「PENTAX交換レンズ」についての能書きあれこれ 「治癒不能とされていた難病の治療」 編 |
・ まえがき ・ PENTAXに限らず、古い交換レンズには、これまで治癒不能とされていた二つの恐ろしい病が存在します。その二大難病とは「バルサム切れ」と「黄変」です。この病にかかったら、その交換レンズの市場価値は無に等しいというぐらいの病で、恐れとあきらめをもって語られる交換レンズの「死病」でした。 ところで、「バルサム切れ」というのは、貼り合せレンズの接着面が曇る現象を指します。昔、レンズの接着には天然樹脂のバルサムを用いていたことによる命名のようです。 次に、「黄変」というのは、文字通りレンズが黄色く着色する現象です。レンズの成分であるガラスというのは結晶した固体ではなく、粘度が極めて高い液体なのだそうです。このため、成分の経年による変質により、長い時間を経過すると着色することはある程度避けられないことなのだそうですが、この「黄変」というのはそのような軽微なものではなく、カラーバランスが狂ったり、露出が余計に必要なほど著しく着色することで恐れられていたのです。これら厄介な交換レンズの病について、少し詳細に述べてみます。 ・ 1 黄変 この「黄変」の現象が顕著に現れるのは、「アトムレンズ」と俗称される「酸化トリウム入りレンズ」に限られています。これは1965年ぐらいから広く使われ始めた光学ガラスで、高屈折率と低分散を両立させた高性能ガラスなのです。今日ではEDレンズがそれに相当するものでしょう。ガラスの成分として放射性元素である酸化トリウムが配合されているために、微量ながら放射線を出しているという問題も抱えています。その放射線量とは、1時間当たり10マイクロシーベルト程度なのだとか…この放射線のためにブラウニング現象というものが発生して、放射線を出している当該レンズ以外にも、近接するレンズにも黄変を引き起こすのだとか… この高性能な光学ガラスを使うことで、特に明るさを要求された標準レンズなどは、その性能を高めることに成功しています。これはPENTAXだけのことではなく、当時の有力光学メーカーのすべてと言ってもいいでしょう。 なお、この光学ガラスを製造したのは「オハラ」であったようです。 PENTAXにおいてアトムレンズを採用したことで良く知られている機種は、Super-Takumarの「1:1.4/50」、「1:1.8/55」及び「1:2/35」です。これらはその後「SMC」化や「Kマウント」化されても使い続けられたものがあり、最終的には1977年まで使用レンズを製造していたとのことです。 「黄変」はアトムレンズである以上諦めなくてはならない業病であると思われていましたが、近年、この黄変したレンズエレメントに対して紫外線を照射することによって、酷い「黄変」をきれいに消すことが出来るとの情報が提供されました。それを知った亭主は早速実験し、その情報が正真正銘の真実であることを確認しました。それが下の写真です。これで「黄変」という病は治癒が可能であることが明白になりました。その黄変が消えるメカニズムは不明なのですが、そういう信じ難い現象が実際にあることだけは事実です。 ・
※上の写真は、比較実験のために同程度の「黄変」レンズを用意しました。SMC TAKUMAR 1:1.8/55の最後部玉です。
※上の写真は、左が紫外線被曝環境に置かなかったもので、右が5月上旬の数日間屋外に放置したものです。
※上の写真は左側がアトムレンズではない「SMC PENTAX 1:1.8/55」の最後部玉で、右が長期屋外放置して黄変が消えたアトムレンズです。並べて比べと、小端のところが少しだけ黄色味の強いのが分かります。 ・ レンズエレメントを鏡胴から取り出したら、ポリ袋に入れて、陽のあたる屋外に1週間程度置いておくだけで黄変は消えます。紫外線量の多い夏季が効果的かもしれません。 紫外線ライトを照射することで作業時間を大幅に短縮することが可能なようです。 ・ こうしてアトムレンズの美白が成功したとしても、光学ガラスの成分として「酸化トリウム」が入っているのですから、微量とはいえ放射線を出し続けていることには変わりありません。これをもって脅威と思う人には、それらは価値の無い交換レンズであることに変わりありません。 でも、黄変が消えたことで本来の性能を取り戻したことを良しとするなら、現代のEDレンズに相当する性能を愛でる愉しみを得られるのですから、大きな一歩であることに違いは無いでしょう。 ・ ・ 2 バルサム切れ 交換レンズの光学系に貼り合せレンズが使われるのは、光がレンズ表面で乱反射することを避けるためです。2枚のレンズの表面を少なくするために考え出されたのです。交換レンズに複数のレンズを使うのは、レンズの屈折によって生じてしまう収差を補正するためです。