ですから、「起案」をすることはそれぐらいでした。 係長が亭主にその係の「スタッフ」仕事を割り当てたのは、前年度6月からの超繁忙困難時に他の新採職員の協力を促したことと、その後の毎月の間違い探しの能力を見てのことだと思います。様々な原因で生じる「過納額」ですから、「過誤納還付」を誤って行ったりすれば問題が大きいからです。 この組織の財務会計制度の一端を成す「歳入および歳出還付」の事務手続きを経験したことは、その後の職員人生の上で大きなアドバンテージになったと思います。「財務会計」は部課の庶務担当など一部の「スタッフ」職員だけが取り扱う知識で、「ライン」業務に従事していてはほとんど触れることのないものでした。「ライン」職場にいたら稟議書の「起案」など全く行わないのが普通でした。その起案・稟議をほとんど毎日のように行うのですから、その仕組みに熟達するのはすぐでした。
独り居て濁り酒酌む背の丸し
三年目になると「消込」業務が電算化されました。コンピューターの中で納入済通知書の内容と「徴収簿」が突合処理されるのです。これは納入済通知書の手書き数字の読めるOCRが導入されたことによります。係の仕事は大幅に少なくなりましたが、人員も大幅に減らされました。月のうちに数回出力される「徴収簿」の点検が「ライン」の仕事で、異動届などに基づく税額の変動管理が主要なものでした。督促状や催告書も出力されてくるので点検だけです。しかし、亭主の 担任する「過誤納還付」担当の中身はあまり変わりがありません。 その後、四年目の終わりに大きな組織改正があって、所属する部が廃止されて他の部に改編統合されることになりました。それまでの部の庶務は亭主の所属する課の他の係が行っていましたが、その部に特有の仕事を統合先の部に移すためにそちらで一人増員となり、その要員に亭主が選ばれたのです。ところが、持ってゆく仕事自体は、同じ課と言っても他の係のもので、亭主がまったく見たこともないものでした。それまで遮眼帯をかけた競争馬のように仕事していた亭主は驚きました。 異動の内示は1週間前です。それから自分が持って行く仕事についてのレクチャーを、それを担当していた職員から受けることになりました。不勉強の亭主が初めて聞くことばかりで、目を白黒してただ聞くだけです。それでも何とか仕事の肝は掴み、 組織改正だからということで辞令も無しに4月から赴任しました。その後は辞令無しなどという変なことは改められました。全てが試行錯誤で進行していたということ… 赴任先の係は部の庶務担当ですが、組織全体の庶務も担当していて、他の部課に属さない仕事を分担するのでした。先輩職員はそれを「上げ潮のゴミ浚い」と称していました。何であろうと杭に引っ掛かったら片づけるしかないと… 亭主には自ら持って行った前の部の庶務担当固有事務以外にも、今度の部の財務会計事務とか庁舎管理などを割り当てられました。庶務担当係には系統的な文書事務もありますから、この時に亭主の知見は一気に広がりました。その組織を動かす血脈と神経の役目をする仕事を一手に収めたからです。 その組織全体の庶務を担う係に年限前の亭主が異動した理由をやがて知ることとなりました。異動者歓送迎会の席で少し酔った係長が、俺が引っ張ったと言うのです。選挙の時には投票所などの運営に駆り出されるのですが、亭主が最初に従事した投票所の事務長をその時の係長が勤めていて、亭主の仕事ぶりに目を止めていたらしいのです。会場の設営などに率先して動いたのを見ていたようです。廃止されるその課から自分の係に一人持って来るならば、どうせなら知った顔を、という程度のことだったようです。この経験があったので、後年亭主が係長の立場になった時、部下が選挙事務に駆り出されたのに対して、こういう時がチャンスだから目立つように動けとアドバイスしたものです。人事異動などそんなことで損得があったということです。 ここでは庁舎管理も分担しましたので、折から行われた事務室の冷房化の段取りも経験しました。工事中はその事務室が使えませんから、玉突き的に移転を繰り返すのです。その順番を企画するのも大変な作業でした。課によっては仮移転を伴う場合があり、引っ越しを2回しなければならないなりません。