冬になると、決まって記憶の奥底から浮かび上がってくる景色がある。
思い出そうとしなくても、ふとした拍子に目の前に甦ってくる、懐かしい風景。


俺たちの他には誰もいない、狭い路地。
冷たい夜の空気に溶けていく、白い息。
俯いた顔に長い髪がかかって、睫毛が微かに震えていた。

すごく寒くて、その年初めての雪が降った日だった。


それは随分と昔のことで、
俺たちがまだ明和に居た頃の話だ。





 ~ 俺のわんこ ~ わんこ誕生日編



その日、俺たち      俺と若島津は、いつものように明和FCでの練習を終えた後、俺の家に向かっていた。
何故かその頃、日が沈んで暗くなると若島津が自分の自転車を押して一旦俺を家まで送り、それから自転車に乗って一人で自分の家に帰るようになっていた。
俺が何度「女じゃないんだから、送ってくれる必要はない」と訴えても、あいつは「俺が安心できないから」と取り合おうとしない。「それじゃあ、お前が帰りに一人になるんだから、お前だって危ねえじゃねえかよ」と言うと、「じゃあ、俺が見えなくなるまで家の前で見送っててよ」としか言わないし、俺が自分の自転車が無いのはちょっとアレだな・・・と思うようになったのも、この頃のことだった。

この時もやっぱり幾つかのやりとりがあって、結局は面倒になって若島津に送らせることにしたのだと思う。


「日向さんのカバン、貸して。自転車の籠に乗っけてくよ」

歩いている途中で若島津にそう言われて、俺は肩にかけていたバッグをはずした。若島津はそれを受け取ると、一旦立ち止まって自転車の籠に入れる。
そしてまた歩き始めるのかと思ったら、そうはせずに若島津は自転車のスタンドを立てた。手を離しても倒れないことを確認してから、今度はその手を俺に向かって差し出してきた。

「日向さん。ちょっと手、見せて」
「手?」

咄嗟には意味が分からず、それでも俺は若島津の手の上に重ねて両手を出した。その俺の手を見た途端、若島津が眉をひそめる。

「・・・荒れてるね。あかぎれが酷いよ。手袋をはめるようした方がいいよ。どうして今日も、してないの」

確かに俺は手袋をしていなかったし、そのせいで指先まで冷え切っていた。
家を出てくる時に手袋が無いことには気が付いたけれど、その時は時間が無かったし面倒でもあったから、そのまま置いてきたのだ。
それに俺は手袋をするのが、実のところそれほど好きでもなかった。温かいは温かいけれど、なんとなく手の動きが自由にならないような気がするから。

対する若島津の方は、中に綿の入った温かそうな手袋をはめていた。こいつの場合はサッカーをする時にはそれこそ季節を問わずにグラブをはめているのだから、その感覚に慣れているのかもしれない。それに自転車に乗って帰るのだから、手袋が無ければ相当に辛いだろう。

そんなことを考えていたら、若島津は手袋の先を歯で挟んで、そのまま引っ張って外した。両方とも。
外したそれを自転車の籠に放り投げると、温かい手で俺の手を押し包むようにしてさする。

「冷たい・・・。冷え切ってるよ、日向さん。それにこんなに荒れてたら、痛むでしょう?」
「別に、どうってことねえよ。・・・バイトでも家でも水使うんだから、しょうがねえじゃん。荒れるの。でも、夜はちゃんとクリーム塗ってるぞ」

それは本当だった。母ちゃんも俺の手荒れを気にしていたから、一応は寝る前にはハンドクリームを塗るようにしていた。たまに面倒でつけなかったり、忘れることもあったけれど。

若島津はまるで他人の怪我を不意打ちで見せられた奴みたいな顔をしていたけれど、俺自身は本当にどうとも思っていなかった。女子じゃあるまいし、少しくらい手がガサガサでも別に気にならない。水やお湯がしみたりするのだって我慢出来る。
そもそも俺が家のことをやらなければ、母ちゃんか尊が代わりにやるしかなくなるのだから、そう思えば多少の不都合くらいは問題じゃなかった。