凸レンズと凹レンズとでは屈折による光の分散の度合いが逆の関係になるため、凸面と凹面を組み合わせることにより、発生する収差を打ち消すのです。近年レンズ表面にコーティングを施すことで表面の乱反射は大幅に押さえられるようになったので、それ以前より貼り合せの数は少なくなったのですが、それでも間に空間を設けるスペースが不足する場合など、貼り合せの設計が用いられているのです。 ・ ところで、「バルサム切れ」の方は、1975年より以前のSマウント時代のものにはあまり発生しておらず、より新しいKマウント化後のものに多発しているという特異な現象があります。Kマウントの交換レンズの中には、光学系構成についてSマウント時代のものを継承しているものがあります。これらについて、より古い方のSマウントなら「バルサム切れ」がほとんどないのに、より新しいKマウント化後になると、そのほとんどが「バルサム切れ」している機種があるのです。このことは、用いている接着剤がこの時期に変更されたということでしか合理的に説明ができません。 接着剤を変更したことやその時期をPENTAXが明らかにしていないので、これはあくまで推測でしかありません。でも、世の中では、この時期に、紫外線や熱硬化型の化学系ガラス接着剤が広く使われるようになったという事実があります。 ・ ところが、Kマウント後の交換レンズの中でも、「バルサム切れ」が稀である機種が存在します。同じ時期に作られたものなのに、高率で「バルサム切れ」をするものと、そうではないものがあることは、まことに興味深いことです。 しかし、同じ会社が製造したのに、それぞれにまったく別の接着剤を用いていたとは考え難いことです。 「バルサム切れ」がほとんど無いのは「smc PENTAX M 1:1.7 50mm」です。亭主はこれを6本所持していますが、その内の2本だけが周辺部にほんの少し薄曇りが見られます。 ところが、4本所持している「smc PENTAX M 1:1.4 50mm」や3本所持している「SMC PENTAX 1:1.8/55」の方は、すべてが明白に「バルサム切れ」していました。 ・ このように同じレンズを亭主が多数所持している理由は、一時期深く耽っていた分解修理の愉しみのために「ME Super」などのジャンク・カメラを収集していて、それにお伴として付いて来たからです。 この三つの交換レンズの違いは何かと言えば、貼り合せレンズの接着面の形状です。「1:1.7」は平面に近く、「1:1.4」と「1:1.8」は曲率の大きな球面なのです。このことが「バルサム切れ」の多寡を律しているのだという疑いが浮かびました。 Kマウント化後に使われている接着剤は接着力が強力であるのと同時に、伸び縮みもし難いという性質があるのかもしれません。このことが「バルサム切れ」を生じさせているのではないかと言うのが亭主の立てた仮説です。 ・ 貼り合せている2枚のレンズは、それぞれの屈折率を変えるために組成が異なり、そのことで膨張率が異なります。接着層の膨張率もまたそれらとは異なっていることが考えられます。さらに、接着層が平面に近いものより曲率の大きな球面の方が、膨張・収縮によりそこに受ける影響が大きいのは当然のことでしょう。特に接着面の周辺部においてはそれが大きいと考えられます。これらのことが、片や「バルサム切れ」がほとんど生じず、他方に非常に多く発生していることの有力な説明になります。 大きな温度変化、それも急激な変化による膨張・収縮が「バルサム切れ」を生じさせているのだと仮定すると、それを増長加速させることで剥離に至ることが期待できます。その増長の手段として、公開されたある成功例では、オープンでの160℃程度の加熱を行っています。しかしながら、これには冷風が当たることによる急冷によってレンズ破壊のリスクをはらんでいるので、決して安全な方法とは言い難いものがあります。さらに、剥離のためには高温になったレンズの接着面に対して横向きの応力を加える必要があり、とても素手では持てないそれに対して作業を可能とするためには、何らかの器具などの工夫が必要であろうと思われます。 ・ そこで亭主が考案したのが「冷凍・熱湯法」です。ガラスというものは、急冷却より急加熱の方が、言い換えれば急収縮より急膨張の方が破壊のリスクが少ないと考えました。また、最高100℃にしかならない熱湯利用の方が、作業上の危険も小さくできると考えました。家庭用の一般的な冷凍冷蔵庫で得られる低温は−20℃程度ですが、これと熱湯との温度差は120℃になります。これによる急膨張によって接着面の横ずれを惹起せしめれば、剥離という目的は達せられるのではないかという仮説を立てたのです。 ・ この仮説に基づく実際の作業としては、まず貼り合せレンズを冷凍庫に入れてキンキンに冷やします。半日程度は入れておきましょう。大きめの丼などに熱湯を入れ、電子レンジで沸騰状態にします。