その引っ越し自体は、土曜の午後から日曜の夕方までに移動する事務室の所属職員が行うので、什器類や机など重いものは、移動距離が長い時は大変な作業でしたが、次の夏からは糞暑さから解放されるというニンジンがぶら下がっていたので苦情は聞こえませんでした。 この時にボイラーで蒸気を作って冷水を得るという魔法のような吸収式冷凍機の仕組みや、今は一般的になったヒートポンプ冷暖房の仕組みを知りました。このヒートポンプ冷暖房ですが、降雪などで外気温が下がると高圧カットが頻発し、寒さで震える事務室が続出したのを覚えています。まだ性能が今一だった時代です。機器の熱容量をケチっただけかもしれません。
毬爆ぜて想ひの種のあらはるる
この組織の庶務担当の係に四年いましたが、またも年期が明ける前に異動となりました。今度はその組織が取り交わす契約が正しく履行されていることを「検査」する部所ですが、そのころは少し変な組織となっていて、普通は課長の下に係があるのですが、その課長がいなくて部長の直属という位置付けでした。そのような仕組みにしたのは、契約担当が検査も行っていた時代に汚職が発生したことによるものとのことでした。土木や建築などの技術職員がその分野の工事契約の検査にあたりましたが、亭主たち事務職は委託契約と物品調達契約についての履行検査を担いました。 ここでは普通なら組織の事務職のほとんどが没交渉である工事契約の検査員とも知り合いになれて、その専門的な仕事の中身も見聞きすることで大きな知見となりました。これは後々公私ともに大いに役に立ったと思います。 その組織が外部に発注する一定金額以上の主要な契約の内容が、「契約書・仕様書」と言う形ではありますが、すべて目の前を流れて行くので、今この組織がどのような仕事をしているのかということを悉皆把握出来たのでした。このような経験は他の部所にいたのでは望み得ないことです。 この係に異動になるについても、係長に引っ張られたということが知れました。前の職場のときに、その仕事ぶりを見て自分の係の増員要員として部長に頼んだとのことでした。 この係の仕事は契約の履行検査ですから、物品なら納品されたものが仕様書のとおりの内容・数量であるかとか、委託や役務契約の場合は仕様書どおりの仕事が行われているかを実際に確認して合否の判断をするのですが、その契約内容についてのある程度以上の知識が求められます。「検査合格」というのは契約代金支払いに必須な重要決定で、それをほとんど瞬時に判断する場面も多く、その判断は検査にあたる職員それぞれに任されていたので、この時の職務経験は極めて大きかったと思います。 製造の委託などの場合は、完成すると内部が分からなくなるものなどを工場でその製造の過程を確認することもあり、いろいろな製造現場も見に行きました。これも大きな経験でした。 この職場にいた6年間に結婚し、子供が二人生まれました。家も新築しました。公私において苦楽ともに人生の華とでも言うべき時間だったと思います。家を建てるにあたっては、建築の技術職の同僚からの入れ知恵などもありました。最新の住宅設備についての多くの知識も出入り業者などから得られたものです。
満つるとも何ぞ哀しき望の月 彼岸へと渡らむと待つ萩の餅 皿舐めて舌鼓して半殺し
この職場で齢近い同僚の若死に会いました。自宅の建替えをしたばかりでした。その建替えにあたっては、すでに自宅を新築していた亭主にアドバイスを仰いだのです。その建替える古家も見に行きました。敷地に井戸があり、それの上にも建物が乗る計画なので埋めなければと言っていました。 死因は肝癌です。齢若いだけに進行が速く、発病して半年で彼岸へと渡って行きました。新築にあたって井戸は埋めたと聞きました。祟りであることは明白… この井戸の祟りは山の神の実家でも起きています。戦後すぐに戦時中の強制疎開跡地を入手していて、その敷地に井戸が3か所あったのですが、邪魔なために一つ埋める度に一人死んでいます。それも一人は若死…流石に三つ目に砂を入れて埋める時には神主のお祓いを受けました。 完全には埋め込まず、マンホールで蓋をしている現況です。 そういえば、亭主の実家の井戸も祟りをなしました。家を増築するときに水道の敷設によって不要となっていた浅井戸を埋めたのですが、その後母が体調を崩して入院をしています。掘ってからあまり長く使わなかった井戸なのでその程度で済んだのかも…