「大丈夫だよ。あったかくなれば、そのうち治るし」
「それはそうかもしれないけれど・・・」

俺が「何でもない。気にするな」と言っても、若島津は納得のいかないような顔をしていた。俺の手も離そうとしない。
だけど大きくて温かい若島津の手に包まれて、傷に触らないようにそっと撫でられるのは気持ちがよかった。

ただ一方では、そのことが癪に触っている俺も確かにいた。同い年なのに、若島津の方が手だけじゃなくて、背も足も何もかもが大きくてガッシリしている。そのことが少し・・・というよりかなり、その頃の俺にとっては苦々しいことだった。

「何だよ。お前の方こそ、手、見せてみろよ。俺よりゴツゴツしてタコが出来てるじゃんかよ」
「だって、これは空手でできたものだもの。手荒れじゃないし・・・。こうして皮膚も厚くなって、もっと強くなるんだよ。兄ちゃんだって父さんだって、もっとゴツゴツしてる」

それで半ば嫌味のつもりで「ゴツゴツしてる」と言ったのだが、若島津は意外にも嬉しそうに笑った。
そうか、空手をやっているこいつにとっては、「ゴツゴツした手」は褒め言葉なのか、と俺は頭の片隅にそのことを書き込んだ。

「日向さん。お願いだから手袋して。外に出る時はしてきてよ」
「・・・別に、したくなくてしない訳じゃ無くて・・」

つい、忘れてしまうだけなんだ      という言い訳は、言葉にならなかった。若島津が俺の手に口を寄せて、はあ、と息を吐いたからだ。

驚いた。
小さい頃に、父ちゃんや母ちゃんがそんな風にしてくれたことはあったかもしれない。逆に俺が直子や勝にしてやることならある。
だけど、男友達からされたことなんてなかった。女の友達はそもそもいなかったから、そんなことをするのが普通なのかどうかもよくわからない。とにかく男だろうが女だろうが、家族以外でそんなことをしてくる奴はこれまでいなかった。

おそらく俺は、たいそう間抜けな顔をしていたんじゃないかと思う。後に続く筈だった言葉も、宙に消えてしまった。

その日は寒気が入って来て、夜になったら雪が降り始めるだろうという予報だった。厚着をしていても徐々に熱が奪われて、身体が芯から冷えていくような、そんな底冷えのする日だった。実際、立ち止まっていた俺たちはさっきから凍えるようで、細かく震えていた。

だけど若島津の息をかけられる手だけは違う。指の先からじんじんと熱が伝わってくるようだった。

白い息が、若島津の唇からふわふわと生まれては消えていく。俺の手をほんの少しの間だけ温めて、瞬く間に宵闇の冷たい空気に溶けていく。
そのはかなさを、俺は追える限り目で追った。消えてしまうのが勿体ないように感じた。
俺が虚空に視線を向けている間、若島津は俺に自分の体温を分け与えるという行為を繰り返していた。

何度でも何度でも。自分だって寒いだろうに。


「・・・な、にやってんだよっ」

どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
我に返った俺が手を引きぬくと、若島津はキョトン、とした表情で俺を見返した。俺の方は恥かしいやら心臓がバクバクするやらで、頬が火照っててきて訳の分からない汗まで出てきたというのに。
なのに当の若島津ときたら、見る限りはいつもと変わらず、腹立たしいくらいに普段のままだった。俺は若島津を睨みつけた。

「あ、あの・・日向さんの手があんまり冷たいから、温めてあげようかと思って・・」
「・・・頼んで、ねえだろ・・っ」
「ご、ごめん・・!でも、すごく荒れてるし、痛そうだし、放っておけないよ・・!」
「俺は冷たいとも、辛いとも、言ってねえだろ・・・っ!?俺がそんなことで、一言でも弱音を吐いたかよ!」
「言ってないよ!言ってないけど・・・」