これに対して冷凍したレンズを投入します。「ピシッ」という音を発する場合があり、それは「バルサム切れ」の亢進する音のようです。これをそのまま電子レンジで2分程度加熱して沸騰を継続します。その後丼を取り出し、水を加えて手が入れられる程度の温度にします。約50℃弱ぐらいでしょうか…湯の中で両手でレンズを掴み、接着面に対して平行に力を加えると、接着面が十分に剥離している場合は「ぬるり」という感覚で剥がれます。接着面から化学系接着剤特有の臭いが立ち上るはずです。 ・ この方法で最初に成功したのは「2011年6月1日」のことです。何回か冷凍から始まる一連の手順を繰り返して後の成功でしたが、亭主のその後の実験では、この一連の手順を2回施行したところで剥離に至った例があります。 「バルサム切れ」した貼り合せレンズ6枚にこの方法を施行しましたが、行ったすべてについて安全な剥離に成功しています。
この方法は、湯の中で最終段階の力を加える作業を手で行うため、レンズが破壊されたり傷ついたりするリスクが少ないという利点があります。また、特別な道具を使わないので、文字通り「手軽」です。亭主は、この一連の手順について、「冷凍・熱湯法」と命名しました。 ・ 最近(2011年5月)富士フイルムが取得した特許に、「曇らないレンズの技術 」があります。これによれば、レンズ曇りの発生の原因として、高温により接着剤からエステル系のアウトガスが発生し、それが空気中の水分で加水分解して鹸化し、レンズ表面に付着して曇りとなるとのことです。これがすべての 「バルサム切れ」の説明になるのかは不明ですが、もしかするとこれが原因ではないかと疑われる事例には1例遭遇しています。それはレンズ中央部に不定形の雲状の曇りが広がった事例です。これも接着は亭主考案の「冷凍・熱湯法」により分離したのですが、ごく斜めから見ると、分離したレンズ凹面表面にその曇りの形状が薄く残っていることが確認できます。鹸化物質によってレンズ表面自体が浸食されたものなのかもしれません。 ・ 「バルサム切れ」の原因としては幾つかあるのかもしれません。そのため、色々な症状があるのだと考えられます。古い一眼レフの接眼レンズに現れるのは、レンズが矩形であることにより剥離がし易いことで発生しているようです。曇りより、部分的な剥離と分かるものがほとんどです。 「SMC PENTAX 1:1.8/55」や「smc PENTAX M 1:1.4 50mm」に非常に多発しているレンズ周辺部の薄曇りタイプのバルサム切れは、接着層の部分的な、微細な剥離の集合であると言うのが亭主の支持する説です。これの発生メカニズムは、前述したように2枚のレンズと接着層の3者がそれぞれ膨張率が異なることにより、接着面に対して平行の応力が生じて微細に剥離するということにあります。そうであれば、これが生じないようにすることが 「バルサム切れ」発生の防止策ということになります。すなわち、急激な温度差を与えない、つまり急激な膨張・収縮を起こさせないということに尽きるのです。 「SMC PENTAX 1:1.8/55」や「smc PENTAX M 1:1.4 50mm」に発生率が高いのは、それだけ屋外に持ち出されているということが背景にあるものと考えられます。夏の車中、それも陽のあたる後部座席背後の棚に置かれていたとすれば、100℃近くの高温となっていた場合もあるでしょう。これを車外に持ち出せば、70℃近い温度差で急冷されることになります。また、冬の屋外では−10℃以下の環境は稀ではありません。これを25℃以上の室内に持ち込むなどという状況も決して少なくは無かったものと考えられます。これらに曝された個体が多かったのでしょうから 「バルサム切れ」を起こしたとしても何の不思議もないことになります。 ・ カメラ収納庫に保管していて「バルサム切れ」が発生したという報告例がありますが、それゆえに過度の乾燥が原因と疑う説があります。貼り合せレンズの小端は墨塗りされています。乾燥によってこの塗装膜を越えて内部が乾燥し、それによって化学系接着層が劣化するというイメージを納得することはできません。天然樹脂であるバルサムであれば、それを納得できるのですが…それより、富士フィルム特許の説明のように、空気の流通が悪いことでアウトガスが鹸化して曇らせるという説の方が説得力があります。 ・ ・ 「バルサム切れ」レンズの修理という命題の解決のためには、「貼り合せレンズの分離」は、その第一段階でしかありません。「2枚のレンズの再接着」という関門と、その後の「 レンズ小端塗り」という難関が待ち受けているのです。これらを安全確実に行うためには習熟した技能が必要で、素人が実施するためには、明らかに不足しているそれを補う工夫が求められます。 分離したレンズの再接着のためには適切な接着剤が必要です。