井の中に捕らへられおり寝待月 渡るのは夜半と決まれり天の川 たそかれを惜しみなくなり秋の蝉 手向けすは西方浄土秋彼岸
規定の年期を越える6年間を「検査」の仕事で過ごし、次の異動先は「監査」の職場です。「検査」から「監査」とは同じようなところに行くなと揶揄されたものですが、この二つはまるで仕事内容が違う職場です。監査というのは、言わば身内の仕事の「あら探し」です。内容は国の「会計検査院」の仕事と近いものです。 「定期監査」と「決算審査」とが主要な職務で、前者は毎年各職場の事務執行状況の適正さを見て回るものです。不都合があればそれを指摘するのが権能です。後者は収入役が議会に決算案を上程する前に、その内容の適正さについて意見を付けることです。 毎年行われる「定期検査」に基づく監査報告書に指摘事項を乗せられるのが各部所の長が嫌うことで、その嫌われることを求められるのですから辛い仕事でもあります。亭主たち監査の職員には各部所の現場監査に基づいた指摘を原稿にして提出することをノルマ的に求められたのですが、亭主は担当した監査対象職場の個々の職員の過誤についてはその場での口頭指摘に止め、報告書に乗せるべき問題点の原稿としては制度の矛盾やその不備な点のみを書き出すようにしていました。このため、報告書に纏めるための事前会議において「没」となってしまい、結局報告書に乗ることはなくて、搭載実績無しの年が続きました。「没」となった理由は、そこで指摘すると問題が大きくなりすぎるという上意下達がほとんどで、それについて上司の事務局長から因果を含められたものです。先輩や同僚からは、また今年も何も無しかよと揶揄されました。亭主にとって「没」は勲章のようなものでした。 職員の過誤について文書にしなかったのは、亭主自身がそれと類似した仕事をしていたことがあり、その大変さを知っていたことと、どのような時に誤りをするのかを承知していたからです。口頭で誤りの存在と、誤らない方法や修正方法を教示すれば、感謝されこそすれ、恨まれたりはしないものです。修正すれば問題の残らない誤りなのですから、それが文書で残らなければ水に流せるのです。 「決算審査」は、各部所が作成した決算報告書を精査して、その履行内容を4人の監査委員に対して説明するのが主要な仕事でした。最初の年、亭主は歳出科目の一部を分担しました。先輩や同僚職員は担当する科目に関係する部所の決算作成担当者を呼んで、その記載について一々聞いて説明台本を作って行くのですが、亭主は受け持ちの決算説明書を一通り眺めただけでその執行のありさまがすべて分かってしまったので、一度も担当者を呼びませんでした。それは前職の「検査」を通じてそれらの仕事の中身を悉皆掴んでいたことと、その前の職場における組織全体の庶務担当の仕事などによって財務会計事務、契約事務等の流れの全てを理解していたからです。決算報告書に記されている支出事由と数量、金額を見れば、その事業の執行されて行く全体像がイメージとして掴めるので、詳細な説明台本の著述に専念するだけでした。 調査の期間が過ぎて、監査委員に説明する会議が開かれました。数日に渡る会議です。亭主と同じくその年の新規配属ながら大先輩の職員が先に説明をして、それに監査委員から質問が飛びます。その中で一人の監査委員の特徴が浮かび上がりました。知識経験者からの選出枠ということで公認会計士から選ばれた委員でしたが、これが相当に狷介な人物で、説明する職員が「何々等」と支出内容を纏めると、その「等」の中身は何だと聞くのです。似たような内容のものは「等」と纏めるのが通常のことですから、執行内容を聞き取りして作った説明原稿に細かい事まで書いていないその職員は詰まってしまいます。後で報告するということで先に進みますが、たびたびそれが現れて、その職員の報告全体が翌日回しということになりました。 それを見ていた亭主は腹を立てていました。よし、この野郎と腹を括りました。順番が繰り上がって亭主の説明する番になり、そのことを言うと説明に時間を取られそうだと思う項目を「等」の中に纏めて説明しました。案の定、「等」の中身は何だとということになりました。