俺が一方的にまくしたてると、若島津は焦ったような顔を見せた。

「・・・ご、ごめんね!ごめん、日向さん。ごめんね、怒らせるようなことをして・・・そうだよね、気持ち悪かったよね」

別に謝って欲しい訳じゃなかった。そんなつもりじゃなかった。
ただでさえ苛々していたうえに、この一言が駄目押しで、俺の頭に更に血が上る。

「お前が気持ち悪い訳、ないだろ・・・ッ!・・・何言ってんだよ!この馬鹿っ!大馬鹿っ!阿呆っ!マヌケッ!」

今度は若島津が目を丸くする。「え、そ・・・そうなの?」と小さく呟いた。

「・・・じゃあ、どうして怒っているの?日向さん」
「怒ってなんかない!」
「怒ってるよ」
「怒ってない!」

正直言って、この状況で「怒っていない」なんて無理があるよな、というのは自分でも分かっていた。だけどそれを簡単に認めるほどには、俺は素直じゃなかった。

若島津は俺のことを心配しているだけだ。手が痛いんじゃないか、冷たいんじゃないかと、気遣ってくれているだけだ       そのことだって分かっている。若島津に他意は無い。
そして俺はそうされたこと自体が嫌な訳じゃ無かった。若島津が言うように気持ち悪い訳でもない。

なのに、俺はこいつのようには平常心でいられなかった。
手の甲や指先に唇を寄せられて、間近で若島津の顔を見たら、俺の頭の中はそれだけでいっぱいになってしまった。


伏せた瞳が、綺麗だと思った。
街灯にほの白く浮かび上がる頬も、寒さのせいで少し赤くなった鼻の頭も、手を伸ばして触ってみたくなるようなものだった。
もし本人に手を掴まれていない状況だったなら、俺はきっとそうしていただろう。


若島津はどうして俺が怒ったようになっているのかが分からなくて、しょんぼりとしている。悲しそうな、困ったような顔をして、俺を見ている。単に俺が羞恥や戸惑いを、自分の中で処理できなかっただけで、若島津が悪い訳ではないのに。
しかも、俺はこいつのこういう顔には弱かった。何の文句を言われなくたって、自分が弱いもの虐めをしているような気になる。

気まずい沈黙が俺たちの間に落ちた。
どうしたらさっきまでのいつもの自分たちに戻れるのかとジリジリとしていると、ふと若島津が上を向いた。その顔がパッと嬉しそうなものに変わり、弾んだような声を出す。

「雪・・・!日向さん、雪が降ってきたよ・・!」

それは居心地の悪い、妙な空気を払拭するには丁度よいタイミングだった。だから俺もそれに乗った。

「ほんとだ!・・・すげえ。次から次へと生まれてくるみたいだ。・・・キリがねえな」
「ふふ。キリがないって、そんな感想ってある?」
「うっせ。いいんだよ。俺はどうせ情緒なんて縁が無えからな」

雪のお蔭で、俺と若島津は何のわだかまりもないように話をすることが出来た。いつものように小突き合ったり、じゃれ合うこともできた。


「・・・かえろ。日向さん」
「・・・おう」

自転車を押して歩き出す若島津の隣で、俺も動き始める。
それから家に着くまではサッカーのことや学校のことを話していたけれど、その実、俺の頭の中を占めていたのはついさっき目にした光景だった。

街灯の頼りない光源だけが照らす中で、伏せられた瞳と長い睫毛。手の甲に触れそうで触れない唇。肌を撫でていく温かくて湿った吐息      

俺はずっとそんなものを思い浮かべていた。知らず背筋がぞくぞくして、時折思いだしたように身体も震えた。

「寒いの?」

そのたびに若島津が顔を覗き込んでくるけれど、俺は目を合わせることが出来なかった。
ただふるふると首を横に振れば、あいつは誰もが見惚れるような綺麗な顔をして「それならいいけど」と柔らかく笑った。




俺は多分、この日、この瞬間に恋に落ちた。
親友であり同級生でもある、小学生の男相手に。


実際には、それが恋だったのだと自覚したのは、もっと先のことではあったけれど      










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