それをどれにするかが次なる課題ということになります。 古典的ガラス接着材であるバルサムを用いる方法がありますが、これを安全確実に行うためにはある程度の熟練を要するようです。再剥離が比較的容易ですから、やり直す必要がでても対応が容易そうです。最小単位の量を1K円程度で入手可能です。 熱硬化型の化学系ガラス接着剤は、加熱用のオープン使用とその適切な熱管理という関門があります。これは素人には敷居が高そうです。入手も少量では困難なようです。 紫外線硬化型ガラス接着剤の場合、紫外線を浴びることで硬化するというものですから、接着剤の塗布とその後の空気抜きや芯出しなどをゆっくりと慎重に行えるという利点があります。「黄変」治療にも使える「紫外線ライト」を準備すると、より紫外線の少ない夜間作業とすることもできます。これも最小単位の量を1K円程度で入手可能です。 芯出しについては、元々が貼り合せレンズというものは、2枚のレンズの芯出しを行ってから接着し、その芯を中心として鏡胴に取り付けるために必要な大きさの円形に加工されているはずですから、再接着の場合、2枚の周囲を一致させることで光学芯も必要な誤差の範囲で一致するものと考えられます。 また、接合にあたって周囲を一致させることは必要不可欠なことで、これがずれていると鏡胴に取り付けることができなくなります。したがって、再調整する余地はほとんど無いと考えられます。 素人整備の限界と言うのは、測定機器などを準備することが困難であるというところにあります。分解したものを元の通りと思われる状態に組み付けるという程度の精度で満足する以外にはないのです。その結果が性能不足と感じたら、何度でもやり直すことが出来るのも自前整備の醍醐味です。 ・ 接着に成功しても、それで修理は完了ではありません。貼り合せレンズは厚さがあるため、小端の内面反射が写りに影響する可能性があります。これを防止する ために小端を墨塗りする必要があります。 小端に対する墨塗りの塗料としては、墨液が適当なようです。特に素人が施工する上で使い易いと考えられます。塗料としての性能としても、かつて実際にプリズムの墨塗りなどに用いられていたとのことです。 墨液は炭素の粒子と膠が成分ですから、乾燥後は無水エタノールでは溶けません。これはその後のレンズ整備に困らないと言うことです。硯に向かって心静かに墨を磨る時間は、難しい作業前の精神統一にもなることで しょう… 墨液を小端にだけ塗る、レンズ面にはみ出させないという難しさがあるので、塗る道具としては、墨液の含み量を微妙に調整することが容易な「綿棒」が向いていると思われます。筆はレンズ縁の部分の塗装などでも扱いが難しいものです。 小端塗りの作業において、レンズを保持する方法を工夫する必要があります。レンズ面を指で持って保持すると、乾燥するまでそれを持っていなくてはなりませんし、塗装後にレンズ面の清掃が必要になるかもしれません。何回も薄塗りすることが求められますから、あまり良い方法では無さそうです。 塗装する小端を押さえるのが合理的ですが、ピンセットなどで挟む方法では保持が不安定です。そうなると、面倒でも作業台を作成することが、満足の出来る結果に繋がりそうです。 作業性や保持の安全性を考慮すると、小端を三点で保持するというのが最も向いているように思います。塗り面を隠す面積を小さく出来て、同時に安定した保持も可能です。この要求を充たす作業台としては、100mm径程度の短い円筒の周囲に120度間隔でネジ穴を作り、そこに先端を尖らせた長ボルトを外側から3本捻じ込むという形式が最も簡潔であろうと思われます。乾燥時に置けますし、作業時には手に 取って扱えます。円筒の材料としては、塩ビの排水管かその接続部品などが、制作にあたっての工作性が良さそうです。 墨液を適度に染み込ませた綿棒で軽く叩く方法で塗って行きます。小端に点描するというような感じでしょうか…一度に濃くしようと思わず、乾燥後何回か塗る作業を繰り返します。時間をかけられるのも自前修理の利点です。 ・ あとがき ・ 亭主はAF化以前の古いPENTAX交換レンズを数多く所持しています。これらは構造が平易で機械加工の精度が高いので、素人の自前整備が可能なものがほとんどです。その自前整備では解決が不能または困難であった「黄変」と「バルサム切れ」がいずれも解決可能なものとなったことで、より愛着が深まりました。これからも必要な整備をこの手で行うことで、長くその製品としての生命を保たせたいと願っています。 「バルサム切れ」修理は、安全に貼り合せレンズを剥離することが修理作業の最大の関門になっていましたから、古いPENTAX交換レンズを愛し、その自前修理を志す有徳の士のだれもがそれを安全確実に行える亭主新考案の「冷凍・熱湯法」により、1本でも多くの難病が癒されることを希うものです。 ・ …亭主雌山謹申 ・ |