亭主はおもむろに「鉛筆が10本で幾ら、消しゴムが10個で幾ら」と始めました。その狷介委員は「分かった、分かった、もういい」とうんざりとした顔で言いました。そうしてあまり組織外部の人間には詳しく説明したくない項目は言わずに済ませました。以後、亭主の説明において「等」と言っても、その中身を問われることはありませんでした。 この亭主の作戦に老練な事務局長は気付いていて、その後の休み時間に近寄ってきて、小声で「うまくやったな」と言って横顔で笑ったのです。監査委員には見せない決算説明書には書いてある項目なので、それを見ていた事務局長は、その少し問題のある項目の説明を自分が引き取ってするつもりだったようです。普段は居眠りをしているような人でしたが、他の職員が詰まったりすると助け舟をよく出していました。 この職場への異動もまた、引っ張られてしたものでした。事務局長が防災訓練の会場責任者をしたときに、駆り集められた様々な部所の職員の中に亭主がいて、その動きに目を付けていたからだと言われました。お祭り見物は嫌いなのに節句働きをする亭主の面目躍如と言ったところです。 この職場で三人目の子が生まれ、続いて足掛け一年に及ぶ入院を要した大病を発症しました。まあ「ライン」の仕事ではなかったので、あまり迷惑はかけなかったと思っています。
轟々と吹き荒ぶ吾(われ)木の葉髪 相席の釜揚饂飩羨(とも)しけり 霰打つわが身に潜む魔物あり 末生りの誹り背負ひて南瓜這ふ
一般職員として仕事をしたのはその時までで、その前の「検査」の職場にいた時に既に昇進試験は通っていたものの、先がつかえていて昇進していなかったのですが、ここでの5年の年期明けに順番が来て昇進しました。しかし、その職場は係員のいない係長職場で、法定だから設けていた窓際職場というところでした。病気でいつ休むか分からない者に就かせるというのですからそんなものでしょう。一人しかいないのですから課せられた仕事の一切合切を取り仕切りました。一人ですべてを担うのは大変なものの、部下がいないのは気楽なものでもあります。決められた求められる仕事をこなしてしまえば、あとは何をしてもはばかることはありません。 仕事は法定の付属機関である審査会の運営担当ということでした。月に一度開く審査会の事務方を勤めるのですが、議案の用意とか会場の会議室の準備とかであり、人手が必要な時は課の庶務担当係からそれを出してもらう仕組みになっていて、当日は報酬日当や旅費の支払い手続き、議事録の作成など様々な雑用がありました。議事録は録音から起こすのです。 一般的に審査会などの付属機関は行政の特例的な行為にお墨付きを与えるために設けてあるものです。いわば行政の例外行為の正当性についての恰好付けとでもいうべき存在で、事務方および会の座長の運営次第でどうにでも出来ることが多いものです。座長には事務方の意を酌める人物を充てるのが普通のことです。しかし、委員の中にはとんでもない人物が混じることもあります。 二年目に入れ替わった委員がそれで、業界ではその実績で一目置かれていたから委員に推薦されたのでしょうが、自尊心の強い人物で、少しでも劣る人間とみるとそれを見下すという、どうしょうもない性格でした。審議議案の提出課がその内容説明をするのですが、その中に瑕疵があるとそれを必要以上にあげつらうのです。説明者である課長たちは嫌い抜いていました。 その委員の矛先は亭主にも向けられました。前回の議事録を冒頭で読み上げて確認するのですが、亭主が読み上げた語句について口を挟んだのです。「杜撰」という言葉の読みでしたが、亭主は「ずざん」と読んだのです。これに対して「ずさん」だろうと横柄な口調で遮ったのです。それに対して亭主は、この頃そうと言う人もいますが、古くからは「ずざん」が用いられていましたと応じました。それに対して、本当か、辞書を持って来たまえということになり、審査会の進行役の部長は困った顔をしましたが、亭主はすぐに席を立って辞書を取り出して見せました。それには「ずさん」は「ずざん」の誤用と書かれていました。専門知識ならともかく、世間一般の常識や雑学なら負けはしないというのがその時の亭主の本音でした。 この一件以来、この委員、亭主のことが嫌いになったと思います。ほとんど絡んでこなくなりました。その後、横浜で開かれた博覧会を視察と称して委員たちを見物に連れて行ったことがあったのですが、その中で、当時横浜美術館脇にあったレストランの横文字の店名について、あれはどういう意味か知っているかねと、引率の関係課長たちに聞いたのです。それはどうせお前らは知らないだろうという口調でした。引率者の一員だった亭主は「21」でしょう、この場所「みなとみらい21」を示しているのだと思いますと口を挟みました。 件の委員は鼻白んだ顔になりました。第二外国語としてフランス語を取るのは少数派だったし、技術系の課長たちがそれを学んでいることは稀でした。辛うじて単位を取ったとはいえ、数字ぐらいは知っていた臍曲がり亭主がここでも真価を発揮しました。
褪せてなほ競ふ色香や曼珠沙華 神仏(かみほとけ)頼るあて果て曼珠沙華 憎みをり妬みをる日や曼珠沙華 古酒新酒利き分け顔の半可通
この仕事に従事していた時に突然湧いて出たのが、先に書いた「不来方紀行」です。 審査会開催日は蛸の足や烏賊の足が欲しいほど忙しいのですが、それ以外はほとんどやることがありません。財務会計や文書事務、契約事務など庶務的な仕事に堪能だった亭主は、その関係の仕事はさっさと片づけてしまい、他の時間はひたすらキーボードの習熟に励んでいたのでした。 その三年間の日々は、その後の亭主に仕事を楽に片付ける手段と才能を与えてくれました。そのスキルは今も老後の楽しみの時間を与えてくれています。
老楽の旅を励めり菊膾 数多なる嵐ありけり晩稲(おくて)刈る
★冬支度 未曽有の被害をもたらした東北大震災(2011/3/11)のときは、定年退職後に5年の年期契約で就職していた財団にいました。文化施設の運営を委託するために設立された外部団体です。その時は図書館を併設した集会施設にいましたが、1階の事務室で揺れに会いました。少し大きく長く感じましたが、それほどの大地震であるとは思いませんでした。室内の物が落ちるなどは皆無で、劇場など館内の点検をしましたが、エレベーターが基準階で停止した程度でした。そのことで既定以上の揺れがあったことを知ったほどです。 停止しているエレベーターの復旧は、いつもは呼んでもなかなか来ない駄目保守会社のチームがちょうど近くのビルに来ているというので珍しく敏速に行われましたが、一息ついて情報収集のためにテレビを見ると大変なことになっていました。津波のリアル映像が流れ、ただ呆然と見ているだけでした。 交通機関が途絶していることも分かり、電話も繋がり難くなっていました。帰宅の時間になりましたが、交通機関の途絶は続いています。帰れない者は施設内に泊まることを決めていたのですが、家からの電話が繋がり、長男と山の神が車で迎えに来るということになりました。 普通の倍以上かかって迎えは着きましたが、帰りの道が物凄いことになっていました。午後10時を少し過ぎた時刻に出発したのですが、第二京浜は渋滞で進みません。そのルートは断念して、勝手知ったるレアな裏道を抜けてしても、普段なら20分もあれば通過できるガス橋にまでたどり着くのに2時間以上かかりました。途中、車道の両側の歩道は人の列が切れ目なく続いていました。車窓から覗き込む沿道のコンビニはどこも弁当やパンなどの棚が空になっていました。 ガス橋を渡ると車の流れは次第に速くなり、午前1時頃に帰宅できました。通常の3倍以上かかったことになります。その時刻になっても家へと向かう人影が黙々と道脇を進んでいたのに慄然としました。何時間歩き続けたのだろう… それからの暫くは電車の運休や間引き運行が行われたので、時間はかかるものの、確実に座れる始発バス停からの通勤が続きました。計画停電もありましたが、亭主の家の地域は何故か計画外になっていたので、一度も経験しないで済みました。何か重要施設が地域内にあったのだと思います。 その停電の原因となった福島原発被災は色々と考えさせられる事象です。この膨大な負の資産をどのように償却して行くのか、ただ呆然とする以外にありません。電気が無ければ成り立たない社会です。それを失わぬ為の知恵がこれからの人類に課せられた最大の問題…
夢破る啄木鳥(たくぼくどり)の冬支度 病葉(わくらば)の枝を離れて見る夢は 実の入らぬ穂のそそけ立つ風祭 桜貝小さき夢を拾ひけり
|